吉田綾霊談集の紹介と管理者からの追加の一言を加えての

呪歌『のりと』 毎日唱える、2016年が峠。2017年は、超えられなかった人と超えられる人に分かれる

心  のりと

 

 

祓 詞

はらいことば

 

吾この魂の  遠つ祖

わが  たま   とほ おや

 

代代の御親  相立たし

よよ  みおや   あひた

 

斎串手向けて 霊幸ふ

いぐしたむ    たまちは

 

神の恩頼もて幾許の

かみ ふゆ   ここだく

 

い隠る汚れ  疊る

かく けが  たたなは

 

悪しかる咎を 速やけく

あ    とが  すみ

 

祓い給ひて  神業の

はら たま    かみわざ

 

成しのまにまに香ぐはしく

な         か

 

道別け給へと 畏み拝み

ちわ  たま   かしこみ をろが

 

白す

まお

 

 

守 詩

まもり ことば

 

吾この魂の  守り祖

われ  たま   まも おや

 

司の御親   今ここに

つかさ みおや  いま

 

御霊も清に  相立たし

みたま さや   あひた

 

守り給へば  吾魂は

まも たま    わがたま

 

光り彌増し  包みなく

ひか いやま   つつ

 

欺く幸榮へば 神業の

か  さきは   かむわざ

 

成しのまにまに香ぐはしく

な        か

 

道別け給へと 恐み惶み

ちわ たま    かしこ かしこ

 

白す

まお

 

 

祝 詞

たたへ ことば

 

家はしも 澤にあれども

いへ     さは

 

人はしも 幾許満つれど

ひと     ここだみ

 

吾家に  斎き祭れる

わがいへ   いつ  まつ

 

神々の  真貴し

かみがみ  まことたふと

 

これの家に 斎渡れる

や  いはい わた

 

隠世の   遠津神祖

かくりよ    とほつかむおや


代々の祖  守り給へば

よよ  おや  まもり たま

 

○○家の  親族家族の

け    うからやから

 

御魂等   ま幸居まし

みたまどち    さきくゐ

 

現世の  これの家人

うつしよ      いえひと

 

つつみなく 家の生業

いえ なりはひ

 

嬉しみと 人世につくし

うれ     ひとよ

 

神敷す  人の正道

かみしか   ひと まさみち

 

 

ま清かに 踏み行ふを

さや   ふ おこな

 

 

御祖等   御こころ安く

みおやどち   み    やす

 

 

平けく   納受へて

たひら     うづなひたま

 

 

子々孫々の厳し彌木榮

うみのこ   いか やくはえ

 

 

常磐成し  幸榮へ給へと

ときはな    さきは たま

 

伏して白す

ふ   まを


このページの目次です

  科学万能のこんにち即ち科学の万能性を盲信し知識人は確かに科学迷信に陥っていると思われます 

  先祖同志が阿修羅界で、血みどろになって争って居られた間はその写しとしてこの世でも、身内同志が争う

  力の相対の世の中、選択を迫られています。未来に生きるにも力は絶対的法則です

  悪因縁に花を咲かさぬ智慧はある、現状の一切を認めて受け入れ、

  真の仕事、魂の仕事、真の自由な生き方とは

⑥  精神統一について 
⑦  何事にもあまり厳しすぎると、どこかにひびが割れます
⑧  物と心の働き
⑨  苦しみを糧に魂を磨く、償いは希望と睡眠、思いわずらわないこと
⑩  因縁から解脱するには
⑪  心のあり方には疑問です
⑫  両変に滞らず、現実を大切に
⑬  因果応報の理、鰐ワニの涙
⑭  人生の不可解さと心の持ち方、動物霊の話(犬神と 管狐)
⑮  流転と因果関係の中の人生、死について
⑯  火について、霊視について、悪因縁を解消させるには、精神統一と坐 禅。
⑰  悟道三関、真の愛情と盲目愛、与えると共に受け入れの準備を、祈りの仕方
⑱  祭壇の意義、土地の神と家の神
⑲  善と悪との対立、万物流転、境遇、立場、背後霊の働ける場所をつくれ
⑳  心霊学は膚で会得、ツボ、悲しみに別れ、人生の貸借、素質と努力、苦悩と原因、本人の心得 
21
) 方位について、魂の真の喜び
22
) 人生の意義宿命の法則、執着をとること、心霊治療の精神統一、病気治療の原理、神霊的な智慧
23
)「運の話」、神棚と仏壇の祀り方、正信と迷信、守護霊と直結すべし 
24
) 人間の構造、肉体と霊魂、心の眼を開いて、
25
) 幸福への道、心の舵をとれ、成功とは何か、金に好かれる家、人生と金
26
) 霊力を強めるには、執着なく、心の病気を、天知る人知る、打算を超えるもの
27
) 万物は和合の因縁、背後と縫目なく、徳と才、人生と間、背後霊への願い事、オーラ(憑 衣)の変化
28)  
現在唯今こそ、読経について、水と川、因果律、与えよ、さらば与えられん、我らの楯
29
)大般若経、子は神からの預かりもの、神は有るか、無いか 
30
)平常心是心、守護霊と自分との間柄 
31
)唯物思想、唯心思想、
32
)神使、変化、背後霊の霊感を素直に受ける
33
)釈迦が出られてから約二千六百年、キリストが誕生されてから約二千年たつが 
34
)“謝三郎”四を知らない愚鈍者、何事も人より勝る行いがなくてはならない
35
)何時も満足で晴天白日の如く朗らかに暮らせましょう
36
)「情」は心の青二才、低次元の想念、不幸から抜け出す事は、大変手間がとれます。 
37
)不服だらけの世の中だ!それを列挙したら大蔵経とその量を争う 
38
)希望を持って打開策を練り背後霊に頼むならば、不思議と新たなより良い道が開けて来ます
39
)私等を導いて呉れるのは信です。背後霊を信じる事です。
40
)何事についても積極的にスジを通す
41
)人間のこの世に生かされてあるからは、必ず何か人並優れた得意のものを持っていまして
42
)私達は眼に見えない世界を中心に生きているのです。眼に見える世界だけで生きている訳 ではないのです。
43
)神は悪人をも捨てないが、善人は猶更お捨てになりません。
44) 
神が宇宙を創造された際には、想念が一定の形に凝固させる力であります。
45
)ぼけると言う事は家の事も国家の事も耳に居れたく無いという、いくじの無い消極的な人や、自分勝手の頑固者に多い
46)
与えられた任務には細心の注意を払い懸命に働くが、後は信頼して守護の霊に全面的に寄り掛かかって
47
)人間の想念は、良くも悪しくも自己の生活を変える魔力を持っています。
48
)成るべく自分が無くならなければいけません。
49
)直観とは、五官を経由する事なく、思惟作用を加える事なく、端的に対象の観念を得る知的作用を言う
50
)病をおそれ、死をおそれる人はさながら、犬は猛り追いかけ、ついにかみつくのであります。
51
)朝から晩まで、煩悩の流れの中に流転、この心は何の役にも立ちません。物事を破るという原理を持つ
52
)神仏の理念と一つに、随伴霊とは、自分が向上進化さす義務のある霊魂であります。

53)低級霊ほど恥をかこうが義理をかこうが、欲をかく。高級霊ほどより協力し、より一つになる事を目的に
54)金ほど人の心を冷たくし、争いの種となるものはありません
55)理屈ばかり言って居る人は、絶縁体をがっちり作って、苦労する
56)  生物の凡ては、労せずして何物も得る事は出来ぬ仕組みになっています。
57)心配し、陰気になったり、腹をたてたり、人を嫉んだりいたしますと、苦を長く引きのばす事になります。
58)自由には責任と言う裏書、 責任には反省と言う裏書、反省時には必ず高級霊との直結の場が出来て居る
59)河上の流れはきれいであるが、下流は濁って汚ない、上流の水も下流の水も同一の河であります。
60) 一瞬と雖も自己の心の中に、虚弱感や劣等感、憂鬱感や老衰感を滞らせてはなりません。
61)水は神のめぐみそのもの
62)幸せを望んではなりません。自己の努力ではない幸福は、自分の魂を向上さす事にはならないのであります。
63) それ程、住み良い世の中ではないものなあ。同じ力では性の悪い方が勝つから、霊的の応援が必要だ。
64)
科学者に発見してもらいたい細胞は、EP細胞でも、STAP細胞でもありません。反省する細胞です。
65
)水は無自性定、縁に従って種々に変化、然し水をはなれた水はない、即ち、祖神をはなれた自分などあろうはずはありません。
66
)人の生涯に二つの道がある。まちがった生涯は広い道(楽な容易)、正しい生涯は狭い道(邪心は通れず)
67
)兎に角、今の時代に、健康で長生きはできない。環境が悪すぎます。祖先の因縁でも何でもない。
68
)正しい薬、正しい処置がとられ、必ず全快いたします。つまり顕幽両界の力がものを言う。
69)  
自分の心で解決しようと思わず、守護の霊にお願いいたしますと、不思議と楽に直ります。
70
)これからの人間は、外国語で用がたせる男でなければ一人前の男とは言えぬ世の中だ。
71)  
人はとかく原因、結果の関係に於いてのみ見ようとして大切な中間の縁を、見逃している。

72)人間の蒔いた悪の種は、人間自身が刈り取らなければ、何時迄たっても因縁の種は、次から次の世代と続くものであります。
73
)一点の毒を含まない、毒なき言葉は相手の肝にドキンと響き、心良く反省させ善処さす事疑いなし、これ大人と言う。
74
)心霊精神を地で行く日常生活をする事です。この事は、広く地球上の生物を救う事にもなるのであります。
75
)神や仏が何でまあ罰など与えましょうや。只人は善行にはその程度の善を、悪には悪の報いを少しのくるいもなく受ける、
76
)人間はすべてのものを相対的にのみ見る習慣がある、前後ありと雖も、真理は矛盾しているようで矛盾はしていないのであります。
77
)永遠の時点に於ける自分の魂の状態は今この刹那の心の持ち方一つ、今この瞬間の自分の心が魂を浄め、国を栄えせしめるのであります。
78
)老子が孔子へ、走るものは綱で、泳ぐものはつり糸で、飛ぶものは網で、それぞれ自分の知恵で死に至る
79
)時間がない、暇がない、忙しい、気ぜわしいと嘆くのであるが、実は時間がないのではなく、時間を生かさず時間をむやみに殺してしまう
80
)忙しいと言う人に限って、怠け者が多い、悟るとともに行ずる人は時間 の余裕があるから、読書もできる。
81
)自分の根性だけでは病気は治せません、真摯に受け止めて病気を治すしかありません。
82
)人はいつも対立的感情を持っている生き物で、即ち、吉と凶、利と害、得と失、禍と福、好きなものは溺愛し、嫌なものは憎しみ、それから逃げようとする。
83
)神道、仏教、キリスト教、仙道ありてなおよく、その教義を得る事が出来る、森羅万象悉くもちつもたれつ

84)病人の治療を、霊界にお願いする時は、先ず本人の守護霊、指導霊を思念し、協会の治療霊団が立たれ、治療にあたられます。
85)経文とは、釈迦なる大霊が一百年から五百年間に渡って各々の僧に霊信されたものである 
86) 自分ではどうにもならぬ、悲しい運命の下に生を受けた、哀れな猫。もみ消す知恵を与えるものがあったら、火を消す事も出来よう。
87) おもてだけ見る肉の目、中程を見る知恵の目、背後霊と同一視する心眼こそ本当の世の中が分かり真実を観る事が出来る
88) 間違った希望を持ってしまうのも人間の業、諦めも必要、適当が一番良い様に思われます。
89)いかなる悪因縁あろうと、自分の心の志向する通りに変形させ、具象化さす事が出来ます。 
90)口で筆でも、教える事は至難であります、眼を開けて陰なき物を視、人の話聞きながら、陰なき声を聴く
91) 腹が据わるとは、腹が決まり、腹がきれいに掃除されている事を言う、口先、頭が動くだけでだけでは駄目
92) 機縁が熟していない者には、いくら立派な真理を聞かされても、馬事東風、反発こそすれ信じてくれません
93)立場が崩れた時、家庭がうまく行かなくなる、一針一針に心が、汗と脂と涙の努力、魂が入ってピチピチ。 
94)身も心も忘れ、役の人物になりきれる役者が千両役者、己が少しでも嵌入したら最後、その程度に応じ、大根役者となるものである。 
95) 我に守護の霊あり、低級霊決して同調せじと、思念する事が、仕事も順調になり、健康を維持し、人生を楽しく明るく大いに活躍する事が出来ます。
96) 怒り心や憎しみ、怠慢、嫉妬、名誉心など、いろいろ「懺悔せよ、悔い改めよ、しからば汝の罪消えん」 
97) 山芋は掘っても掘っても根深く、掘ろうと決めたらいかに深くとも掘るべきなのに、めめしく文句言い言い掘る
98)人は皆過ちを冒して、この一生を過ぎて行く、過ちを冒し続けている、悲しい存在とも言えましょう。 
99) 知性と言うものは人間に鋭い目を与えるもので、兎に角、批判を主とするから冷たくなりがちになります。
100) 賢明、富、偉大であっても、人は幸せになりません。魂のみが、幸せの作り手であるからです。
101)三昧とは、与えられている立場に於いて、心をその所に止めて動かない、仕事に満足し、努力し、大丈夫心
102) 私達は一つ一つ、道理と真実の目で、今の間違った世界に振り回されずに、世の中を眺めていると、意外な真実が発見できるように思われます。
103) いずれの霊と交渉を持つかは、全く自分の自由意志、霊魂の巣、悪因は、子孫に流さず、この世で消滅させ
104)寂寥感は守護の霊のアンテナが不調和になった時の危険信号、長く続きますと、ノイローゼになります
105) 神呼歌一ヒト、ニフタ、三ミ、四ヨ、五イツ、六ム、七ナナ、八ヤ、九ココノ、十タリ、百モモ、千チ、万ヨロズと結びます。
106)かえって、反感を持たし、それは注意する側に、名利愛憎が鼻の先にぶらさがっているからであります。
107)その子のヘソの緒、大切にして置き、そのものの死とともに一緒に焼いたり、土葬にしたりしたものです。
108)欲望が満たされぬ時、破壊的精神になり、人としての雰囲気が違って、低級霊が肉体を占領し、人に迷惑をかける。
109)死んですぐ成仏出来る、などと思い上がる、常に自分に甘ったれるな、と声を大にするものであります。
110)人に与えると言う事は魂の一番喜び? 自分のした事が人の役に立ち喜ばれる? 他に魂の喜びはない?
111)“世”は縦の糸で宿命、“界”の横糸は智と努力、一生中に如何なる織り物を織り上げたかによって、その人の価値が定まる。
112)極楽浄土へ往生、そんな簡単なものではありません。因果業報の厳粛な鉄則、結局は泣きながらでも刈り取らねばなりません。
113)イザナミの神は地の母、イザナギの神は精神化、霊的の神、共に陰陽を結び、物の完成せらる大霊で、
114)今の時代は、人間よりも、天の方が逆鱗に触れている様にも思われますが…。
115)霊界でも、何事か評議される時、口角泡を飛ばす時がありますか?専ら責任を以てどしどし断行するから、すぐ決定するし、時間が娑婆のようにかからぬ
116)人間の寿命には限りがある、養生すれば少しは長持ちする、子供でも知っている。
117)誤らぬ判断力を統一しうるには、魂の純化をはかる事が大切、感情の純化と意志の力、水とダイヤモンド。

118)御先祖の御恩を偲び合い、感謝すると共に各自の実生活のあり方を静かに反省して、悟りを開く日が彼岸
119)秋は一年の中で、はっきりと光り輝く時、内への完成、これを人間に喩えれば男女共に円熟、
120)修業者とある以上、決して苦になる状態がないのではありません。苦しみがありながら苦しみでなくなると
121)体験とは、一体何でしょうか。万葉調の呪歌。歌の持つ力、同じ言葉を、何度でも繰り返す事が必要です。
122)万葉調の呪歌、歌の持つ力によって、如何なる邪悪の念も打ち消し、ひたすら光明のみに導く…。
123)危ない思いをしながら、利益をそっくり取られてしまう、お人好しを諷した話、人のおだてにのらぬよう、それには、常に智恵と力量。
124)自我とは、忌むべき醜い欲望、極まりなき我執の暴力の心、真我は、楽しみを追うものでなく、喜びを主とし、他人に寄与
125)口癖の様にお金を勘定しながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、お金の勘定をしている妄念念仏。
126)大和ナデシコならぬ、夫が出世するもせぬも、その妻の匙加減、
 

①科学万能のこんにち即ち科学の万能性を盲信し知識人は確かに科学迷信に陥っていると思われます

2013-09-11 03:52:40NEW ! m-6458の投稿 
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吉田綾 霊談集・上

(財)日本心霊科学協会

『吉田綾霊談集』(上・下)は、稀代の霊的能力者吉田綾師( -1979.7)が精神統一研修会において高い霊界から受けた教えを、協会の参事会が編纂したものです。“真理の言葉”は『吉田綾霊談集』の中から、その瞬間一つの霊談を選んで紹介してゆきます。この教えは、時代や場所によって変わることがない人間が生きる上での永遠の真理です。心を鎮めて、下のボタンをクリックしてみてください。現れた言葉の意味を静かに考えてみましょう。今、あなたにとって一番必要なことかもしれません。ストレスの多い現代社会で暮らす皆様が、癒され、勇気付けられ、光明に満ちた毎日をお過ごしになることを祈っております。 

 

²  霊魂とは何か

昭和四一年年頭における入道霊の霊訓(一月九日))

神霊研究する人は、常日頃、人の模範となる生活をしつつ、物心共に恵まれますことを背後霊談は念願としております。 さて、心霊研究者は、心霊の問題が、霊魂の概念をはっきりしておかないと、兎角、迷信に流れやすいということを、知っておくべきでありまして、今日はその霊魂についてのお話をさせていただこうと思います。

●科学迷信に陥っている人たち

過日、或る処で、霊魂についての議論を、こちら(霊界)から観ておりますと、「月旅行も可能にはならんとする科学万能のこんにち、我々は現代人として、この目で見ることができない霊魂の存在など、もうとう考えられないし、認めることはできない」と偉そうにうそぶいておられた知識人を観ました。

ただ不可能なことには、この知識人は。霊魂とは何か、と言う問いに対して、一言も答えることができませんでした。

人間、なにごとにおいても、そのことに対していくらかの知識を持たない限りは、そのものが存在するとか、あるいは存在しないということは、言いきれないはずであるにも拘わらず、この目で見ないから、みとめることはできないとは、一体どういうことでしょう。

また「科学万能のこんにち」などという点は、この知識人は確かに科学迷信に陥っていると思われます。即ち科学の万能性を盲信し、限られた範囲と限られた手段による認識以外を、一切存在しないものだと決め、将来書き改められる可能性のある自然の解釈を、すべてこんにちの時点の解釈に限定しようとしているのでありまして、このような考え方を私共は科学迷信と呼んでいるのであり、この種の知識人が、今日の知識階級の大半を占めていることは甚だ残念なことであります

●霊魂とは何か

ともあれ“霊魂”とは、智・情・意の働きを可能にし、その心的経験の一切を内包しつつ、進化の過程を辿り行く心的統一体であります。

地球の遠い遠い御先祖は、この霊魂のことを“たま”と呼び、また“みたま”、“おもいみたま”と称しておられました。こんにちでは、心、魂、意識、また一般的に言う、精神、根性などもこの霊魂に他ならないのであります。

また霊魂を単に“”と言う場合も少なくないのであります。神霊・司配霊・守護霊・背後霊・指導霊・補助霊・帰幽霊・自然霊・憑依霊などもこの霊魂に外ならないのであります。

●生命力と霊魂

しかしながら霊魂という言葉は、生命とかあるいは究極の実在という意味にも用いられる場合がありますので、この点は余程注意が必要と思います。

たとえば、石にも霊が宿っているとか、一切の存在に霊が宿っている、などに使う例の意味は、もちろん、この霊魂ではないのであります。

ここで用いられた霊の意味は、つまり、広い意味においての一種の生命力、あるいはまた形而上学的な究極の実在を意味するものだと思います。

●生命力とはなにか

さて、この生命力と言う言葉は非常に広い深い意味を持っております。

そもそも人間とは、肉体・生命・霊魂の三位一体が構成しております。その何れが欠けても、人間として生きていくことはできません。たとえば、肉体があっても、霊魂があっても、生命力が加わらなければ、生きて行くことはできません。たとえば、肉体があっても、霊魂があっても、生命力が加わらなければ、生きて行くことはできません。ではこの生命力とは何か、と言いますと、それは森羅万象、生きとし生けるものを生かす“神の力”であります。生命力つまり字の如く、命を生かす力であります。

これは皆様の先祖は、天の寿命、と申されております。

しかしこの、天から授かった寿命すらも、霊魂の“我”によって、“縮めたり”あるいは急に“遮断したり”することができます。“縮める”とは“怒り”“憂い”“悲しみ”“憂い”“悲しみ”の心で、これが天から与えられた寿命を縮めるのです。

また“遮断する”とはいわゆる“自殺”のことであります。(この自殺行為が、いかに深い罪であるかは、また次の機会に述べさせていただきます)

●生命力と本能

それから、生命力の中では、“本能”が非常に広い場を占めております。

本能とは、人間の場合など、赤ん坊が生まれながらにして乳を吸ったり、年頃になれば、みめかたち麗しく、男性に心惹かれるなどは、その現れでありますが、人間以外の動物においては、更に顕著に発揮されるのであります。

たとえば、北国において、今年は雪が少ないか予め知り、毎年来る同じ鳥が、雪の深い時には高い枝に巣をつくり、少なく降る時には、下の枝につくるなどは、その現れであり、また冬眠する蛙や蛇が土の深い所に冬眠するのは、予め雪の深浅を知っているからであります。

●霊魂の進化

さて、本筋にもどって、霊魂の進化と高級霊、その中では神霊と高級霊を分けて話しさせていただきます。それから低級霊とはいかなる心的内容を持つかについてのべさせていただきます。この概念がハッキリしていないと、兎角迷信に流れ易くなります。

先ず、霊魂の進化とは、霊魂の内容そのもの、即ち心的内容の進化と言います。前述した通り、霊魂とは、智・情・意の働きを可能にする心的統一体でありますから、霊魂の進化には、とりもなおさず、智・情・意においての進化がなければなりません。

霊魂の進化とは、即ち智・情・意の深化拡大であり、それはまた、意念の強化と惰性の純化によって、その心的内容の調和が高まりつつ、聖化に至る過程を言うのであります。

●神霊

次に高級霊は、これを神霊、つまり神の霊と、高級霊とに分けて話した方が分かりよいと思います。

神霊とは、高度の進化の結果、聖化し、純化し、宇宙の大霊の中に融けこむことのできた心的内容を持つ霊魂であります。

この神霊にも段階がありまして、最高神とはいわゆる宇宙を経綸される方で、次は森羅万象、生きとし生けるものを生かし、育て、肥らせ給う根元である太陽神から、次に、色々の部門を受け持たれる神々がおられます。

しかしこの神々は、如何に心境の高い霊能者に対しても、我、神なり、といって御神託などは決してなさいません

もし、御神託があるとしたら、その霊能者の肉体及び霊魂は、その光と熱と振動とによって、本端微塵に砕けてしまうでありましょう。

●高級霊

次に高級霊とは、顕幽両界の法則を多く知っているが故に、高級霊になればなるほど、境地を高く持たざるを得ないのであります。

そして最高の高級霊は、神の補佐として、つまり類魂の司配霊であられまして、また一人で働くということばかり考えないで、より多くの高級霊と力を合して、未熟な霊を進化向上さすことに、顕幽両界にわたって、働きかけておられます。

すなわち菩薩行を行じておられるのを高級霊と申します。

●低級霊とは

また、低級霊とは、無知の霊、初めから智慧がたりないのではありませんが、一口で言うならば、高級霊の働きかけがない霊を言うのであります。

よしんば、働きがあっても、それを“我”によって遮断し、己がの中に閉じこもり、孤立心強く低級な欲望を満足させんがために、常に生体(生きた身体)をうかがい狙っている人間にとってはこの種のものに憑依されますと、事ごとに不幸になって行く危険千万な霊であります。

 

転載者からの一言

この霊談集は、初めに貼りつけられた文章からも、広く世に広めたいとおっしゃっておられていますので、たぶんクレームが入らないのではないかと思われます。入りましたら削除させていただきます。

私は色々なセミナーに通っていた頃に、霊能者という方々ともお付き合いをさせていただきました。その方々から、教えて戴いた場所がこの研究所でした。他にも、宇宙の理、白光からもお誘いがありました。みな、それぞれに熱心であります。私には、どうもなじめません。

現代の認知症は、もしかしたら、霊魂の病気ではないのかな。それならば、この霊談集を紹介してみようと思いました。

しかし、この本は、聖書のようにとても長い文章なのです。どこまで書けるか私に自信がありませんが、これから、私と御一緒におつきあいいただけましたら、幸いです。ありがとうございました。(2013.9.11)

②先祖同志が阿修羅界で、血みどろになって争って居られた間はその写しとしてこの世でも、身内同志が争う

2013-09-12 05:24:46NEW ! m-6458の投稿 
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②吉田綾 霊談集・上

(財)日本心霊科学協会

 

²  生まれてくるまで

今から私が背後霊から霊視させられ教えられて、今なお信じて居る話をさせて頂きます。

神界はそれはそれは厳しい秩序がありまして、一々最高神の神々が動きだされる様な事は致される様な事は致されません。神々にはいろいろ役目がありまして、その役目に適した諸霊が配置されて居ります。丁度我々が天皇陛下に直接私事でお話し致したくも、たやすく出来ないと同じ事です。

では我々に最も関係の深い神は何の神様かと申しますと、それはその住んで居る土地の産土ウブスナの神様でありまして、その神社を霊視させて頂きますと、奥の院には古代の衣冠束帯をした髪の白い「何々の命」と言う様な男神や、又十二単衣を召した女神も居られます。然し、たまには紳士の奥の院に居られる祭神が交代され、別な祭神が居られる事もあります。

ところで、ある婦人が妊娠致しますと、その一、二ヶ月は母体の一部でしかありませんが、四、五ヶ月位になりますと、体内の胎児自らの営みが始まり、そして胎児が動き始めます。

この頃になりますと、その所属している類魂中の高級霊の協議が行われ、その胎児の祖霊中から守護出来得る心境にある霊が選ばれるのであります。選ばれたこの霊はその胎児の生まれてから死ぬ迄の守護霊をして、先ずその胎児の土地の産土の神に、厳かに礼儀正しい挨拶に行かれるのであります。

その頃ともなれば母体側では、岩田帯をしめ、内祝いを致します。この様にして神界・類魂・祖霊等のなみなみならぬ準備がなされましたにも拘わらず、人間の浅知恵の我が儘から、胎児の生命を人工的に断ち切り、堕胎する様な事があると致しましたら、それは人殺し同然大きな罪事となります。

又、周囲の愛念を受けてめでたく生まれ出ましたからは、御宮参りすることは当然なことでありましょう。時に赤ん坊が誰も居ないにも拘わらず、空間を見て、いかにもささやきかける様な顔で笑って居る事を廔々見かけます。あれは赤ん坊自らの守護霊を見て笑うのでありますが、大人はこの様子を見て「赤ちゃんの虫笑いだ」と簡単に思っています。

²  霊魂と大脳

霊魂は、心的経験の一切を収蔵する心的統一体であります。

心的統一体という言葉は、その過程が大脳の生理過程では無いと言うことを含んで居ります。

生体は霊魂が人間世界において、自己表現をしたり、また人間世界を経験したりする為の媒体として重要な機関即ち道具であって、その生体の一部であるところの大脳は、心的過程と最も密接に関連するところの媒体としての道具なのであります。

それは人間にとって極めて大切な道具であるけれども、あくまで霊魂の為の道具なのでありますから、大脳の一部に異常が生じて心的状態に異変が起きる事があっても、その事から遮断して大脳の生理過程そのものであると考えたり、心が大脳に宿ると考えたりする様な過ちを犯してはなりません。<No.233                                           

²  背後霊に対する心構え

人間の努力だけでは、どうにも心細い事があります。自分の背後霊に祈る場合、単なる儚いハカナイ希望の表現であってはなりません。それは既に聞かれたという徹底的確信にならなければ本物ではありません。

あなたの祈りがそこまで到達した時、初めてあなたの守護霊は、その祈りの事柄を神仏にお取り次ぎ下され、必ず祈られた事柄が、形となって実って参ります。

背後霊の仲立ちには、迷いの波長は混信致しませんので、あなたの波長は即高い波長を持たれる神仏に届きません。万一高級な神仏が、直接あなたにかかられたなら、おそらくあなたの肉体と魂は、その高い振動と熱とによって微塵に砕け散ってしまうでしょう。

その誤らざる中継ぎの霊が大切であります。

斎官が、神前で小礼をし、次に大礼を致しますが、あの小礼は自分自身の背後霊に委嘱するのでありまして、しかる後に神前に大礼し祝詩の泰上となる、宜ウベなる哉カナであります。  No234

²  精神統一について

神霊の根本義を一言にして言い尽すなら、性・空・因・縁の四字におさめられましょう。

性・空は実相論の内容であり、因・縁は縁起論の根底であります。実相論からは当然“無我観”が出て来ましょうし、縁起論からは当然“因果観”が出て来ます。

この両者は同一物で、また同一物の両面でもあり、固より不可分のものであります。

この不可分の両者を体当たりで、活きたまま完全に促える修業が統一であります。

心霊学は耳口三寸の学問では無くして、座臥進退がすべて道に適う迄の深いものでありまして、普通の学問なら、一通り理論さえわかれば、それで済むかも知れませんが、心霊学はそうは行きません。神霊主義が身にも心にも滲み込んで、それが手の舞い、足の踏む処に活現して来る程でなければなりません。

ここに至って初めて、高級霊か、下級霊かの見分けがつくものでありまして、修業が積まれて、心霊学が真に我が物となれば、戸を開けるにも閉ざすにも、或いは草履を脱ぐにも部屋を出入りするのにも、又は寝るにも起きるにも、四六時中皆道となって現れ、その人の行為の上に、隙間がなくなり、下級霊などの入り込む余地を与えないと言うことになります。心霊学に志す者、この決意で進みたいとものであります。

²  当教会の意義

この協会は、宗教には属して居りません。従って夫々皆さまの御先祖が信じて居られた宗教そのままを生かし、先祖の御霊の供養向上をはかりながら、自分自らの魂の進化向上をはかる所であります。

「医者が見放した癌、分裂症、喘息が治った」と喜ばれても、誰一人として演壇に立って、そのお恵みの話しをしたり、又は雑誌に誇張して書き立てたりは致しません。

それは何故かと申しますと、心霊に誠心を尽くせば物事に調和が出来、自然に恵まれてくるのが当然だからであります。

例えば今日或る人が「私等兄妹は、十年来逢わぬ様避けて来まして、何かでどうしても顔を合わす場合でも、互いに顔を背け一切口をきかぬ事にしておりましたところが、先日私の近所に居る者が兄夫婦に会ったら私に、少しは遊びに来て呉れ、と言伝と土産物まで届けてよこしました。おかしな事があればあるものと、家族一同、不思議だと、話して居るのです」と話されましたが、それはそうなるのが当然の事で、つまりこの人の先祖同志が阿修羅界で、血みどろになって争って居られた間は、その写しとしてこの世でも、身内同志が争うからであります。

その阿修羅界で苦しんで居られた先祖の霊魂を、協会の霊団が知るところとなって、争う心を止めさせ、魂を向上させる心に振り向けさせたからであります。<No.236

²  心霊知識と常識

心霊学徒は、常識を超えた世界を知る研究をして居るのであります。

常識の世界に縛られて居る間は、その人は少しも進歩しないのであって、常識はその時代一般の平均的知識のレベルで、誰もが承認する事の出来る事柄であって、それ以上が常識を超えた世界となるのであります。

そして時代と承認する事の出来る事柄であって、それ以上が常識を超えた世界となるのであります。

そして時代と場所との双方又は一方が異なると、その平均的知識も異なります。

或る国で、或る時代、普通の常識の事でも、他の国または人種の違った所へ持って行きますと、常識はずれの非常識と笑われます。

それと同様に常識を超えた事を申しますと、笑われる事があります。例えば夜尿症・分裂病その他憑依霊関係のものは徐霊すれば治ります。バセドー氏病は先祖に首くくりの霊が未だ覚らず迷って居るからだ、と言っても心霊を知らぬ人には非常識な事を言うと笑われるでありましょう。

でありますから私は霊視したものの本体を言うと笑われるでありましょう。

でありますから私は霊視したものの本体は言う事は止められています。それは心霊知識が一般の常識になる迄は、余り正直に言わない方がよいためと、また一つには、迷って居る霊を本人に告げるだけでは何もならないからであります。

高い背後霊は、見る人と見られる人双方の利益にならぬ事は申されません。否言ってはいけない事になっています。又申し上げたとしても、後で本人にしこりの残らぬ様気を使わねばならないのであります。

 

紹介者からの一言

一挙一動の振る舞い、四六時中皆道、

歌舞伎の早乙女太一の舞をユーチューブ時々見ます。それこそ一挙一動、神霊的な舞いと思われますが、四六時中には疑問が…。武道、お茶やお花、お習字、詩吟、俳句に、神霊の学びがありますね。

私と同じ年齢の高齢者?をみると毎日お稽古事の習い事に行かれています。私は少し疑問があります。いい年齢をして、いつまで習い事をするのかな?むしろ、人生経験を生かして、若い方を導くお仕事をされるといいのにと思います。せっかく、苦労して生きてきて、それを未来の子供や達や若い人たちを育ててほしいと思います。

私は、学びは、受け身の教えで、自由意志のない、自立心の芽生がないと思います。教える方に学びが多いと思います。いい年齢になったら、教える立場にならないといけないなと思います。若いインストラクターに教えてもらっているお年寄り、若い方に介護されているお年寄り、あまり美しいものではありません。病院に行って、医師の言われるままにお薬を服用している姿……。もう少し、お年寄りがしっかりして欲しいものです。

娘がリウマチを患った時に、この協会を訪れました。真の憑依霊は少ないそうです。自分自身の、特に親に問題があったように思われますが、それは口に出されませんでした。私の子育てに問題があったように思われます。反省するばかりです。

 (2013.9.12)

 

③力の相対の世の中、選択を迫られています。未来に生きるにも力は絶対的法則です

²  あなただけの使命

この世に生まれて生きて居ると言う事は、世界広しといえども、あなたでなければ成し得ぬ使命帯びて居るからであります。

その使命を完うさすために、つまり先祖代々流れて居る悪縁は消滅し善縁はより大にと、あなたの背後霊は常に働かれるのでありますが、これは類魂中から選ばれた特定の高級霊で、あなたの凡てを見通して居られる霊です。

そして常にあなたの守護指導の任に与えられて居ります。

あなたはこの背後霊の方へ心を向けなさい。この無限の智慧者心を向けるならば、そこから出て来るヒントに従って素直に事を運ぶ時、どんな困難も完全に克服出来る様になります。<No.238

²  絶対の世界

宗教学者は、宗教と言うものの最後は聖であると申しますが、これは分別の世界には“真理”、倫理の世界には“善”、芸術の方は“美”で、宗教の方にはもう一つ“聖”の世界と言うものがあると言う人があるのです。

ところが心霊的体験からすると、聖も無ければ真も善も美も無いもので、そう言う事を色々と名付けて居るのは、未だ相対の世界に滞って居るからです。そこを突き抜けて、滞らない所に飛び出ると、事々無碍ムゲなる所つまり遊戯ユゲ自在で、無限の創造が可能な世界に入る事になり、従って「我欲するものすべて我に集まり来たり我欲せざるものすべて我前から姿消す」と言う事になります。

²  心の世界の法則

自然界の法則を破った時は、それだけの咎を受ける事は誰でも知って居ります。

余り熱いものに触れれば火傷を生じるし、自動車に衝突すれば怪我をする、こんな事は当然の事であります。

然し精神界の法則を知らないで、心で人と衝突すればどうなるか?やがてそれが自分の身体及び子供の身体に報いて来て、胃病となったり、頭痛となったり、神経痛を起こしたりして居る事を知らない人は、随分多いのであります。

協会の背後霊は、常に「心の角で怪我するな」と言われます。心の世界にも「蒔いた通りの種子が生える」と言う厳然たる法則があります。「人を呪わば穴二つ」とか、泣きっ面に蜂が刺す」「笑う門には福来たる」などと言う諺は心のほんの一部を説いたものです。

人に親切にし、常に明るくニコニコして居れば幸せになれるとは、何と楽な人生ではないでしょうか。No.240

²  人生と因縁

因縁を生ず」とは、因縁をいやがって殺す事なく有難いという気持ちで一日一日を永遠の一日として暮らして行く事で、今日一日と思えばどんな事でも苦にはなりません。

あなたは今心の病にかかって、自己限定して居られます。百尺竿一歩進めて、その日の仕事に死に切られまして、役にも経たぬ妄念と遊んで居られる事を止める事です。

不幸になって居るのには、二通りの形があります。

.心掛けの悪い横着者、これは未来が思いやられます。

.短命的なもの、 これは一切を受け入れ、善処する事によって一つ一つ消して行けば、未来に光明が見えます。人は前生そして未来をつなぐ今生に居るからであります。<No.241

²  個人と社会

この協会で働かれる高級霊は、上来菩提下化衆生の二大思想を持っておられます。

上来菩提とは自己の人格完成でありまして、下化衆生とは理想社会の建設であります。

つまり表面上は自と他との二つの目標に分かれている様に見えますが、自己という個人も、社会を離れては存在しません

又自分をつきつめればつきつめる程、大きな社会、否大宇宙との相関的な存在にある事に気がつきます。

確かに第一歩の踏み出しは、自己の問題から出発したかも知れませんが、自分だけでは問題の解決は出来なく、大きな社会的な制約を受けるものだと知った時に、自他共々手をつないで、理想に邁進しなければならないと知るのであります。

又その逆に社会を良くする事を念願としても、個人の人格向上の努力を払わないで大言壮語しても、他人は納得して呉れません。

自己完成理想社会の建設とは、二にして一であり、決して分離したり、相反するものではありません。これを古人は“内聖外王”という言葉で表しております。

よく「制度を変革すべきか、人間を改善すべきか、どちらが先であるか」など悩んでいる若人がありますが、先ず自己の内心に省み、また手直に世の役立つ事から、始めるべきでありましょう。

ある考え方の上に築かれた理想社会の夢を抱き、それを実現するスケジュールに挺身して、政権を奪収し、自己の信ずる理想社会の建設を行った国々があります。

しかしこれらの国々の必ず歩んでいる道は、人間の私欲、弱さ、みにくさからくる権力争いでありまして、その中で強い者、巧妙に立ちまわった者が、適当な思想や主義の口実をつけて、他を反逆者として処刑し一帰して、自己の派閥の永久的権力支配のための、独占階級をつくり上げる事であります。

彼らは自分たちが、かつて攻撃した独占支配階級と同じ事を行っておるのでありまして、自己の独占的支配のために国民を外部と遮断して盲目としたり、やたらに外国との敵対関係をつくって緊張状態に置いて窮乏に耐えさせたり、批判や行動の自由を弾圧してそのために巨大な官僚機構をつくり上げ、官僚主義のために身動きのとれぬ状態をもたらしているのでありまして、最低の衣食住の他は、生産やサービス業の独創的発展もなく、文化の向上も望まれずに、すべては計画と一つの枠内の思想行動しか許されぬ、言わば柵の中に飼われている牛や豚の様な、あわれむべき状態にあるのであります。

ソ連・中国をはじめとしてユーゴ、キューバ、東独に至るまで、この例でない国がありましょうか。

この様に、制度の変革だけでは、人間の幸福を実現することは不可能でありまして、同時に人間の変革、向上、自己完成の努力がなければならないのであります。<No.242

²  相対的関係の法則

相対性の世界は、即関係のある世界を意味します。そしてすべての相対的関係は、絶対的法則に縛られている。だがすべての法則は、物的存在と言わず、心的価値を問わず、必ず力によって存在し、その力は空間的には変化性、時間的には成長性或いは推進性をもつことを約束せられ、その約束には、必ず精神的価値に限らず、物的存在の電子に至るまで、選択性を持っているものであると本協会背後霊団は言われます。<No.243

 

紹介者からの一言

真善美聖、さらに、そこから飛び立つ時代のようです。二極化の世界、真善美聖の言葉にこだわりがあって、その考えから脱け出さない限り、本当の自由はありませんね。それにこだわりがあるから、衝突してしまうのですね。分かりました。もうこだわりません、どうでもよくなりました。でも、こだわりがなくなるのは結構なことですが、どうでもいいと思うのは早合点のような気がしてきます。こだわらずに、もう一歩進むにはどうすればいいのだろうか?受け入れることですか…。そうですね、偽りも、真実も、善も悪も、醜も美も、聖も悪霊も、皆同じレールの上、表裏ですね。心が変われば、コロコロと力のある方に引っ張られてしまいます。左右に行ったり来たりで不安定なのが人間の心です。気分次第で、どちらにも転びます。そうするともう一歩進まなくてはなりません。言うは、易し、行いは難し。どうすればいいのでしょうか?気にしないことですかね、気にならないように、無関心というか、関心を持たないことがいいのかも知れません。そして、自分の好きな事は止めないで、真善美聖とは関係なく好きな事は好きな事なのですから、投げやりになれば、そのレールから落ちるだけですので、今までの苦労が水の泡になるだけです。それだと、未来に繋がりません。頭を切り替えて、他の方法を考えることが大事です。だから、ブログには書かないで、私のホームページに書くことに決めました。今までのブログの私の読者の皆さま、こちらの記事に気づいてください。毎日書きます。(そのつもりでしたが、疲れて書けない時も出て来ました。出来るだけ書きます)

五億年かけても、まだ争いや戦争から脱け出されていない世の中です。壮大な目標に一歩でも近付くには、今の世の中の真善美聖の原因の人間の悩みなど、その壮大な計画から比べたら、まるでまるで、ちっぽけなものです。一つ一つ受け入れて、一歩でも前に進ことが、大切な時期でもあります。ちっぽけな争いをしている暇などはありません。私たちは魂を磨くことの方がずっとずっと大切な時期です。今生は力の相対の世の中です。力の相対の世の中は物、心に関係なく絶対的関係があるようです。どちらかの選択を迫られています。未来に生きるにも力は絶対的法則です。何に力を注ぐべきか、価値が有る、無いではなく、力がある方に世の中は流れてしまうのが法則のようです。何を選択しても宇宙は痛くも痒くもないということなのでしょうね?

今日も読んで下さり、ありがとうございました。(2013.9.13)

④悪因縁に花を咲かさぬ智慧はある、現状の一切を認めて受け入れ、

²  因・縁・果

因果律をはっきりするには、因縁果の三法を立ててみる事です。

同じ苗木を植えても肥料や手入れ如何で、花の咲き映えがおおいに違って参ります。この場合苗木は因であって、肥料・手入れは縁であり、花は果であります。

しかし普通はに納めて、因果と習わしているのであります。

では「どうしても先祖から流れている好ましくない悪業の因縁は消散させる事が出来ないのか?」「先祖の蒔いた種は必ず何かの形で、子孫が刈り取らねばならぬのか?」と言う事ですが、先ほどの苗木の話のように縦の因果だけを考えず、横の縁を考えて悪の花を咲かさないよう、つまり先祖から流れている悪因縁に花を咲かさぬ智慧はあるのでありまして、その智慧は心霊家のみが、これを未然に消滅せしめ得るを知っているのであります。<No.244

²  現状を肯定せよ

人間は常により良きものに、そしてより高きものに、しかもより優れたものに、そしてより美しきものと、常に向上と進歩を求めて止まないものであります。

そこでそれを成し遂げようとするには、現在における自分の働きをより充実させ、より向上するよう努めなければなりません。そして現在をより良くするためには、先ず現状の一切を認めて受け入れ、これを納得する事が必要でありまして、現在不満があったのでは、到底その人の活動は充分な力、即ち背後の御力を頂く事は出来ません。

うつせみの 七つの心さながらに かげと知れこそ ゆめなふみそね

七つの心=憎み心、妬み心、怒り心、憂い心、焦り心、競い心、揺ら心

234

紹介者からの一言

韓国や中国がどうしてこんなにも日本人を、日本の国を目の敵にするのでしょうか?と考えた時に、何かの因縁を感じられてしまいます。太古の時代から、引きずっている因縁があるとしか考えられません。最近の戦争だけではなく、鎌倉時代の蒙古襲来、それよりも以前から、もしかしたら、縄文時代から、朝鮮や韓国、中国と日本の御先祖様たちは色々な関係でしっくりいかない因縁を引きずられて、今世紀にまでその悪因縁を引きずっているように思われます。今、新しい時代を迎えるに当たって、その悪因縁に目を逸らさないで、しっかりと向き合って、解決する智慧を考えて、対処しなくてはならないのではないのかなと思ってしまいます。

相手を正論で批判しても解決できるとは、どうしても思われません。

真善美聖を乗り越えた解決策だけが解決できるのではないか思われます。過去から引きずっている問題を今生の私たちがしっかり受け止めて、乗り越えない限り、新しい時代は来ないのではないかと思われます。

東京オリンピックの土木工事をされた時に、地下から縄文時代と思われる手足を縛られ、拷問を受けたと思われる白骨死体があちこちから出てきたとも、聞きます。いちいち、それを検証していたら、工事が進まないので、それを無視して工事を進めて東京オリンピックが開催されたとも聞きます。

英国でのオリンピックの会場が昔のギロチン場所だったとも聞きます。

みんな、残酷な場所でお祭りごとを開催しているのです。

今回、中国や韓国が日本批判をされながらも、東京オリンピックの開催が決まった事も何か、御先祖様の因縁があるとしか、考えられません。悪い意味ではなく、気づいて欲しいだけに過ぎないように思われます。

つまり、黒人奴隷やインディアン迫害が縄文時代の日本にもあったのではないのでしょうか?それを批判するつもりはありませんが、人間の歴史を振り返ってみると、神様の捧げものにいけにえの儀式が当たり前であった時代、奴隷もあたりまえであった時代、戦争もあたりまえであった時代、虐殺もあたりまえであった時代、原爆や原発もあたりまえであった時代、それは一つの通過点に過ぎないと理解しなければいけないのではないでしょうか。つまり、良い、悪い、真善美聖を乗り越えた目、でなければ、解決できないのではないのでしょうか?

今の時代の私たちが出来る事は、そこに気づいて、頭を下げて御先祖様に対して供養して、御冥福のお祈りをするだけで済むのを、みんながその現実から、目を背けているので、悪因縁に引きずられているとしか考えられません。今の繁栄は御先祖様たちの犠牲の上での繁栄である事を、私たちがしっかりと噛みしめて、御先祖様の冥福をお祈りして供養をするべきではないかと思われます。

昔の時代に生きてきた御先祖様は、縄文時代とはいえ、きれいごとで生きてきたとはどうしても思われません。生きるということは、今も昔も変わりがありません。残酷です。力のあるものしか生きられないのです。

弱い者が犠牲になってくれたお陰で、強い者が時代を創り上げてきたのです。弱い人間が集まって、創られてきたとは、どうしても思えません。これからもそうなのではないのでしょうか?弱い者は強い者から虐げられて、泣き、叫び、喚き散らし、殺されるしかありません。日本人のスピリットが高い原因は、縄文時代に既に、それを乗り越えてきたから、得られたのではないのでしょうか?今の時代の外国人が同じようにしている事を、今の日本人が責められましょうか?むしろ、歴史の経験者として、先輩として、見本を見せるべきなのではないでしょうか?強い者だけが生き残る世は、決して続かないことを教える立場にいるのではないのでしょうか?

だから、一人一人の日本人が怠けてはいられません。日本人がいつまでも弱い者になり下がってはいけません。日本人が強くなってください。それが、独裁者に世界を創らせない方法であると思われます。

⑤真の仕事、魂の仕事、真の自由な生き方とは

²  自由な生き方

考えてみれば、釈迦もキリストも達磨も、今なおこの世界に生きて働いて居るのであります。

この長い長い魂の旅に比べますと、肉体を道具として生きて居る間など物の数ではありません。言わばほんの瞬間「石火光中にこの身を寄す」でありましょう。

それを「ああでもない」「こうでもない」と言い、時に、好ましいものは追いかけ、いやなものからは逃げ出そうとします。然し蒔いた種は何時か刈り取らねばならぬし、何時かは精算せねばならぬのであります。それを次々と延ばし、余計な利子をふやしつつ逃げ回るなど、誠にあわれなものであります。

それよりか体当たりで事を解決して、丁度大川で身を洗った様にさばさばと晴天白日の下に暮らすようにしようではありませんか。

何の難しい事がありましょうか。酒を止めたかったらその日から止せばよいし、どうも自分は怒りっぽくていけないと思ったら、もう決して起こるまいと決心して止せば止せるのが人間であります。

右のも左にも思う様に行ける自由を与えられて居るのが、他の動物と違う人間の特徴であります。とは言え自由意志には必ず責任という浦書がついて居るのであります。<No.246

² 

キリストは、「汝の信じる如く汝の信洳を癒せり」と言われました。

釈尊は「三界は唯心之所現」と申されています。

遠い先祖から流れて来て居る良くない因縁この世で消滅させ善因はより良く成長させようと、常に背後霊は心して居られます。

この世に現れて居る良くないものは、この世で必ず解決が出来る信じ次の世代に流してやらぬ人を心霊学徒と申します

²  世界の法則

この世界は法則の支配している世界であり、人間は物質面精神面との両面を備えておりますから、両面の法則に支配されているのであります。

だから物質界の法則を全く無視する事は出来ません。例えば「私は心境が高いから」とか、「背後がしっかりしているから」と言っても、乱暴に品物を扱えば早く破損するのは当然です。

人間とは、生命力と、精神と言うと、肉体と言う物質と、この三位一体人間を構成しておって、いずれが欠けても生きては行けません。

然し精神面が何時も物質面の上位でなければ不幸になります。即ち精神が家に帰ろうと思えば、物質の足は自然動いて家へ帰ります。ここに精神の力が物質の肉体を支配している事は明らかであります。

No248

 

紹介者からの一言

私が50歳を過ぎた頃に、自由になりたいと、切に思った時期がありました。毎日あくせくと働いても、一生懸命仕事をやっても、やっても、組織からは、何ら認めてもらえないということに、ある日気づきました。それなら、方向転換をしようと考えました。しかし、今はまだ、子供たちの学費、家のローンがあります。自分の夢というか、定年後も、自分の経験を生かして、何かの仕事を、自分の意志で、自分の力で、自由に何かをやりたい、そのためには、今の仕事はまだ、止めるわけにはいかない、そこで、今の仕事をつづけながら、次のステップを考えることにしました。

先ず、色々なセミナーに通いました。健康な身体の維持も大事と考えて、ヨガにも通い始めました。見識を広げようと思い、職場とは異なる友人も求めました。霊能者なる存在にもめぐり合って、私の方向転換の年齢は57歳だと言われました。そこで、57歳で退職することを目標にしました。

さまざまなセミナーに通っているうちに、病院の仕事の間違いを、どんどん気づく始末です。以前からも気づいていたことですが、よくもまあ、今の医療は化石治療になり下がっているものだ、それだけでなく、今の医療は、国民に不幸をまき散らすだけであることに気づきました。それに確信を持ち始めて、このままではいけないと思って、セミナーの資料を病院のスタッフにも読んでもらおうと思い、本を貸したり、資料を見せたりしました。スタッフからの評判はよかったのですが、問題は医師です。こんないい加減なものを、患者やスタッフを惑わすものではない、と。そういうことがあってからは、私と今まで仲良くしていたスタッフが離れて行くような気がしてきました。もちろん上司や医者からは、私の一挙一動が見張られている様な感じがしてきました。私自身の存在自体が、病院への不信感を漂い始めたようです。そのため、職場からは異様な存在に見られるようになりました。そんな感じで57歳を迎えて、退職をしました。リンパスクールとアロマを習う事に決定しました。個人病院で働きながら習得しました。しかし、その個人病院では、なお一層、化石治療をしているのです。長く居るところではないと気づいて、一年もしないうちに止める決心をしました。幸い、元の病院で助産師が少なくて困っていたようで、再就職が出来ましたが、再就職してみたら、以前よりも一層違和感が強くなっていて、まるで、医師や上司からは目の敵を注がれる存在になっていました。それでも、何があっても、大人しくしようと思ったのですが、性格上、それが出来なくて、ある事件をきっかけに、もうこれ以上無理だと感じて、定年一年を前にして、退職の決断をしました。

その後からはリンパマッサージの一つに賭けて、現在も突き進んでいます。この年齢になって、初めて、真の仕事をしている気持ちになりました。

今までの仕事は真の仕事ではなかったのです。組織に守られて、いい気になって、さも偉そうに働いてきたことに気づきました。真の仕事、魂の仕事ではなかったのです。しかし、その経験は無駄ではありませんでした。今、反面教師として生かされているからです。無駄ではありませんでした。そのお陰で、真の自由とは?真の仕事とは?に気づく事ができたのですから…。しかし、その自由な仕事は厳しいです。今までにないくらい責任が大きく、敵も多いからです。収入もとてもとても少ないです。しかし、今生の人生でやり残したことを、やっと、今になって、やっているような気がしています。あまり、気張らずに、一つ一つ歩いていこうと思います。魂には時間が存在しないからです。自分の心の変化が大切であると思います。今生の自分の魂の学びを歩み始めたばかりです。

気づかせて下さり、ありがとうございました。(2013.9.15)

⑥精神統一について

昭和40年

静かに考えると言うことは、一段上がって、神仏的立場からものを考えると言うことです。すると、高い背後霊から何かささやいてくるものがあります。よく朝目が覚めると、パッとくる、たいてい霊感ですね。外からくるものでなく、自分の内から出るものに耳を傾けることです。朝夢と言いますが、朝は霊感が発達しております

人間には、八万四千の毛穴があると申します。その毛穴は一つ一つ別個のを結んでいる、八万四千の妄想妄念と結んだ穴だ、と昔の人は言っておりますね。その毛穴から出る雰囲気、どういうと結んでいるかというその雰囲気が、ふだん私がよく言う、今日は気がいいとか悪いとか申しあげている、それです。だから毛穴もよく石けんで洗うことですね。

心霊家統一を重ねることによって、持って生まれた因縁霊を逆に自分の身を保護する霊にする。つまり善霊にすることが出来ます。

No.225

●精神統一について

精神統一中に何らかの雑念の入らない人は、殆どありません。よほど修練の積んだ人ですと、ふっと統一の気になれますが、何かにとらわれると、何時間統一しても無駄ですから、雑念が浮かんだら自分の呼吸に乗せて流してしまう方がいいのです。雑念雑念の間が統一ですから、気にすることはありません。

夢と夢の間が真の睡眠であるようなものです。雑念雑念の間の空間がだんだん長くなる、それが進歩です。宇宙と自己とが一つになったような気持ちが真の統一で、宇宙何ものぞという気持ちです。はっと我にかえったとき、自分は今まで眠っていたのだろうか、眠っていたのならコクっとするはずだけれど、というのが本当の統一です。このような統一だと終えた後が非常に晴れ晴れしい。呼吸の荒くなるのは最もいけません。真の統一になりますと、ふだん隠れている95%が出て来ます(因縁霊・随伴霊)。それが高次の霊界に自然とつながって行きます。そこの雰囲気にひたって良くならざるを得なくなります。<NO.226

昭和41年

●精神統一と守護霊

私たちは平素精神統一を行う時は、それによって守護霊と一つになることを心掛けねばなりません。この際守護霊は、言わば神仏への中継所となるのでありまして、守護霊を通して神仏の教えやお守りをいただくことになります。

すなわち自分が精神統一をすることは、守護霊をも神仏へ心を統一させることになるのであります。

守護霊を通じて何か教えていただきたい時は、落ち着いて念を送れば、必ず背後の守護霊が答えてくれ、また守護霊がその人をコントロールしやすくなります。

●人間の雰囲気人間の潜在意識(善意とも)の蓄積されたものです。発散する水蒸気みたいなものですから、それに接した第一印象は確実で大切なものです。だから、ふだん自分の雰囲気を良くつくるようにしなければなりません

すべては自分の中に

人間は自己の中に自己を勝利者たらしむるをもっていれば、また反対に自己を敗北者たらしむるも持っております。自分の両手をのびのびと高く上げることも出来、またその両腕で自分の胸を圧迫して、悪魔に押さえられる夢をみることも出来る、同じ自分の力です。だから、正しい義務にあったら、しり込みしてはなりません。何故ならば、その時の仕事に応じて、指導霊は替わってくれるものですから。身をかわして逃げてはいけません。

念の力と霊の判別

人間の寿命は仕方ありませんが、そうでない場合の病気治しは、この方を治してあげたい気、またなおしておらいたい気が十字になって、その焦点が物を言うのです。その念が強ければ強いほど、効果もいちじるしいものです。

低い霊に限っておれは何々だぞ、と教えるような態度をとります。高い霊は決してそのような言葉を使いません。また、縛ったり痛めたりというようなこといたしません。守護霊だぞ、言うことを聞けというようなのは、必ず低い狐か何かですから、言うとおりにならないこと。高い背後霊は決して無理をさせないものです。<No.227

●真の宗教とは

釈迦が出られてから約二千六百年たちます。キリストが出られてから約二千年たちます。この二大宗教が、世界を風靡して来たにも拘わらず、なぜ、なお人類が戦争という危機にさらされていなければならないのでしょうか。それ程宗教というものは力のないものなのでしょうか。宗教というものは、人を真に導くことが出来ない。それは何かがたりないんじゃないでしょうか。いいえ、これは、釈尊の教えが悪いのでもなくキリストの教えが悪いのでもありません。釈迦やキリストが最初説かれたというレッテルは貼られていても、仏教でありながらいつの間にか釈尊の教えではないものが売り出されているわけですね。レッテルはキリスト教でも、中味はキリスト教でないものが売り出されている。真の真理はかげをひそめているわけで、弟子たちが総がかりで別の宗教をつくりあげてぬりかえているからです。

大体宗教というものは、人間の生命の問題を基礎として取り扱わなねばならない。これが根本問題です。

我々が今生きているこの生命が、どこから来てどこへ行っているか、この大切なことを後回しにして、基礎であるべき心霊の研究を怠っているからです。心霊をしっかり勉強すれば、自分の持っている宗教がもっと生きて来る。いい所と悪い所がハッキリして来ます。土台がしっかりしていないと、いくら家を建ててもダメです

●人間は社会の中で物を教わることが出来ますが、しかし霊感を受けるのはやっぱり背後霊さんに限ります。背後霊さんは一人でない、霊団です。霊団が手伝ってくれなくては大きな仕事はできません。

●物のよく分かった人は、自分を世間に適応させます強情我慢の人は世間を自分に適応させようとするから、世間が狭くなって辛くなるのです。

●追い払うことの出来ない不幸とは、心霊的な悟りをもって対するより外ありません。この世の中は、仮の世と思えば、耐えがたい不幸も耐えられるのではないでしょうか。

因縁を大切に致しましょう。「しきたりへの袖すり合うもえにしとか、ましてや君と言かわすとは」この因縁をあたためて大切にいたしましょう。悪い因縁は困りますが、良い因縁ならそれを大切にすることです。

 

紹介者からの一言

無や空になるということが、統一なのでしょうか?そこのところがはっきりと書かれていませんが、たぶんそうなのでしょう。

巷に、悟られた方、イエスも釈迦も、マホメットも達磨もダライラマも、殆どの全ての方が、座禅を通して、悟られたようです。達磨は座禅のし過ぎで足が腐ってしまって、歩けなくなってしまったとか、苫米地さんは達磨は馬鹿であるとおっしゃっていました。どうしてそんなに、みんなが座禅をしたがるかと言うと、恍惚状態になるからなそうです。とっても気持ちがよくなるのだそうです。

私も座禅に挑戦するのですが、いつもコックリと寝てしまいます。そこで、考えたのが太陽礼拝です。立ったり坐ったりするので、眠るわけにはいきません。その同じ動きをしているなかで、無や空になっている一瞬があるような感じがします。手ぶり運動も夫と毎日20分間やっているのですが、無になっている一瞬があるような感じがします。更に、音楽を聞いているときです。きれいな音楽を聞いていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。それから、台所で料理を作っている時です。無になってしまうと、調味料や、具を取り違えて、間違ってしまうのです。どんどんそれがひどくなって行くような感じがして、これは認知症の手前かなと自分でも思ってしまうのです。自分の中に入り込んでしまっているのです。現実の世界が感じられなくなっているのです。リンパマッサージをしているときも、同じです。同じ事を何度も繰り返していることがあるのです。公民館でセルフのリンパマッサージを教えている時にも、5回繰り返しましょうと自分で言って居るのに、6,7,8、と唱えながら、くり返してしまい、ハタと気づく事があります。何かの拍子で、スーッと自分の中に入り込んでいて、ハタッと、今何をしていたんだっけ、と目が覚めることがよくあります。

こういうことって、程度の差はあれ、みんな経験しているのではないのでしょうか。これがひどくなったのが、認知症ではないのかなと感じます。

日常生活を、休む暇がなく、気張って、毎日アクセクと働き過ぎて、自分の時間を持たなかった方、つまり趣味や好きな事をやられてこなかった方が、ある時期を境に、認知症に陥る様な気がします。人間には、一週間に一日は自分の精神を統一する時間が必要なのだと思います。だから、日曜日があるのだと思います。日本人は働く事が美徳とされていて、休むことや、趣味は遊びだと考えてしまいます。きっと、今の若い方は認知症にはならないと思います。高度成長時代に生まれた方の問題であると思います。むしろ、今の若い方は、今の大人の生活になじめなくて、引きこもりになったり、反対にキレたり、無理をして病気になったり、自殺や過労死になってしまうのではないのでしょうか。肉体と心と魂の三位一体をコントロールすることは難しいです。子育てさえ、間違わなければ、どんな世の中になろうが、しっかりとした大人に育つように思われます。子育てが大事です。 (2013.9.16)

⑦何事にもあまり厳しすぎると、どこかにひびが割れます

●心の波長を

テレビの波長はたくさんありますが、チャンネルを合わせなかったら、画像が出てまいりませんね。

それと同じ事がやはり顕幽両界の交通にも見られます。

そもそも人間は先天的に祖霊の高級霊の守護指導を受けるようになっているのですが、人間の心の波長が、それらの高級霊の持つ波長と合わなくなりますと、感応道交が不可能になります。そうなるとその方は次第に不幸になってまいります。だからやはり心の波長をいつも、高い霊の波長に合わすことです。そうすると次第に幸せになってまいります。

●志と気力を

非凡の人物となり、非常の仕事を為さんとする心霊学徒は、天地崩るも動ぜざると、勇猛壮烈鬼神もこれを避けるほどの気力を要します。けだし富貴に淫せず、威武に屈することなく、正義を行うに当たっては水火も避けず、何事も自分の決心を立て、之を行うに当たっては他人に委付することなく、人に勝らんには勝る静慮と行いがなかるべからずと言うことです。

●人生航路は、晴天の日ばかりではありません。来る日も雨、また来る日も雨、又ある時は暴風雨に見舞われる時もありましょう。それはその人にとっては苦難であり、不幸であると思われるでしょうが、霊界の高い目から見れば、何でもないのです。

心霊主義者としては、それはむしろ魂の新しい課業が始まって、これで今一つ魂の新しい課業が始まって、これで今一つ魂の向上を図れると受け取るべきだと思います。本当は喜ぶべきです。それが今までその人が体験したことのない事柄であっても、その人にとっては別の学校の一つ上級へ進学したことになります。別な課題を解くべく勉強しつつあるのだと考えれば、高い背後霊の守護指導を素直に受けることが出来ます。そういう場が出来てくるのです。

そして良い霊感が浮かんで来て、どんな問題が起きても、必ず解答があるはずですから、必ずそれを受けることが出来ます。ただ落ち着いて背後霊さんのおはからいを待つのですね。人間わざでどうにもならないことが起こって来たら、静かに素直に背後霊さんの解答を待つべきなのです。この待つ時間がなくてあわてると、ますますすり鉢の底に入ってしまいます

学校の試験問題でも同じことです。上がってしまったら解答をまちがえてしまったり、名前を落してしまったりします。落ち着くということは、高い背後霊さんから守られる場をこしらえることなのです。

いかなる場合でも落ち着いてあわててはいけません。不景気な時でもあわててはいけません。<NO.229

和の精神について

和の精神は、日本固有の思想として、古代より伝わっております。これは和魂(ニギミタマ)を意味しています。大和の国と言うのも、このにぎ(和)の精神を言うのであります。この和魂のはたらきに二様あります。即ち人の身を守り、幸(サキ)くあらしめる幸魂(サチミタマ)、又奇(ク)しきはたらきを持ち、その人の業(ナリワイ)をなさしめる奇魂(クシミタマ)の二つであります。

また荒魂(アラ)とは、時として荒びて外にあらわれ、凶暴なるものを打ち伏せ給う働きのことであります。するが故に生命を捨てて省みない大和魂の勇敢さも、やはり和魂の現れであります。この“にぎつ(和)”と言う言葉は、昔から非常に大きな意味を持っています。日本はやはりこの“和”と言う言葉は、昔から非常に大きな意味を持っています。日本はやはりこの“和”の精神が大切で、何事にもあまり厳しすぎると、どこかにひびが割れます。余りしゃくし定規の規則で縛らぬことです。

 

紹介者からの一言

組織が大きくなるにつれて、規則がどんどん増えてきます。大きな組織では法律や規則に縛られます。大きな組織であればあるほど、人間の心にヒビが入ることになります。それは宿命なのでしょうか。そうなると組織が大きいほど自由がなくなるということです。しかし、力は大きくなるのでしょう…。

今の日本の国に外国人がどんどん住むようになり、治安が乱れています。今の日本の事件の大半以上が外国人、それも韓国と中国であると聞きます。今では日本人も身の危険を感じて、家に鍵を掛けることがあたりまえになりました。さらに夜は雨戸を閉めます。私の夫がメキシコに転勤したことがあって、私も一度、行きました。メキシコの建物の一階には窓がないのです。どうしてかというと、一階に窓があれば、窓から侵入される危険があるからです。昼でも、町の中を歩いている人はほとんど見かけません。車だけが右往左往と動めいています。一人で歩くことは危険なのです。

メキシコでは学校に行く子供の送迎は親が車で行います。誘拐の危険があるからです。散歩をしたくてもできません。唯一安心して歩けるのは、ショッピングのできる大きな建物の中だけです。日本にも進出しているアウトレットやコストコ、のようなところです。ヨーロッパ旅行をしたことがありますが、ヨーロッパはまだ夜の散歩ができます。一人歩きは危険ですが…。

とにかく、マナーの悪い人種が住み始めると、身の危険を感じます。

一時期、所沢は中国の在留日本人の日本語学習場所でもありました。近くに住んでいる方から聞いたことがあります。小学生の子供がランドセルを置いて遊んでいたら、ランドセルごと全部盗まれたと聞きました。近くの農家の畑のトマトが、青い内に全部盗まれるとも聞きました。

私が病院で働いていた頃ですが、在留日本人の中国人が妊娠して出産されましたが、出産シーンは大声で泣き叫びます。そして、帝王切開をしてくれと叫ぶのです。日本人のように我慢ができません(全員ではありませんが)。外来では、日本人は3時間でも黙って待っているのに、それが待てないのです。日本人を差し置いて、差別をしているのかと、受付窓口の狭い窓から頭を突っ込んできて、叫び始めるのです。私もむきになって、そんなことはありません。順番ですと言ったら、年輩の医師が、国際問題になるから、止めなさいと言われて、その中国人を先に診察させたことがあります。とにかく、これ以上マナーが悪い方が日本に住んで欲しくないです。日本の国に住む条件を厳しくした方がよいと思います。日本に住みたいのであれば、日本のマナー学校3年過程を卒業した方だけにして欲しいです。そのような学校があれば、私も入学したいです。(2013.9.17)

⑧物と心の働き

●物と心

唯物論者は、現れているものの奥にある心について。全然分かっていないようです。

物質が一定の形を保っているのは、その構成分子を一定の形に保たせる心の働き、つまりがあるからであります。言いかえれば、霊魂の働きがあるからであります。

どんな形のものでも、その形をあらしめている精神力、つまりがあるのであります。

物質もまた、が結晶して出来たものだ、と言うことが言えます。だから、心が思った通り物質も思っているのであります。大事にする心があれば、にも、いたむまいとするがあるはずです。

との関係を考えてみれば、どんなの働きも、肉体に変化を起こさせないことはありません。驚いている、怒っている、これが皆心の姿ではないでしょうか。

だから年中、にぎにぎしい心でいれば、も柔らかいになると思います。年中、怒っていれば、自然と怒ったになりますね。肉体と言うものは本当に素直なものです。可愛いものです。

●病気は悩める心から

病気している肉体とは、悩んでいるそのものの結晶したものであります。だから悩んでいるを悩まないに転じますと、病まない肉体が現れてまいります。この病気はこれ以上悪くなるのではないか、と悩む心が、安心の心、即ち背後霊任せのになれば、更にもう一歩突っ込んで感謝する心に変われば、は段々に影をひそめてまいります。専門家の研究によりますと、一秒間に約15万ぐらいの白血球が新たに造られると言います。そして、同一数の白血球が老廃して捨てられると言います。古い肉体が悩んでおりましょうと、常に新しいものが交代しつつある人間の肉体であれば、病む事何ぞ恐るるに足らん、と言えましょう。

●祈りの力

人間の力ではどうにもならないことが起こったら、背後霊さんに静かに祈ることです。そして背後霊さんに波長を合わすことによって、少しも無理のない自然な秩序をもって、情勢が展開してまいります祈った事柄が必ず実現致します。時によっては全く奇跡と思われるような超自然的経過を通して祈りが実現することがしばしばあります。しかし事柄によっては時間のずれ、即ち大分時間のかかることもありますが、背後霊に祈って蒔いた種は、必ず芽を吹き出します。しかもあなたに適した良い時期に、最も良い芽が吹き出ましょう。<NO.230

●和顔愛護

人間一番品のないは、ブッチョーヅラ、シブクレヅラですね。次は目を怒らし口をとがらした意地悪いうす笑いのなどいろいろありますが、自分ののまま形に現すと言う人は正直な人には違いないのですが、それはまだ魂が幼いわけです

“和顔”とは菩薩の態度から出た言葉でありまして、やさしい和やかな顔でいかめしい顔付きではなく、如何にも春風駘蕩と言った様な顔付で、朗らかなやさしいあたたかい顔と言った方が良いと思います。

私達は他人が不利な事を言ったからといってすぐに表しますが、他人を怨む前に先ず我が身を省みて、他人を咎(トガ)めんとするよりもその心を咎めよだと思います。

愛語”とは荒々しい言葉遣いをすれば当然まとまるべき仕事も駄目になります。「円い卵も切り様で四角、物も言い様で角が立つ」と、昔から申します。生き届いた言葉遣いや、の相も馴れれば自然に出来る事でありますから心したいものだと思います。

●生きて仏になれ

現象世界でいくら科学が進歩いたしましても、人間に慈悲心がなくなりましたならば、なまじっか智恵のみが発達すればする程、恐るべき動物になる事は明らかであります。因に1人の和尚が釈尊に問うたと言う話をいたしましょう。

お釈迦様はいろいろの名を持って居られます。大道智勝仏、又清浄盧遮那(ルシャナ)仏・円満報身盧遮那・千百億化身釈迦尼仏とも申し、その釈尊にある時一人の僧が問うたと言うのです。

「お釈迦様、私の様な悪行の強い者でも、十劫(ゴウ)も座禅したら業を消し仏になれましょうか」と慎み深く尋ねたのです。ときに一劫とは地球が一変してしまう程の長い時間で而も十劫になると気が遠くなる様な話ですが、とに角こう問うたのです。すると釈尊は即座に「仏道を成し得ず」と言われたそうです。

つまりいくら形だけ取って坐ってみた所で、本物の心が坐って居ない、又、心が禅定に長時間入って居ても本物ではないのでありまして、釈迦菩提樹下の正道とは何かと言いますと、それは

悟られた真理を即人世の為に役立たす事であり、実生活に役立たす事でなければ、何劫年坐った所でそれは己一個人の事であって、即ち死座禅でしかありません。

つまり身を了せんよりは心を了じて安んぜん、でありまして、仏家で言う所の成仏とは、死んだ者が仏になるのではありません

古歌にも「死んでから仏になるはいらぬ事、この世の内に良き人となれ」と教えて居る歌があります。

不景気に対処する心構え

不景気だ、やれあの店はもう潰れたとか、自分の家もめっきり売れ行きが悪くなってしまったとか言って、よその不景気を引き合いに出して自分のなぐさめに使って居る人がよくありますね。今に自分の店も閉鎖してしまうんじゃなかろうかと口癖に言ったり思ったり、果ては家族の者に当たり散らして居る卑怯な人が近頃は世間に多いのですが、衰退を語る人に昔から栄えたためしはありません。人間が繁昌という植物に必要なものは、鼓舞激励、それから明るい家庭の和、これが肥料です。心霊学徒の背後霊は、貴方が思いつめて居るものは必ず貴方の身辺に招き寄せて下さる力を持っていらっしゃいます。成功と勝利は必ず心霊家に寄せられます。反対に失敗と敗北を思いつめれば、冷たい、暗い、悲嘆にくれてこの世を去った霊が参ります。不景気だの不幸だの自分一人で沢山で、人に向かって口に出すものではありません。

 

紹介者からの一言

そうはいっても、私はそんなにりっぱな人間でもないし、そんなことできないよ、無理だよ。と思いながら、昔の自分はそう思いながらこの本を読んでいました。どうすれば、人間が丸くなれるのかな?仏さまの様な顔になれるのかな?が、私の課題になりました。朝は太陽に、夕はお月さまやお星さまに、我が家の犬の散歩をしながらお祈りをしていました。それでも、嫌な事があると、悲観したり、仏頂面になったり、自分の力の無さに落ち込んで、しばらく立ち上がれなかったり、反対に、怒りをあらわにしてしまい、目には目、歯には歯で、闘ったりもしてしまいました。気にしないで流そうと思っても、それも成功しません。どんどん悪化するだけです。我慢してもダメ、戦ってもダメ、無関心でもダメ、祈ってもダメでした。

なるようにしかならないと諦めました。それでダメなら仕事を止めるだけだ。という気持ちに変化しました。でも、自分から止めるとは絶対に言わないぞという気持ちで仕事をしていました。しかしそれもとうとうダメでした。どんどん状況が悪化するばかりです。とうとう止めますと、こちらから言ってしまいました。向こうの落とし穴にはまってしまいました。これは力の差ですね。我慢しても、戦っても、無関心でも、諦めても、祈っても、粘っても状況は一つも変わりませんでした。

今では、今までの仕事の経験も友も、全て私の心から捨て去りました。そして一からやり直すことにしました。自分の力を信じて、更に、背後霊の御力があることを信じています。だから、なんとなく心が穏やかでいられます。

結果はきっと訪れないと思います。ただ、わたしは今世で助産師の職を選択させていただいたのですから、その使命を私が生きて居る限り、少しでも果たすことであると思って生きることにしています。

聞いて下さり、ありがとうございました。(2013.9.18)

⑨苦しみを糧に魂を磨く、償いは希望と睡眠、思いわずらわないこと。

神様は周囲におけるいろいろな苦しみを糧として、その魂を磨くようにこしらえて居られます。その償いとして、我々に希望と睡眠とを与え給うものであります。ですから、長生きの方法は周囲に起こる事柄を一つ一つ片付け、その事について長く思いわずらわない事です。徳川家康の一節に、「人の世は思い荷を負うて遠い道を行くが如し」と申されましたが、これで楽になったと手ばなしでは居られないのが人生です。次から次へと魂を磨く糧はやって参ります。その苦しみ来世にまで持って行きたくないと、利口者は娑婆世界で長生きして、なるべくたくさん念仏又はお題目を唱えて、死んでから確実に極楽の特等席に行くよう、今のうちから念入りに予約をしておこうと努力していますが、これはまったくおかしな事です。

霊界の席順は、生きてる間、如何に人の世に尽くしたか、いかに人の世にやくだったかが実って、その行く場所、修業の場所が、自ずと定まるものであります。念仏お題目を唱える事で定まるものではありません。

その様な考えの人にとっては念仏、お題目は、むしろ唱える事で定まるものではありません。

その様な考えの人にとっては念仏、お題目は、むしろ唱えて居る間だけでも、悪心を起こさないという程度で、役に立つのではないでしょうか。しかし片方の手で鳩の首をしめながら、片方の手で南無阿弥陀仏などと言うも、ちょっとおかしな事ですね。<No.231

●死とは

とは帰幽であって顕より幽へ、つまり肉体を道具として修業の生活を終えた者が、その出現の元である古里へ帰る事であります。人は時々訳の分からぬ淋しさを感じる事があります。あれは郷愁と申しまして、魂の故郷を恋う心の現れであります。

年若くして前途に希望を持っている者にとっては、色々と未練が残るから、大抵の場合死相が悪いのでありますが、相当の年齢に達し、人間生活を一通り体験した人とか、或いは功成り名遂げた人にとっては、執着も未練も少ないので、死相は大抵の場合穏やかであります。人間にとってはやはり長命と言うことは大切な事と思います。

●因、縁、課の理

心霊研究とは、何の研究であるかと聞かれましたならば、それはまさしく因縁の理の研究であると答えたいと思います。もっとくわしく言えば、心霊主義の研究とは、因果関係の研究であると言いたいのでありまして、この因縁の理を信じる人こそまさしく心霊主義を信じるものなのであります。

釈尊もまた実に、この因縁の原理を体得せられて、遂に仏蛇になられたのでありまして、あの有名な菩提樹の悟りは、まさに因縁の真理を体得せられたものに、他ならないのであります。それはあたかも、ニュートンが万有引力の原理を発見した様に、釈尊も、それまで存在して居て、しかも誰も気付かなかった、万物は因縁より生ずるという極めて平凡な真理を、初めて発見せられたのであります。

釈尊はその考えの中で、仏教を信じよとはおっしゃいませんでした。ただ因縁の法則を信じよと言われました

では因縁とは一体どういう事かと申しますと、詳しく言えば、因、縁、惹起という事で、つまり因と縁の関係を言ったものであります。

すなわちとは原因の事で、結果に対する直接のであります。とは、を助けて、結果を生ぜしめる間接のであります。

たとえばここに一つの桃の種があります。

この場合、桃の種はすなわちで、この種を棚の上に置いただけでは、いつまでたっても一粒の種でしかありません。

しかしキリストが、言われた様に、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて終わらん」で、はあっても縁の力が加わらないから、そのままであります。

しかし一粒の麦、もし死なば、すなわち土の中に入ってしまえば、多くの実を結ぶべしでありまして、一度種を土に撒き、それに雨、日光、肥料という様な様々な縁の力が加わりますと、その一粒の種は、秋になると、枝もたわわな実を結ぶとなるのであります。

これがつまり因、縁、果の関係でありまして、花を開き、実を結ぶという様な結果は、必ず因と縁との和合によってはじめて出来るものなのであります。

しかるに人間の多くは、ものごとを単に原因と結果の関係においてのみ見ようとするのは、間違いであります。一切の事物は、簡単に原因と結果という形式だけで解釈出来ないものであり、につながる多くのを考えなければなりません。

この因縁が生じると言う事は、時間空間縦横のつながりから始まるものであります。ではその因縁はその原因があれば必ず結果に落ちるか、それともこれをくらますことが出来るか、これは長くなりますからこの次にいたします。

 

紹介者からの一言

結局、人間だけの力だけではどうにもならないということですね、人間はあてになりません。あてにしない方が最善ですね。自分自身に対しても、あてにはなりません。良かれと自分が思って行動しも、結果は自分の望みとは反対になる事が多いからです。現実の世界では自分の思いとは裏腹になることが多いのです。そんなつもりではなかったと弁解しても、弁解すればするほど、事は更に悪化するだけです。そう簡単には実になってくれません。植物もそうですよね、きれいに花がいっぱい咲いたとしても、実になるかどうかわかりません。花を咲かせても、実にならなければ、次世代に繋げることができないのです。蜂や蝶が、風が、そして、仲間がいなければ、自分だけで花を咲かせても、実になりません。やっと実になったとしても、小鳥や台風にやられたらお終いです。我が家のベランダで栽培した稲が、去年は小鳥に食べられなかったのですが、今年は、半分以上が小鳥に食べられてしまいました。そこで、我が家の夫は、私の仕事用のマネキンをちょっと借りると言って、持って行ってしまいました。そのマネキンにヘルメットをつけて、カッパを着せて、案山子(カカシ)にしてしまいました。それからは、小鳥に食べられていません。最近の台風でも大丈夫でした。何とか半分は収穫できそうです。しかし、ケールの種の方はせっかくたくさんの芽が出て、少し成長して来たのですが、台風で半分以上がダメになりました。残った芽に頑張って生きてくれと声をかけるようにしています。

実になるかどうかは己の力だけではどうにもなりません。自分でやれることだけやって、あとは野となれ山となれ、天に任せるしかありません。

結果は期待しないことだと思います。自分の頭で考えられることをやって、自己満足して、それで充分だと思います。その方法での結果が悪く出てしまったら、直ぐに反省して、頭を早く切り替えて、他の土俵で更に、煮つめればいいかなと思っています。

我が家の夫は、パソコンやインターネットを全くしません。慣れないことをするよりも、自分の好きなこと(テレビ、パチンコ、ゲーム、畑仕事、散歩)を楽しみにしています。もちろんタバコとビールが一番の楽しみのようですが。以前はそんな夫をみて、苛立ちを覚えていましたが、いちいち、癪に障るのも馬鹿らしくなってきて、今では、それぞれの人生を楽しむことがベターかなと思い、お互いに干渉し合わないことにしました。そうしたら以前よりもうまく行くようになりました。干渉し合わないのがうまく行く秘訣かなと思っていますが、まだまだ、私は未熟でありますから、時々、腹を立てて居ます。私の腹が、横になってくれないかなと思っています。(2013.9.19)

⑩因縁から解脱するには

●さびとしおり

に徹すると芭蕉の持つさびしおりに徹すると思います。この境地に徹する人は、華麗を避けてその本体を取る様になります。本体は沈静して静けさの底にあるので、自ら素朴になり枯淡になってまいります。

それは深くわけ行くと幽玄にして言い難く、しかもいよいよ奥深くなり行くものでありまして、これをさびと申します。しおりとは静かに落ち着いた心境でありまして、即ち高級霊と直結して居る時にのみ起こる境地で、これをしおりの境地と申します。

このしおりの境地に住む時は、心和やかにして生活が自然であり、一切を受け入れ、一切に生き、見る物聞く者を美化せんとする境地となるのでありまして、さびとしおりは表裏一体の物であります。<No.232

●自然霊について

本日は自然霊のお話をさせていただきましょう。

自然霊とは、古事記で言う所の「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と言われている隠身つまり肉体を持った事のない霊魂でありまして、上は宇宙を経綸される普遍的な高級の霊から、下は邪神に至る迄、それはそれはたくさんにあられます。

その内でも自然現象を受け持たれるは、仮に竜体をとっておられ、大層神秘な力を持っておられますが、然し個性霊でありますので、多少の祈りは聞いていただける様です。

例えば、私は主人(吉田)と年一回、十日余り旅行致しますが、旅行先でたとえ雨降りの日でも、降り込められて困った事は、未だかつて一度もありません。

それはきっと私の背後様が、竜神にお願いして下さるものと私は信じています。それは大雨の間でも、車の中とか、或いは宿屋に着いた時とか、丁度雨間を縫う様に、不思議に困りません。

とも角、自然現象を左右される大きな力を持つ自然霊でも、個性を持って居られる様です。源実朝の歌に、「時により過ぐれば民の嘆きなり、八大竜王 雨やめ給え」と言う有名な歌がありますが、この実朝の念力の歌によって、何時止むとも分からぬ大雨続きも、急に止んだと言うことです。

八王竜神とは、仏教語の八体の竜王で、難蛇、跋難蛇、娑迦羅、和修吉、徳叉迦、阿耨達、摩那斯、優鉢羅であり、又それぞれ眷属を数知れず持っておられます。

また謡曲「岩船」に「潮の満ち来る浪に浮かぶ八大竜王海上に飛行す」ともあります。

自然霊には大きな竜体を持っておられるばかりでなく、それはやさしい可愛らしい自然霊もありますね。

たとえば、私の心が、物質的な方面の智恵がうすれまして、霊的感受性が旺盛になった時に、素朴で素直な気持ちになった時に庭へ出ますと、何時でも花の精が視えます。しかし、その花の精といえども、私が手をかけて目をかけて、可愛がったものでなければ視えないのです。昨日や今日、移してここに植えたものは視えません。そして、私が可愛がったものでないと視えません。

都内では私の方は空気は良い方ですが、最近になって白い梅には、前には一斗くらい実が付いたものですが、この二、三年ちっとも実が付かないのですね。

梅の精というのは非常にすがすがしいみたいに視えるのですが、「どうして実を付けないのか、私は梅干を付けるのを楽しみにしているのに」こう言って梅の精に聞いてみたのです。その時、私はきっと排気ガスのせいだろうと思ったのです。

私の家は十年ぐらい前はホタルだの蛙だの蛇だのいましたけれども、この頃はヒキ蛙だけです。けれどもうぐいすは来ております。あるいは鳥が少なくなったせいかなと思いますけど、鳥はいるんですね。

いろんな鳥がとんで来ますから、それだのに実を付けないのは何故かと思って聞いてみましたら、私の家の前の家にもと大きな梅の木が一本あったのですが、この頃小さい貸家を何軒も建てて、その梅の木をとってしまったのですね。その事は気が付かなかったのですけど、「向かいに大きな同類がいた時は、お互いに子孫をふやす張り合いがありました。ところが今はこの近所では私が一本きりでさびしい。出来る事ならもう一本私のそばに置いてもらいたい。そうしたら実を付けましょう」と言うわけです。一本では実が出来ないと言うのですね。同類がないと子孫が残らないわけです。淋しいと言うわけです。

と言うもの、と言うものは、人を喜ばす事によって報酬として与えられるのです。親切をする事によって入るものです。

まこと神仏は誰彼の区別なく導いて下さいます。

しかし本当に導いてくれるのは、身近にいらっしゃる人霊、高級背後霊です。

おのおの立派な背後霊さんがいらっしゃるのですから、背後霊さんに言葉かけをなさる事です。

心霊的に目覚めた御先祖の力が物を言う世の中です。子孫が栄えるのも栄えないのも、その元は霊界にあります。

蒔かぬは生えぬ、蒔いたのみが生えてを結ぶのが心の法則です。がほしかったら、おが入る様なを蒔いておきなさいませ。

●統一は先祖及び自分の掃除に来ているようなものです。

時代の波はきびしいから、流れないようにどっしりとした背後霊のいかりをすえる事です。

肉体因縁が深いから親から分けて貰っていますが、は別です。親より子のほうが、が年をとって居る場合もあります。

愛情には一つの法則しかありません。それは愛する人を幸福にする事です。不幸にしない事です

歯の堅い人は長生きすると古人は言いました。人を殺して喜ぶ鬼とか悪霊は、かちかちやる事を一番嫌います。低い霊かちかちなる音を嫌い、恐がります。おそろしい時が鳴るのは一つの法則です。気分の悪い時、歯と歯を噛みあわせいると、悪霊は近寄りません。

●人に対して良い念を持つと、善霊が助力します。愛念努力は高い背後霊に通じ、自分も助かります。

●因縁から解脱するには

執着とは、心が握りしめて居る事でありまして、握りしめるから生命力が、それのみに集まり離れないから、「気がもめる」「気がいらいらする」「気がふさぐ」等々、これらが病気の原因となるのであります。

こんな時一切は自分の鏡と思って苦笑してご覧なさい。良い智恵が湧いてでます。自分に因縁の無いものは決して見たり聞いたり致しません。

その良くない因縁因果から解脱さすのが、心霊です。つまり上べの病気は一応医者で治りましょうが、その根源を断ち切らぬ限り、又それが自分又は子孫に何らかの形で芽を吹いて参ります

●永遠の今

「過去のを知らんと欲せば、現在のを見よ。未来のを知らんと欲せば、現在のを見よ」でありまして、現在は実に過去を背負い、未来を孕んだ現在であります。

永遠の過去を背負った今日は、また同時に永劫の未来孕んだところの今日であります。今日は単なる短い今日ではなく、永劫につながる今日であると思うべきであります。

今日と言う現在は一切の過去を含み、そしてまた一切の未来を含んでいるのであります。

ある詩人は言っています。「昨日は生きた。今日は生きている。明日もいきるだろう」と。しょせん世の中の事のすべては一期一会、即ち一生にたった一度きり、と言う茶道の精神はこの事を言っております。お茶三昧にある時は、急がず、あわてず、一つ一つ順序よく筋道を通し、片付けて行くのであります。

ある経の中に「過ぎ越しかたを追いおもうなかれ。未だ来たらざるを待ち設ける事なかれ。過去は過ぎ去り、未来は来たらざればなり。今日のなすべきをなせ。誰か明日の事の来たるを知らんや」No.233

 

紹介者からの一言

我が家の門には、毎年、赤い実の付く木とサルスベリの木があります。この二つの木は、今の新しい家の以前の建売住宅の時の庭木の内の二つなのです。11年前に壊して、その時に、全部の木を切り倒しましたが、生き残ってくれて、庭石の隙間から顔を出して、どんどん大きくなって、実を付けたり、花を咲かせてくれています。よくもまあ、生き残ってくれたと思って、切り倒さないでいましたら、以前は赤い実をつけてくれなかったのに、毎年、秋になると真っ赤な実をたくさんつけてくれています。サルスベリの木は隣の家に広がってしまうので、成長したら切っているのですが、それでも、花が咲きます。なんと生命力の強い木であろう、私の方が圧倒されます。打ちひしがれても生き伸びて、育つ木はたくましいですね。

それから、どうしようかなと困っている木があります。それはクルミの木です。小鳥が種を運んできたようです、自然に出て来ました。何の木かわからなくて、そのままにしていたら、リンパの客様が、クルミの木だよと教えてくれました。どんどん成長しています。それも一本ではなく、四、五本です。クルミの木はとても大きくなります。どうしましょう。

私は運を天に任せて居ますので、その内に天が教えてくれるだろうと思って、育てて居ます。

それから観葉植物です。今の家を建てて、住み始めた時に、百円、二百円で購入した観葉植物の一つが、水をやらなくても、植木鉢が小さくなっても、根がどぐろを巻いてでも、生き延びていて、仕方なく、漬物バケツに移しました。それが、今では、私の身長以上の高さに成長しています。

それから、長女の結婚式の時の花束の一つの観葉植物です。なかなか枯れないので、そのままにしていたら、根が生えて来ました、そこで、土に植え変えたら、今では素晴らしく大きく成長しています。

他にも頂いた花が、どんどん増えています。花が咲いたら、どんどん他の人にあげています。

買ってきても、直ぐにダメになる植物もあります。私はあまり手入れをするのが好きではないので、手入れが悪くても、しっかりと生き延びた植物を見てしまったら、植物に畏敬の念を抱くようになってしまいました。今ではどの植物を見ても、大切にしようとする心が芽生えました。たくましく生きている姿を見てしまうと、応援をしたくなりますね。天や世の中はいつまでも放置しないと思われます。

東北震災や福島の原発災害で、生き延びている方々には、これから、年数が経てば経つほど、応援の力がどんどんと増えてくるのではないかと思われます。(2013.9.20)

⑪心のあり方には疑問です

●心のあり方

静かに一人、内なる自分とは何者であるかという事を時々誰でも考えますね。神霊的にみますれば、もとより自分本来の流転するものではありません。の集合体、この本来の真の魂流転いたしません。何故ならば、人間本来のは、その因縁に従って修業を重ねて、遂に宇宙の大霊、仏教的には真如のなかに溶け込む、つまりになる事を究極の目的としているのです。さすれば人のは、本来の故郷に帰る旅をしているわけです。ですから人のはとりもなおさず神の子であり、仏の子であります。

では、何が一体をたどって流転するのかと言いますと、顕幽両界のたちが、真理に対する迷い・妄想から、たとえばあるたちが、真理に対する迷い・妄想から、たとえばあるが一つの事に対して真理を悟って解決しない限りは、次から次へとに宿って流転して行くわけであります。

菜根譚の著者潢自誠はこういう事を言っております。「人間の心体は便ちこれ天体なり。そのの喜は景星慶雲(景星とはめでたい時に出る星、慶雲とは縁起の良い雲一念の怒は震雷暴雨一念の慈は和風甘露(甘露とは泰平の時に降る雨、甘き事あめの如しと言っております)。一念の厳は烈日秋霜、何者か少き得ん。(ただし流転しているものも)随って起きれば、随って滅し(かまわなければただ自然と滅するものだ)、廊然としてさわりなきを要す(それに飛び付かなければ流転して来ているものと四つに組まなかったら忽ちその場で消えて行くものだ)、とあります。即ち掴むから又、流転する。

今おきて来た悪い因縁を摑まないで善処すれば消えて行くものだ、という事です。だから天体と人間の一個の念は同じ様なものです。

自分のの在り方で世の中、宇宙を浄めたりけがしたりします。その罪は大きいものです。厳しいという事も烈日や秋霜を世に出してよくありません。が一番いいのです。

 

紹介者からの一言

飛び付かなかったら、四つに組まなかったら、消えて行く、の原理は、力が均等であれば成り立つ原理です。均等であればこそ、お互いにぶつかることができるのです。どちらかが善処すれば、悪い因縁は消えていくと思いますよ、でも、実際の人間の世界で起こっている問題はそうではないのです。一握りの力の強い輩が、営利を求めて、大衆国民の弱みに付け込んで、潰しにかかっている力の強い利己守護の輩が多くいるのです。つまり弱い者いじめです。戦争だってそうでしょう。強い兵隊さんが生き残って、弱い子供や赤ちゃんが先に飢えて死んでしまいます。子供や赤ちゃんがその力に抵抗して、飛びつくことができますか?四つに組めますか?そんなこと初めからできません。それでも、戦争は起こっているのです。男性が女性をいじめているのです。赤ちゃんや子供、女性が男性と同じ力をつけられますか?それができれば成り立つ原理です。それはとても無理でしょう。

弱い者はいつの時代でも、潰されてしまうのです。真理でさえもそうです。力が弱ければ、力の強い偽りが勝利をするのです。それが問題なのです。そこが、一番の問題なのです。最初から相手にしようなどとは思っていません、最初から無いのを、どう善処すれば消えていくのですか?

今回の「心のあり方」の理屈は、私は賛成できません。心のあり方を変えるだけでは解決できない物があるからです。認知症がそうでしょう。

認知症になれば体や心の病が消えていきます。しかし認知症の病気は消えてくれません。心の自覚がない人をどのように、心のあり方を変えることができるのですか?この件は、内海先生の仙骨の歪みを治せば全ての病気が消えると言っているのと同じレベルですね。

心だけでは問題は解決しないのです。魂が問題なのです。女性や子供や赤ちゃんの被害のない世の中こそが、真の平和な世界なのです。

心ではないのです。魂の問題なのです。魂の立場に立った、魂の問題こそが、今の時代の問題なのです。

遺伝子組み換え食品がそうでしょう。種が病気にさせられているのです。

放射能にしてもそうでしょう。ワクチンの問題もそうでしょう。遺伝子が影響を受けて居るのです。

真の病気は原子の歪みから来ているのです。原子の問題が、今の時代の問題なのです。分子や物や心の問題ではないから、厄介なのです。

顕幽界の問題以上の問題が、現在の問題であると思います。だから、地球上の問題だけでは済まなくなってきていて、宇宙人があらわれているのでしょうか…。

それから、和と称して、和が一番といって、日本国家は国外の問題を誤魔化しに誤魔化して、真実を隠して、隠して、それが原因で日本がここまで蝕ませてしまったのでしょう。和が一番でもない事は歴然としています。(2013.9.21)

アンカー青山さんがおっしゃっていました。真っ正直こそが大事であると。私もそれに賛成です。(2013.9.20)http://ameblo.jp/blogdetox/entry-11616646751.html

⑫両変に滞らず、現実を大切に

●両変に滞らず

凡人は何でも物が二つ目に付きます。

好きとか、嫌いとか、うまい、まずい、或いは憎い

とか、可愛いとか、善とか、悪とか、是とか、非とか、有る、無い、善人、悪人とこの様に物が並んで見えるのを、両辺に滞ると申しまして、究極から観れば、ある様に見えても、本当は無いのであります。

高級霊は迷わず悟らず唯一すじに、御神仏の成すがままに与えられた仕事に専心されるのであります。

成しのまま渡れば安き橋あるを

何故なづらうや魂のくもるに

顕幽歌集に出て居ります。

神霊の悟りなどと言うものは、焦れば焦るほど、迷界に落ちて行くもので、自然の催しを持つ外無いものであります。

それは動を止めて止に帰すれば、止更に弥動ず。唯両辺に滞らずひたすら信じて坐る事です。

かように度重なる内には、必ず迷いの目が開き、見るもの聞くものみな美しく楽しく、宇宙一杯の広い気持ちになり、何故未だ来ぬ事を恐れて暗い気持ちになったり、人の為す

事する事が、何の為にこうも不足にばかり思われて来たかと、不思議な位にゆとりが出て、晴れ晴れして来ます。

この気持ちの変化を心霊的に言うなれば、「我遂に守護の霊に直結せり」と言うことであります。

おもしろの浮世ならずやまながひに

ふるるもの皆めぐし美し

心境でありましょう。

●現実を大切に

過去は如何に楽しくとも、結局過去過去です。そして未来は如何に甘くとも、しょせん未来未来です。それでありますから、今日一日でも背後霊と一体になった暮らしをしようと思う人はほんとに幸せだと思います。

喩えどれ程の苦しみであったとしても、一日と思えば堪え易く、こうして一日一日と思えば軽いが、更にその一日が積もっては十年、二十年、三十年となり、百年もなものです。

親に孝行の出来ないものも、「ああこれから長い事大変だ」と思うからで、長い一生と思うからこそ、大層重荷になるのであります。

私共は今日只今の心を疎かにしたなら、輝かしい明日のある筈はありません。

ですから凡ての人は、必ず対面して居る今の心を最も大切にすべきだと思います。

昨日荷負い明日を孕める今日をこそ

ふるい立てませますらをの君

顕幽歌霊は言っています。

●緊張をゆるめて

凡ての肉体的の苦痛や、仕事その他のいろいろの悩みの奥には、必ずと言ってよい程低級霊の憑依があります。そう致しますと精神的に病的状態が盛り上がって来て、精神が完全な平衡又は平静を失って高級霊の関与する余地をなくしてしまい、つまり高級霊が働きかけ様にも、その通路を塞いでしまう事になるのであります。

そこで心の片寄った緊張をゆるめる、丁度ゴムホースを自由に放り出してしまいますれば、ゴム管は適当に伸びて、水は通る様になります。こうして心の緊張をゆるめる事は、治療霊又は他の助け導く霊を迎える準備的な大切な態度であって、その上で「自分は今霊的の働きによって治りつつあるのだ」と固く信ずる事であります。

信じられれば信じられる様とし、頼られれば頼られ様とするのが、人情であります事は、あの世の人もこの世の人も同じであります。<No.234

 

紹介者からの一言

一歩一歩、自分の体力と相談して、前に進む。過去の歩いてきた道を振り向かず、あまり先を見ないで、一歩前に進むことだけを考える。

私は、富士山登山の八合目からが、まさに、この心境でした。

上を見ると、まだまだ先が長い厳しい上り坂、自分にはもう無理、登れない、諦めようかなと思ってしまいます。下を振り返ってみれば、よく登ってきたなと自己満足する自分。

自己満足をしてしまったら、頂上に辿りつくことはできません。

未来を思いわずらうことなく、過去にこだわらず、今、やらなければならないことを、今やる。あとでやろうと思ってしまいがちになる自分を戒めて、今、やる。後には回さない。即、実行する、を心掛けるようになりました。

大人のリンパマッサージだけで満足していましたが、ある日、妊婦さんで静脈瘤のひどい方が見えて、助産院を開業しようと閃めきました。即保健所に電話して、必要な書類を準備して、夫も一緒に車を運転してもらって、保健所に出かけたり、法務所に出かけたりして、その閃いた日に申請が終了しました。

さらに、大人のリンパマッサージはあまりたくさんするものではないと感じるようになって、つまり、悪い気を受けて、自分の身体に影響が出ることを体感するようになって、そこで閃めいたのが、家族がマッサージをする、です。家族に教える、です。ホームページを書き換えました。

ベビーリンパの商標獲得の時もそうです。病弱な赤ちゃんも一緒に連れて来て、マッサージをやって欲しいと、お母さんから言われて、適当にやっていたのですが、知りあいの方が、ベビーリンパはホームページには紹介できないと言われて、それならば、商標獲得に挑戦しようと思って、早速取りかかり、取得ができました。

つまり、自分の頭で考えて行動しない方がスムーズにいくのです。その時に閃いた事や思いついたことを大事にして、それをやれば、事がスムーズに行くことが何となく理解できるようになりました。これって、背後霊さんが手助けしてくれているのでしょうか…。

自分の頭が考える事などは、つまらないことばかりです。それに振り回されるよりは、自分の頭で考えた事の無い事に振り回された方が、発見が多いし、自分の力量以上の事ができるように思われます。

今日は、どんなお客様がくるだろうか、厚生省の新着情報はどんな内容かな、と毎日がワクワクして、待つことができます。誰もお客様が来ない日、新着情報も無い日は自分の頭で考えて書いたブログが裏腹になる始末、全く、自分の脳の考えることは碌な事になりません。自分の頭はなるべく使わない方がうまく行くように感じてしまいます。

自分の脳は、自分が体験をすることを通して、学んでいるのだと思います。自分の脳は自分の体験以上のことは出来ないのです。自分が今まで体験したこと以上の事は考えられないのです。ですから、自分の脳を磨こうと思ったら、自分の脳に考えさせないで、外界の出来ごとを大事にして、閃きや思いつきを大事にすることだと思います。

閃きや思いつきを大事にしながら、一歩一歩前に進むことが、自分の脳を進歩させることができるのではないのかなと思います。

思いわずらうことは、脳に一番悪い影響が出て、体にも影響して、病気になるように思われます。その様な心境になったら、その土俵から早く抜け出して、別の土俵に変えた方がうまく行くように感じて居ます。

今日も私の一言を聞いて下さり、ありがとうございました。2013.9.22

⑬因果応報の理、鰐ワニの涙

●因果応報の理

「値を払わずに求むる勿れ!そして汝盗む勿れ」

人は盗人スリ横領者等をひどく咎めて、これ等の不法物は厳罰に処すべきだと主張します。

これは当然の事だと思われますが、しかし一歩心霊的に深めて考えますと、「盗む勿れ」と言う文字面を守って、その精神を犯して居る傾向がないではありません。

それは何故かと申しますと、人は善悪に拘わらず、それが物質であろうが、精神的なものであろうが、「蒔いた種は必ず自分が刈り取る」と言う因果の法則があり、「蒔かぬ種は生えぬ」「瓜の蔓には茄子はならぬ」と言う業の法則があります。

然るに“盗む”と言う事は、値を払わずして何ものかを得ようとする事で、因果応報の現象界に於いては、本当は不可能な事でありまして、労せずしてうまく行ったつもりでも、霊的に見ると、その盗んだものは決して彼に備わらず、やがて雲散霧消するものであって、否その幾倍かの不幸が来るという利子が付くものであります。

悪銭身に付かず」とよく申します。

かように人間は厳しい因果律や心の法則の支配する世界に生きて居るのでありますが、その人が若し真の布施をするならば、必ず倍になって帰って来るのが、これが亦礼界の法則であり、厳然たる事実であります。

「自分自身に人からして貰いたいと思う事を、人にせよ、若し汝が人に施こしをするならば、それは善い事である。然し汝がそれを隠して、施こしを与えるなら、更により一層善い事である。そしてその行いは汝の罪・咎めの幾つかを贖うであろう

これは偉大なる霊覚者マホメットの言葉であります。

マホメットは洞窟の中で瞑想して、初めは狂気の如く神経質になって悪霊と戦い、遂にその感受性を霊的なものに正しく振り向け、人生の謎に対するあくなき研究心を持ち、ハラ山上で悟りに達し、霊魂不滅の真理を説き、愛の奉仕に霊妙な不思議な力を発揮した人であります。

従ってマホメットを崇拝する信徒は、「肉体の彼自身が地上に顕現した神そのものだと考えたのでありますが、マホメット自身は「私は人間以外の何ものでも無く、私こそ人間性そのものだ!」と自らを神としたい誘惑の多い環境にあって、又そうする事が当時のアラビヤ民衆の要望であった時代に、終始正しい人間としての態度を把持し続けた人でありまして、これは大宗教の教祖としては実に驚異的であります。

なぜ民衆は彼に様々な神性を押しつけようとしたのに、彼は頑としてそれに応じようとしなかったのであろうかと考えますに、これはマホメット自身が、霊界の秩序をよく知って居たからだと思われるのであります。

この点日本の様に少し霊能があれば、直ぐ神様気どりする者が多いのとは、当に雲泥の相違であります。

この様に霊界の秩序法則を良くわきまえたマホメットが、陰徳を説いて居るのでありますが、それと同じ様に、この協会の背後に在って働かれる高級霊は、「汝万一詐欺にあいなば、その人をうらむ事無く、却って悪心を起こせし人に幸多かれと念じよ。さすれば彼は幸せなり、必ず汝に借りものを返すであろう」と常に言われています。いずれも真理は同じ事だと思います。

●鰐ワニの涙

ある帰幽霊が大勢の中の代表として一人立って居て、この人の肩に“鰐の涙”という文字が視えますが、この霊等はかねてこの世に在った時は罪深い偽善者であって、今の今迄幽界で苦しんで居た人ですが、緑に連なる人がここに来られる様になり、やっと救われた人です。

側に視える“鰐の涙”と言う言葉はシェイクスピアがオセロ、アントニー、クレオパトラ等に言わせて居る言葉ですが、これは「万一鰐が水際で人を見たら、出来ればこれを殺し、そして後涙を流して泣きながらこれを食うであろう」と言う偽善の象徴と見られます。

そして又鰐論法と言う言葉もあります。これは古代エジプトの伝説でありまして、ナイル川で鰐に子供を攫まれた親が「子供を返して呉れ」と訴えたところが、鰐は「わたしが子供を返すか返さぬかを当てれば返してやろう」と言い、勿論鰐には子供を返すつもりはなく、若し子供の親が「返して下さるでしょう」と答えれば、子供を食って仕舞って「答えが当たらない」と言い、「返さないでしょう」と答えれば、「返すつもりであったが、残念にも答えが当たらない」と言って、どの道返さずに済ましてしまいます。

これを鰐論法と言って、どちらでもこじつけられる詭弁法であります。誰でも鰐のずるさを憎みます

前に述べた人等も自分を正当化する為、この手を使って金をためた冷たい心の人たちでした。しかしこの人達の様に悪賢い人は、鰐の様な醜怪な姿となって幽界で苦しんで居ります

 

紹介者からの一言
高橋信二さんの心の在り方のシリーズを読ませていただいた事があります。お釈迦さまが修業されておられた頃に、マホメットと同じように、悪霊と戦っているシーンがあります。人間の心の修業をする過程において、誰にでも必ず悪霊と戦わなければならない時期が訪れるようです。私たちの人生においても、そのような事がいえるのではないでしょうか?

悪霊に取りつかれて、毎日私たちの心が、その悪霊と戦っているのではないのでしょうか?自分の心の中の悪霊と毎日、毎日、戦って奮闘されている方が多いのではないでしょうか?悪霊と我慢して働く人、悪霊の手下になって自分も悪に染まって働く人、悪霊の中でも染まらないで働くことができる人、悪霊に痛い目に遭いながらでも頑張って働く人、始めから戦わずに自分の心や家の中に閉じこもっている人、悪霊と戦っても無駄だと諦めた人、諦めないで悪霊に勝利する方法を常に摸索して働いている人。

悪霊と戦う事は、人間の心の進化の過程における宿命のように思われます。

私達人間が早く進化するには、どの方法で生きて行けばいいのでしょうか?遅かれ早かれ、マイナスになる生き方だけは避けた方が良さそうです。

そろそれ、地球のお身体は悪さをしている細胞を癌化にさせて、治療するとも言われています。そうしないと地球がどんどん蝕まれていくようですので、地球がガン治療を始めるようですよ。手術で取り除かれたり、化学療法で力を失ったり、放射線で焼かれたり、この三つの方法を選択されたならば、正常な細胞も影響を受けて、一緒におだ仏です。

既に、ガンの転移が全身にできてしまっていて、どの治療もできない状態で、余命一年もない状態、未来の人生を諦めて、地球共々、私たちはおだ仏になる覚悟をしなければいけないのでしょうか?

それとも、地球上の人間が今の活動を全て止めて、温泉に行ったり、リンパマッサージをしたり、身体を癒やして、奇跡的に癌を消滅させることを選択してくれるでしょうか?

最後の選択をされるのであれば、人間の参加が必要であり、それが必然で、ベストであると思われます。2013.9.23

⑭人生の不可解さと心の持ち方、動物霊の話(犬神と管狐)

人生の不可解さと心の持ち方

自分の意志でも無いのにこの世に生まれ出て、人間としての営みをして居るこの不思議、更に不思議なのは、名誉や地位があり而もいかにがあっても必ず死ぬと言う事であります。

そして今こうして生きて居る不思議も、決して生理学や哲学の説明文では納得出来ませんし、何故各人の智恵や性格に相違があるのか、又各人に貧富のや天寿の、或いは幸不幸の別が生ずるのか、一体これは天の配剤なのか、又は悪魔のいたずらであろうか、否!否ほんのひょっとした偶然なのか、定まって居る運命なのか、と考えれば考えるほど迷ってしまい、殊に人間の死に至っては不可解の一語に尽きます。ある人は「死は人間の只一巻の終わりに過ぎない」と言って居るが、それは余りにも軽薄な考え方と、心ある者は思うでありましょう。

ある会社に、朝は誰よりも早く出勤して良く働き、素直で何事にも良く行き届く女子工員が居ります。年齢は三十五、六歳ですが、未だに嫁ごうともしないが、それにはいくら話が来ても行けない事情があるのです。と言うのは病む両親と小さな弟を養わなければならないからです。

ところがその反対に近所で、我が儘勝手気儘放題に遊び回って居た顔のまずい、悪魔の申し子の様な娘がありましたが、それでも綾の光で相当な所にかた付いて、物質的には恵まれているようです。

これを思う時、今の心の在り方では決算が出て来ません。つまり辻褄が合わないのです。例えば「あの人は心がけが悪いから不幸になって居るのだ」と決め付けるのは、余りにも可哀そうで、また無責任きわまると言う事になります。

故に心霊家には、貧者たりとも侮らず、富貴権勢といえどもへつらわぬ底の人が多いと言う事は、真の人生とは何かと言う事を知って居るからであると思われます。

そして心霊家なら六道・四生いずれに行こうと遊戯三昧で暮らせるでありましょう。

然も最も理解し難い事は四生いずれ不公平に分配されて居ることでしょう。

自尊心が強く裁き心も強く、而も働き続けて居る人で、世間からは“正直者”と言われて居ながら、何時も「赤貧洗うが如し」を文字通り生きて居る人がありますが、これは何故でしょう。富は心の豊かさから来るものであって、いくら年中彼が働いても、貧乏の意識からぬけ出ぬ限り、貧乏神波長が合い、居心地よしと好かれて居座られ、従ってしぶくれ顔したりこぼし話をしたりして、自分をなぐさめる様になります。

反対に一見役に立たない目立たぬ人間の様に見える人でも、彼が豊かな心を持ち欠乏を心に描かなかったら貧乏神は寄り難く、従ってこの人は富を持続して行く事が出来るでありましょう。

この協会に来て何時の間にか物心共に恵まれたと言う方がありましたなら、そのまま心の寄り所が出来、貧しい心から明るい心に羅針盤が向きを変えたからであります。<No.235

●動物霊の話(犬神と管狐)

或るときわたしが小豆島へ行った時でしたが、途中麻のハンケチを落して、帰ろうとしますと、私のハンケチをぶら下げて居る男を見ましたので、側に近付こうと致しますと、その男の周囲に首に輪をしたモルモット位の大きさの犬が二十匹も視えましたので、うっかり話しかけられぬと気付いたのです。

それはこれが有名な四国の犬神持ちで、つまり犬神の宿主なのです。この犬神は言わば宿主に養われて居るようなもので、若しこの宿主が誰かと争い、「あいつ生意気な!覚えて居れ」とでも思うものなら、すぐ喧嘩相手の家に押しかけ、病気にさせたり怪我をさせたり、立木を枯らしたりしてを起こさせ、自分の宿主に変わってを取ります。これが又子を生み、それぞれの家の家族の者を守護すると申しますが、これは邪神であります。

又昔から犬神持ちから物を買うと損をすると申しますが、それは例えば炭を二貫目計って犬神持ちの家から買って、自分の家に帰って又計ると、半分の目方しかないと申します。

これは炭を計る時、犬神が計りのフンド―を引くからと申します。

この様なのは、神との名はあっても邪神であります。

又ある時私の弟が、静岡の在に一週間程の予定で親戚に出かけましたのに、三日程で帰って来ましたで、「どうしたのか?」と聞きますと、泊まって居た隣の家の人が「大変だ来て呉れ!クダ狐がおじい様にもぐり込んだ」と言うので、今頃何かの間違いではないかと思ったが、面白半分行って見ると、針で玉子大のコブの様なものを突っつきながら追いかけますが、巧みにクダ狐は体内を逃げ廻るので、仕方なしに本物の犬を連れて来て吠えさした処、暫く体内から逃げたので、一回安心して皆でお茶を飲んで居ると、間もなく今度は向かいの家から「来て呉れろ!内のおばあさんの脇の下にクダ狐が入り込んだ」と言う声がしたので、全く気味が悪くなって早く帰る事にしたと言うのです。

クダ狐の古い記録は、伏見稲荷で小箱にクダ狐を入れ、二文じゃ!いらぬか!と売って居たのを買ってきた若者が、それを耳の側で振ると、中から声がして「金をもうけさせてやろう。今向こうから金持ちの女が来るが、その先にうどん粉の粉でも灰でも良いから早く用意しておきなさい。するとその女がお前の前で苦しむから、その粉を唇にぬって苦しみを治してやれ」とささやかれたので、若者はその通りにすると、その女の苦しみが不思議に治り、喜んで大変なお礼の金を呉れました。

すると又箱の中から声がして「今度は男が来る!前の通りやれ!」と言われ、その通りにして又金を貰いましたが、この若者も小箱の不思議が恐ろしくなり、しかも金がたくさん出来たので、国元へ帰りこの金で田畑でも買って安楽に暮そうと思いクダ狐の入った小箱を川に投げ込んでしまいました。

すると「助けて呉れ、助けて呉れ」と泣きわめく声が耳に突き刺さる様ですから、自分も川へ飛び込んで夢中で捜したが見当たらず、止むなく国元へ帰る事にしたが、その途中で急死したというお話です。

このお話の様に、金欲しさから、低い動物霊を使ってはよくない事が起こります。

或る人が、低い動物霊に金儲けを頼んだ所、たくさんの金は入って来て楽にはなったが、一人娘が車にひかれて亡くなったという話もあります。

 

紹介者からの一言

自分の思いが、自分の人生を作る。と私もそのように思います。

自分がなりたい人生を思い浮かべて、それを紙に書き出して、毎日それを眺めて、復唱すれば、そのような人生を送れると、確かカーネギーだったかな、その本を、私が25歳の頃に読んだ事があって、それではと思って、白紙に自分の理想とする仕事や趣味、未来の夫や子供、その数、更に自分の理想の姿、顔まで、その白紙に書いて、毎日唱えてみる事にしました。しかし、一ヶ月も続かなかったと思います。馬鹿らしくなって、止めてしまいました。その事は、すっかり頭から離れてしまいました。

そして結婚して、子供が授かって、ある日、自分の人生を振り返ってみたら、なんと、その時の白紙の通りの人生を送っていたことに、20年も30年も経ってから、気付き、自分の身体が震えてきたことがあります。

そうなのです。自分の人生は自分で作っているのです。繊細とまでは行きませんが、だいたいそのような人生を送って居るのです。そのスケジュール通りに、天は動いているように思われます。だから、心の在り方を高めに設定して、決して低く設定しない方が良いと思います。これはとても大切であるなと思います。だから、日本が世界で一番なのだ、二番目ではないのだ、だから日本人が立ち上がらなくては、世界を変えることが出来ないのだと言う気持ちが、大切であり、決して卑屈になってはいけないように感じて居ます。

クダ狐ではありませんが、自分の汗、水、血を流さないで、お金儲けをしても良いものか、更に自分だけにとどまらずに、更にその方法を他の方々に伝えて行き、更にお金を稼ごうとする。

私が、ブログの世界を見て、ビックリしています。ブログでお金儲けができますと誘っているブログが多いからです。それなりに、世間のお役に立つ形で、自分で調べておやりになられているようですが、若いうちから、人生経験も無い方がおやりになられてよいものなのでしょうか?

宇宙の法則に沿ったお仕事をしないと、長く続かないと思われます。若い時に、一時の楽を覚えてしまったら、自分の一生をダメにしてしまう恐れがあるのではないでしょうか?それが心配です。
 
2013.9.24

⑮流転と因果関係の中の人生、死について

●流転と因果関係の中の人生

今出て来られたに、その在世中と比較して、今の人生観を聞いてみる事に致しましょう。

「さて人生観は?」と改めて問われると一寸答えに窮しますが戦時中から戦後の今日迄長期にわたって、時代の激流にもまれながら、唯今日を生きる事が精一杯であった私には、人生の意義とか価値とかを考える余裕さえありませんでした。戦後二十年にしてそんな問題を提出される様になったのは、幾分世の中が平成になったと喜ぶ者であります。

凡てのものは変化して流れて行く凡てのものの一つ一つどれとして互いに関係し合わないものは無いのでありまして、然もこの世にあるものは凡て悉く流れに転じ移り変わり、どの様なものでも不変性・常住性・固定性は無く、同じ処に同じ状態で、いつ迄も変わらないで続いて行くものは、この世には一つも無いと言うのが真理であります。この真理は何人も拒む事は出来ません。

そして万物は相互依存であり、顕幽両界にあるものは悉く相依り相関係して存在して居るのであります。縦、横のつながりが、網の目の様につながって居る。そしてその中に自分も在って切り離す事は出来ない。この事を思う時、我だけが思うままには振る舞えないのが当然であると、こちらへ来て愈々悟ったものであります。

●背後霊と一体で

人が若し背後霊の恵みは無限であると信じて、これに任せ切って生きて行く事が出来たとしたら、私達には悩み苦しみ無く明るい生活が出来るでありましょう。

自分にはチャンスと守護霊、指導霊が付いて居ると口に言えるが、本当に信じて居ないから何か起こるとすぐ慌て悪い方にばかり考える、つまり空念仏で、ピッタリと魂の琴線に触れて居ない様な気持がするのは何故でしょうか。それは祈りが足りないか或いは実践が足りぬからであります。

人は価値を支払っただけのものしか受け取れないという厳然たる法則があります。

●人間の自由意志と想念のはたらき

人間は他の動物とは異なり、多分に自由意志を持つものでありまして、この自由意志を持つが故に厄介な代物と言えましょう。

つまり人生とは何であるかをわきまえずに、たまたま銀難に遭遇すれば意気消沈して、その失敗を他人のせいにばかりしたがる故に、悪霊邪霊の共鳴するところとなり、遂に転落するに至る人間が居るかと思えば、銀難に遭遇しても、意気益々勇躍して、一体この失敗の原因はどこに有るかと、つぶさに研究して、その事に対しての誠を致す事によって、己の高い祖霊とのつながりを得て、その見えない守護指導の誘掖があって、さしもの難局も乗り越えて彼岸に到達する人間もありますが、そのいずれにせよ人間のみが持つ自由意志から来るものであります。

とは言え、善悪共に人間の起こした念波は、この宇宙に遍満して人は勿論、動物、植物、天候にまで多大な影響を及ぼし、遂にその念が具象化し必ずになって現れる性質なものであります。ここに万葉歌人の二人の歌を簡単に紹介させて頂きます。

先ず、あの大伴家持の父で讚酒家として有名な大伴旅人の歌に

この世に楽しくあらば来む世には

虫に鳥にも吾はなりなむ

とあります。

これはつまり自分さえ今良ければ、他人の迷惑かえりみず来世思想に反抗し続けた旅人ではありますが、まさか本人も後世にこの歌を見る人をして、ややもすれば自暴自棄の良くない想念を醸し出させるものとは思わなかったと思います。

それに反し現世生活に最大の喜びとその価値を認めた安倍女郎イラツメの歌があります。

吾背子は物勿思ひそ事しあらば

火にも水にも吾なけなくに

つまり我が夫よ、心配なさいますな、貴君には火の中水の中を一緒に行くと私と言う者がついて居りますと言う意味であります。

何と力強い歌でしょうか?この歌は後世よむ人をしてほのぼのとした暖かい良い想念を醸し出させます。

これ等二人の作者も、知ると知らぬとにかかわらず本来高級祖霊のつながりを得て、類魂進化を目的とする一員として、人生生活をされたのでありますが、人生の苦楽に対してどんな反射作用を起こし去るかは、その人の持つ自由意志の範囲に属するものであります。

でありますから、最高の善を想念する事が自由なのであります。

●背後の神に直結を

この精神統一会で働かれる神仏は、或る時は銀竜、或る時は金竜、又或る時は白髪白髯、又或る時は古代の女神等が視えます。

女神とおぼしき方は、白い長い裾を引く洋服に似た衣を召して居られまして、お産の神満手姫と名乗らるる神は、和服の袖の白い着物に白の帯をしめて居られます。

そして、何時も皆さまの統一の中には、そのお姿は丸い光る玉に視えますが、私がこの光はどなたかと思う時、ほのかにその姿を視させてくださいます。そして皆様の徐霊その他先祖霊の導きをして、物質的に恵まれない人には、その人の霊を見出し、本人が知ると知らぬとに拘わらず守って下さる様手続きをなさいます。

私にはこの様な背後様が居ると思うだけでは念が弱く、むしろ日に幾度も呼びかける事です。

吾魂の奥の奥なる守り神よ

無限の力湧き出させよ

呼び掛けた時、人間では考えられぬ力が湧き出て参ります。

●死について

昔から人間程を怖れる動物は他に見られないのでありますが、それは何の為にそう思うのかと考えて見るに、或る人はに際の苦痛を考えると死ぬのが恐ろしいと言い、又或る人は死んでから地獄とやらに行くかも知れぬから嫌だと言います。又地獄を信じない人でも、は万事おしまいだと恐れます。

また年寄りに良く見られる図ですが、「もう何も思い残す事は無い、早くお迎えを」と念じて居ると言う人に、若し仮に「では楽々と眠る様に死ねる方法をお授けしましょうと」と申しても、「それなら今直ぐその方法で死のう」と言う人がありましょうか。必ずや「今少し後で」と答えるでありましょう。

それでは何の為に人間はこれ程死を嫌うのでありましょうか?その理由を端的に申しますならば、実現しようとしてひそかに企てて居た一切の要求が、と言う出来事によって断絶されるからであります。

即ち一切の希望が刹那に断ち切れ、凡てが虚無に帰り、この大宇宙、日月星辰、山川草木の驚くべき魅力を失うと思う淋しさがあるからでありましょう。

然し心霊家は幸せです。死とは霊界へ生まれ変わるのであって肉体が滅びても現象界の続きの生活に入ると信じ、霊界入りをしたら輝かしい活躍をしようと常の人には見られぬ死に対する明るさを持って居ります   No.237

 

紹介者からの一言

死は誕生なのですね、出産なのですね、それならば助産師のような職業が要りますね、どの様な方がいいのでしょうか?看護でも、介護でもない職業、死に神に来てもらっても困ります。生きている人でないといけません。医師かな?生死の間を司る職業。牧師?神父?坊主?それらの職業は死んでか必要ですが、死に向かおうとする方に対して、お呼びしたら、失礼にあたるように思われます。

ここはやはり、助産師のようなお役割の職業が必要になると思われます。心霊家が一番良い様に思われます。生きている方々のアドバイスをしているだけではなく、死に向かう方々の御援助をその方々にお願いしたいと思います。

占いや運勢や予言だけではなく、この際、霊界へ生まれ変わる、誕生のお手伝いをしてはいかがなものでしょうか?せっかく天から御授かり頂いた、その能力を、是非、死に怯えている方々への不安を、少しでも取り除くお手伝いをして頂きたいなと思われます。

私は、自分の父親が死ぬ一週間前頃から、何かに気が狂ったように、恐がって、怯えていて、悪かった、悪かったと、何度も何度も、頭を下げている姿をみました。この時に、霊界を観ることが出来る霊能者がおられたら、上手に御導きができるのではないのでしょうか?

チベットには、そのような方がおられると聞いた事があります。 2013.9.25

⑯火について、霊視について、悪因縁を解消させるには、精神統一と坐禅。

●火について

古代に火が崇拝されましたのは、太陽崇拝から来たもので聖火と呼び、悪霊を防ぐのに役立つとされて来ました。

火を崇拝し、これを消さずに守り継ぎ来ましたのは、日本だけでなは無くイスラエル、ローマ、朝鮮などがあります。

日本では昔から久度神並びに荒神を火の神と呼び、火の恵みを称え、新家を起こす場合には、必ず本家より火分けして元を移し、大切に致して参りました。

従って他家から火種を貸借することは強度に忌み嫌う風習があったものです。

これはあながち古代に火を起こすことが困難だった理由だけでは無い様に思われます。火嗣の御子とは、火を継ぐの意味でありましょう。

長野の善光寺は創立以来常夜灯と言って火を絶やしませんし。比叡山延暦寺でも、その根本中堂におきまして、一千百余年にわたって法灯を守りつづけています。また神社で子供に火の輪をくぐらせたり、また火渡りの行などをするのも、悪魔除けの一つの行事と思います。

或る地方では、その地の旧家から正月の雑煮を作るのに、最初の火を貰うならわしの所もあります。

しかし火は汚れ易いとも言われ、出産、不幸のあった場合は、汚れたと言って、火がかりと申し、火を切り替えます。また家長の死んだ節は竈カマドの三つ石をも取り替えたものです。

ローマでは祖霊と火の神を融合し貧富を司るとされ、家族神と崇めて居る地方も有るのであります。ともかく古代から火は悪霊を退散させるものであるとされて来たのは、日本だけではないと言うことです。

●霊視について

心霊研究に志す人は、必ずと言ってもよい位霊視にあこがれます。霊視が出来るとは、自分が見るのでは無く、その者の背後霊に霊視さす能力のある事を意味します。

霊視を致します場合、見るを仮に凡そ四通りに分けてみましょう。一は自然霊、二は気幽霊、三は生霊、四は動物霊と致します。

一の自然霊とはかねてこの世に肉体を持って修業した事の無い霊を言うのでありまして、仮に竜体、白狐、鹿、ろうたけた翁などの姿を取って現れます。この協会へ来る霊視能力のある人は、前もって何の知識も持たないのに、銀色の竜神や金色の竜神を霊視され、皆同じ特徴を話されます。

二の気幽霊の場合は、人を守る程度の力量ある高級霊は別としまして、大抵の場合死に際に心残りのある霊が多く、何か訴えたい場合であります。然し高級霊に引き渡す事によって覚り喜び、その立場立場の修業の道に就くものです。

三の生霊は、今現に肉体を持って居る魂でありまして、恨みの念が強くそれを煽動するその人の身近の低級霊の仕業の場合が多いようです。又この協会の方が、天命今や尽きんとする一日二日前その人の背後霊と共に坐って御礼に来られます。これを霊視した場合、「残念だがあの人はこの世を去られるが、どうぞ苦しまずに楽に帰幽されるように」と念じます。

そして次の日か又は二日位たって身内の方から、「苦しまずに楽に今息を引き取った」と電話がかかって来ます。

四の動物霊は、これは雑多で、その中に霊能のある動物いろいろの姿に化けて視せます。

動物が出て来るのをお化けと言い、人霊が出て来るのを幽霊を申します。このお化けと幽霊を混同する人がかなりありますが、この霊能のある動物霊は帰幽霊を使っていろいろ悪戯をし、人に迷惑かけるものです。

終わりに高級霊と直結して居る霊能者は、決して視せられたもの自体(何か人の世に役に立たぬもの)は言いません。然るに低級霊に操られて人を脅したり怖がらせたり、役にも立たぬもの)は言いません。

然るに低級霊に操られて人を脅かしたり恐がらせたり、役にも立たぬ事を言って居る霊能者の事を嘆くものであります。真の心霊家は仕官打坐してひたすら心境を上げ、しかる後霊視を楽しむべきだと思います。

悪因縁を解消させるには

悪因霊を解消させるには、求めぬ布施心より外にないと言っても過言ではないと思います。与える事と受ける事の法則は、すぐ与えられると言う事にならなくとも幾許かの時間を霊界で酵し、その人の支払った値だけのものは与え返される事になるもので、今現れて居る外見のみを見て、法則の存在を疑う様な事があってはなりません。

●先祖の恩沢は、貴方の想像以上でありまして、求むる者には慰安を与え、探る者にはその手がかりを与えて下さいます。

無知にして騙されたと言う。それは背後を常に信じて居ないからで、信じて居たのにこうなったと彼は言います。然し、それは背後霊から来たものでなく、己の我から来た無知でありましょう。無知無我とは大いに異なり、無知は騙されるが、無我の処には背後の叡智が流れて入るから、騙されると言うことはありません。<No.238

昭和42

●精神統一と坐禅

心霊学は、羊腸千里の道と言われています。それはいくら学問して理屈を知っても、一向に安心が出来ぬので、学問もさる事ながら、この生の膚で知ろうとするのが、心霊の統一であります。

統一は、釈迦以前から有ったもので、坐禅がその一種ですが、この坐禅は統一中因縁の霊が浮かび出た時、徐霊能力に力量の有るが居合わせないと危険なので、後に今の坐禅方法に変わって来たのです。つまり目は半眼に開き、考案を考えさす様式ですが、以前はこの統一そのままで釈迦が菩提樹下で統一して居られる姿の目は半眼では無く、閉じて居られます。そして公案も考えられず、ひたすら真理に向かって居られるのでありましょう。

つまりこれは、いや高い高級霊との直結を計って居られるのであって、統一中雑念が入って来たら息の上に載せ、囚われる事無く送る事です。

ここ(協会)では統一される場合は、ここで働かれる徐霊能力に力量のある高級霊が、常に見守って居られますから、如何なる悪霊が憑依して居る人でも、安心して坐る事ができます。

 

紹介者からの一言

何回かな?私も行って坐りました。しかし、どうしても雰囲気が合わなくて行くのを止めています。50人から100人位、その日によって人数が違うのです。慌ただしくて、心霊家もつんつんしているし、心霊家の世間話が愚痴であるだけでなく、差別をしている感じを受けて、トップの女性の方の時に行ってみたらどうだろうと思って行ったら、来ている人数が半端ではなくて、非常に多人数で、その時には遅れて行ったのですが、一番後ろの方に坐わり、その時に私の方に向けられた目がきつかったのです。その日から行くのを止めてしまいました。

現世の中で生きている方は、肉体があるので、疲れる時もあるし、肉体が疲れていたら、心霊家でも雰囲気が悪くなりますね。

プロと、プロでない人の違いは何だと思いますか?

プロはお金をお客様から頂くのです。真のプロを私は見た事がありません。プロだなと思われる人は、疲れていても、疲れを見せないのです。更に、高齢者でも、身なりが汚なくても、貧しくても、やさしい声をかけて診察する先生(医師)は、やはりトップにいます。心が汚れているようでも、仕事と割り切って、きちんと仕事ができるようになればプロですね。若い医者にはできない芸当です。しかし真のプロとは思えません。

私は正直に顔に現れる方なので、疲れた時や、不機嫌、余裕の無さが正直に顔や態度に現われてしまいます。友達からは、熊谷さんは顔を見ただけで、機嫌が良いか悪いか、分かりやすいと言われたことがあります。

どうすれば真のプロになれるかが、私の課題となりました。

その方法は、自分自身から離れる事かなと思っています。全てを天にお任せする事なのかなと思っています。つまり、現実に起こっていることに振り回されないで、現実に起こっている事は、私にとっては必要なことであり、必然なことであり、ベストであるのだ、と思う様にすることです、それが、受け入れることができれば、心が穏やかになるような気がします。その生き方のほうが、自分だけが無理をすることも無いし、穏やかな顔でいられるのかなと思っています。2013.9.27

⑰悟道三関、真の愛情と盲目愛、与えると共に受け入れの準備を、祈りの仕方

●悟道三関

日向に行って自分の身を動かせば、直ちにその影が映ります。長い物は長く影が映り、短い物は短く映ります。

精神の上に於いても、一念僅かに動ずれば、直ちにその影を引きます。例えば憎いとか可愛いとか、一念が僅かに動いたら、喜怒哀楽の情けが起こり、それが顔色に映ります。

一念分別すれば直ちにその影が現れて、正念の妨げになります。即ち人を殺せば殺されると言う影が映り、価を払わずに物を得れば、取られるという影が映り、価を払わず物を得れば、取られると言う影を引き、嘘をついてごまかせば、命縮むの影を引きます。

仏教では、業・転・現の三細と言う言葉がありまして、業とは微細なる一念の分別が起こる事で、転とは一念転じて粗悪となる事で、現とは一念が遂に外に現れて来る事であります。

例えば水を汲んだ時には、初めは清いが暫く置くと腐ってくる。それを転と言い、遂にはボーフラが沸く様になる。これを現と申します。

また人間の悟りも同じ事で、悟ったと思うのは固まりが出来る事ですが、これはその上の悟りがある事を知らぬからでありまして、氷は固まって居るから水の様に、自由にならぬのです。「水は方円の器に従う」で、水には定まった形は無いが、それが凍って刃物の様になれば、窮屈になります。

人間の悟りは、いつも固まりのない様、さらさらとした悟りでありたいものです。

●真の愛情と盲目愛

国宝になって居る狩野芳崖の筆になる非母観音と言う絵がありますが、この絵は母親の我が子に対する愛情を描いたもので、母親は我が子には無条件に愛情を示すものである事を、よく物語って居ります。

よくある事ですが、近所の子供と喧嘩でもすれば、その時の事情も調べず相手の子を憎みます。又学校の先生から「お宅の御子様はもう少し勉強してほしい、どうも不勉強で困る」とでも言われる様ものなら、それを素直には認めないで我が子をかばう余り、他人の子を悪く言いたがるものです。

この様に母親の慈愛は、深い貴いものですが、しかしその愛は誰彼の区別をする、つまり平等にしかも一様にはゆきわたりません。

これは限りある人間の悲しさでありますが、然し高級霊になればなる程、その慈愛大慈大非となり広大無限であります。

それは“空”と言う母胎から生まれて来る真実の慈愛で、盲目的な溺愛とは違い、叡智に裏付けられた愛であります。本当の慈愛は時には突き放して一人立ちを待つ様にしむけるものであります。

それは“空“と言う母胎から生まれて来る真実の慈愛で、盲目的な愛とは違い、叡智に裏付けられた愛であります。本当の慈愛はときには突き離して一人立ちを待つ様にしむけるのであります。

●与えると共に受け入れの準備を

キリストは「汝与えよ!さらば与えられん」と言って居りますが、これは真理でありましょう。とかく朝智慧の人は「与えたら、それ丈自分の物が減るではないか、そんな馬鹿げた事が出来るか?」と見得を切ります。

然しよく考えて見ますと、与えるとは受け入れの用意の事であったのです。例えば農家が肥やしに金がかかるからとか、防虫剤に金がかかるからと、しり込みばかりして居ったり、畑に出ると骨が折れるからと、家に寝ころんで居たのでは、ろくな収穫はのぞめません。

肥やしでも、防虫剤でも、他人が三度手入れする処なら、自分は五度手入れをするという様にしたら、必ず与えた以上の収穫が得られます。また勉強にしても、自分の職業である仕事にしても、念を入れて受け入れ準備をするならば、した丈の事は必ず与えられます。

●祈りの仕方

“祈り”も仕方によっては、却って逆の結果が出て来る場合があります。

「唯一向専心タダイッコウセンシンに南無阿弥陀仏と念じよ」とは「唯今守護霊を通じ仏様と一つの心にある事を深く思え」と言うことです。そして「今ここが極楽浄土であると深く念じよ」と言う事であります。

一向専心とは、何も考えず思いをこめてお祈りする事ですが、「苦悩を取り去り給え」と念じるのはともすれば、苦悩を念ずる事になりますから、

逆に良くない事になります。

でありますから、事情をよく話してから、「今守護霊が癒し給いつつある」と思いながら統一して居ますと、必ず心霊治療霊団の働かれる場を作る事になり、その病によって立たれる霊が違い、又仕事の内容によっても働かれる霊が違います。<No.239

 

紹介者からの一言

受け入れ準備ができていなければ、自分の行動に自信を持つことができない。私の人生を振り返ってみると、思い当たる節がたくさんあります。

田舎の山暮らしで育った幼小児期の私は、姉と弟のキョウダイとしか遊んだ記憶がありません。殆ど一人遊びで過ごしていました。早く大きくなって、小学校に通って、お友達とおしゃべりすることを夢みていました。しかし、小学校に入っても、私とお話の合う友達がなかなか見つかりませんでした。低学年の頃は、授業が理解できていたので、元気に手をあげて、目立つ生徒でした。しかし、それが周囲から異様に感じられてしまって、だんだん目立たない人間になる事に徹しました。勉強にも身が入らず、普通の成績の、目立たない、静かな、おとなしい生徒でいました。目立つことが嫌いになりましした。

みんなの前で、意気揚揚にお話ができる人がいますが、どうすればその様な行動になれるのかが不思議でした。決して勉強が優秀だからという理由ではないのです。むしろ、勉強ができなくても、元気な生徒なのです。その生徒が勉強の出来る子をいじめたり、威張ったりしているのです。つまり、餓鬼大将です。先生も一目置いて、静かにさせていました。

私は、何故か不思議に、進学がスムーズにできて、助産師になることができました。自分に自信を持つことが出来ないのは、相変わらず続いていました。はじめて就職した時には、その自信の無さがピークに達しました。

職場の先輩と会話が出来ないのです。助産師の仕事に自信が持てなくて、自分でも困りました。同じ学校を卒業した友達が他に二人いましたが、その友達は、仕事に自信がなくても、職場の先輩とうまくお話ができているのです。私にはなかなかそれが出来なくて、その時にも先輩から異様な人間と思われてしまって、更に困ってしまいました。自信がないという理由だけの事なのですが、それが周囲に分かってもらえませんでした。

自信を持って、仕事ができるようになるまでには、3年かかりました。

しかし、今度は自信過剰になってしまって、それが仇となって更に落ち込む始末です。

そして結婚、再就職、出産と続いて、周囲とうまくやらなければならない課題がどんどん押し寄せてきました。全てに自信がもてません。もう、体当たりして行くしかありません。周囲にどう思われようが、気にしない。転んだら転ぶ、立ちあがれなければ、止めればいいんだ、という心境に変わっていきました。その心境が良かったのか、悪かったのか、その判断は神様にお任せして、私の周囲の人間がどうのこうのと言う筋合いはないと言う心境になりました。

自分の人生を振り返ってみて、言える事は、自信がなくても、周囲に振り回されずに、自分の魂と、自分の肉体を信じて、意気消沈せずに、元気に生きる事が大切なように思われます。

若い時には自信が無いのが当たり前です。それを素直に認めて、周囲を拒否しないで、吸収しようとする努力と、明るさが大切です。それができないと、一生涯、誰も助けてくれないように思われます。2013.9.30

⑱祭壇の意義、土地の神と家の神

●祭壇の意義

我が国では、しばしば死者の祭壇料理、菓果、煙草、酒等を供えますが、生前に好んで居た物を死後にも与えたいと思うのは、止むに止まれぬ人情の発露かと思います。

然し仏教本来の形式は、仏の祭壇には、灯明、生花、薫香、浄水の四種を置き、それも御本尊様に向けてではなく、礼拝者に向けて供えるのであります。それは灯明を仰いでは、妄想煩悩の闇を払って悟道の光明を点じ生花を見ては心性を荘厳華麗にし薫香を感じては心中の汚臭を消して清香を発し浄水を見ては心の穢れを清洗浄化しようと反省し、精進する為の刺激誘導を目的として居るのであります。

これらの物体を見なくても、若し自らが反省し、発奮出来得るならば強いて供える必要がありませんが、やはり凡人には五感に訴える刺激が合った方が効果的だと思います。

土地の神と家の神

土地の神様はその土地の産土ウブスナの神様で、その土地によっていろいろのが居られます。そしてその土地に住む人間を守り、生まれてから死ぬまで面倒見て居られます。

家を守り給うは、“宅神ヤカツガミ”と申しあげ、大宮売命オオミヤメノミコトでありまして、このの分霊が各家の宅神として、その家の床の間に坐し給うと申されて居ります。その家の財やその家に住む人の健康を守り太らせ給うとされ、古代より朝廷では今猶二月と十一月の午の日に、厳かに祭式を行わせられます。昔庶民は、四月に宅神様をお祭り致します。為定の歌に、

束草たて葉ざら取りすえ宅神

まつる卯月にはやなりぬとか

と言う歌があります。束草とは青い草の事で、古代には祭壇の前にこれを敷き、祭式を行ったものだと申します。尚葉ざら取りすえとは、葉を皿と見なして取り置き、その上に季節のものを色々奉るという意味であります。

この様にして床の間には、日常は季節季節のおかけじと香炉お花を生ける習慣があり、決して余分の物は置かない様にして居りました。これはそうすると不敬になり、が当たると思って居たからでしょう。

現代では宅神とは何か、知って居る人は大変少ないと思いますが、今尚茶道には厳然と残っています。茶道する人はこれを知るや知らずや、茶室に入ったなら先ず床の間に向かって、宅神に御挨拶し、然る後その家の主人に挨拶し、然る後その家の主人に挨拶して、自分の席に着きます。

知らぬとは言え、現代の人はどうでしょうか。床の間に仏壇を入れこんだり、洋服を掛けたり、カーテンで仕切りをしたり、中には床の間の壁の胴腹を破り、クーラーを取りつけて一日音を立て、平気で居られる方がありますが、これでは宅神も清々しく神さびて居られず、従って御守り頂けぬ事受け合いであります。

 

紹介者からの一言

今回、この文章を書いていたら、私の身の周りの不要の物の片付けをしたい衝動に駆られてきてしまいました。そこで、真夜中にゴソゴソと洗面所のお掃除を始めました。ハブラシや、夫の髭そりの刃など、まだ、使えるもの、使えないもの、整理を始めました。そうしたら、一年前に紛失して、あきらめていた娘のメガネが出て来ました。一日目はこの文章を書かないで朝が来てしまいました。翌日の二日目、今度は、床の間が無性に欲しくなってきて、部屋の片隅に、床の間もどきの場を設置しました。押し入れに仕舞い込んでいたお香を取り出して、額も置き、明りも置いて、お花も置きたくなって、それはあとにしようと考えて、またまた、一日が終わってしまいそうです。

そうですよね、自分の荷物が多ければ、重くなるだけでなく、汚れます。汚れを少なくする方法は物を貯め込まないことなのですね。出来るだけ不要の物を置かない。そうすることで、自分の心も汚れないで済みます。ヨーロッパの貴族の生活は、どこもかしこもゴテゴテに飾られていますね。上を見ればシャンゼリアの照明、床や壁から、絵画で飾られて、窓も色々のステンドグラス、椅子からテーブルから、ベッドまで、誠ににぎやかです。然し、日本のお城の中は、だだっ広く畳が敷き詰められているだけ、殆ど物を置いていません。屏風やふすまの絵がなんとも風流です。

これが、日本人の真の生活の姿だったように思われます。

しかし、今の私達の生活をみると、物が溢れしまって、同時にどんどん心も汚れて、これ以上、心が汚れたら、心の破滅が待っていると思われます。心を汚さない為にも、不要のものは抱えないで、シンプルな生活が大事ですね。

あれもこれも欲しくなる、私達の欲望の心を掻き乱されやすい世の中、そのような世の中に、私達は現在、生きています。心が弱ければ、その誘惑に負けてしまいがちです。今の世の中を生き抜くには、如何に自分の心を、物の欲望の誘惑から守ってあげることができるかです。自分の心を信じられなければ、お金や物に振り回される傾向になります。歌手の藤圭子さんが何時も大金を持ち歩いていたと聞きます。お金を持って居なければ心が安定しなかったのではないのでしょうか?

自分の心を信じることが、生きていくコツのように思われます。拒否するのではなく、この時代を楽しむ事ができる心、振り回されない心、お金や物では無く、自分の理性の心で、しっかり自分の心を守ってあげて下さい。心はコロコロ変わりやすいものです。その癖もしっかり、観てあげて、守ってあげるのが自分の変わらない永遠の魂からの叫びのように思われます。自分の魂、DNAの道は、まだまだ10%も満たない3%の道です。こんな段階で、迷ってなどいられません。

物の執着から脱け出して、真の心に向き合う時代に入っていると思われます。出来るだけ、お金を使わなくても済む生活に切り替える必要があります。手作り料理(味噌、漬物、ヨーグルト)、お裁縫、野菜やお花は種や苗から自分で育てる。いろいろあります。先ず、自分のできる事から始めるのがいいと思われます。2013.10.02

⑳善と悪との対立、万物流転、境遇、立場、背後霊の働ける場所をつくれ

善と悪との対立

天に陰陽がある様に性には善悪説が対立して居り、悪の分子がほとんど無いのが聖人で、善悪が等分に有るのが凡人、悪の分子が多いのが悪人でありまして、凡人でもを明らかにし、悪の分子を向上させたら、聖人にもなることが出来ます。化学では原子核を破壊したら水銀も化して黄金となると申します。釈尊は言われています、「を退けたら消極的に心は明らかになるが、は常に戦いつつあるものだ」と。

万物流転の中で

森羅万象悉く変わり、何一つ止まるはありません。この存在を河の流れにたとえて言うならば、人は、同じ河に二度と入って行く事は出来ません。つまり河の水の様に万物は流転して、同じ水と思っても実は毎秒違っています。

人のも同様で、今の我は一時間一瞬間前の我ではありません。こうした変化こそ満物不変の相であります。

時に“呉下の旧阿蒙”と言う言葉がありますが、これは「士サムライ

たる者別れて三年たてば、前の馬鹿な阿蒙ではなくなって居た」と言った故事から来たたとえの言葉です。

この様に一つ所に止まるものは何一つ無く、に向かって移り行くも、に向かって変わり行くも変化する事に変わりありませんが、その結果に於いて大きな開きを持つもので、これも、その時の心の持ち様だといえましょう。

境遇、立場と背後

世間でよく聞く話ですが「あのドライ好みの人が、最近はウエット好みになった」とか、又「あの人は野暮ったい人柄だったが、急にこの頃は渋好みになった」などと申しますが、人はその境遇或いはその人の仕事の立場によって好みが違って来ます。即ちその境遇や仕事にすいての背後の霊が違って来るから、自然その影響を受け、好みも違って来るのであります。

よくある事ですが、「その仕事は在り難いが、私にはとても荷が重すぎて、引き受ける気持ちにはなれない」と、無闇にしり込みする人がありますが、そんな必要は毛頭ありません。

そんな時これを押し切って、その立場に坐る決心をし、その仕事に誠を尽くせば必ずそれに相応しいその道の指導霊がつくものであります。

でありますから、思い切って然も押し切って立つ人は、必ず成功をみるものです。

●背後霊の働ける場所をつくれ

人間は誰しも成功したいし、病気はしたくないとは思いながらも、心の帆失敗の方に向けたりして居る人が、大変多いのです。これはつまり成功の方や健康の方へ、航海したがって居ても、すぐに失敗する時の事を考えたり、僅か三合程の病を八升五合に思い過ごして居ると言う事は、これは逆の方向に進む様なもので、丁度南に向かって北斗星を捜して居るので、それではその人の守護霊に働かれる場を、与えない事になります。

人間は自分の思う通りの霊が同調して来るものでありまして、失敗を思えば失敗の方へ、病気を心に描けば、病気の方へ自分が吸い寄せられるのであります。

その事を恐れない者は、平気で谷川のつり橋を渡りますが、恐怖心を起こせば、眼下の波に目がくらみ遂に失敗して、千尋の谷川に墜落する事になります。

然し守護霊が常に見守り給うと自信を持てば、心静かな勇気と果断とが満ち満ちて来ます。この勇気と果断こそ人生の推進力であります。

守護霊はあなたの智恵の舵で、その時その場の処置に唯一つしか無い最も良いツボ所に導いて下さるので、心落ち着き勇気と果断とがほどよく満ち満ちて来ます。智慧伴わない勇気と果断とは、舵の無い船同然で、何時か暗礁に乗り上げて、失敗に帰します。

良寛がある病人に出された手紙の文面に、「病になった時は病むがよろしく候、くれぐれも病と四つに組むまじく、さすればやが御仏の加護現れ申すべし」とこんな意味が書いてあります。すべて守護霊に全部お任せし、守護霊の働いて下さる雰囲気の場を、自分自身でこしらえることです

No.240

 

紹介者からの一言

私の人生を振り返ってみると、今まで働いてきた職場では、私を抜擢する上司は、誰も居ません。つまり、誰からも抜擢されて坐に着いたという経験がありません。むしろ、自分を差し置いて抜擢される方々を、羨望のまなざしで眺めることの多い人生でした。何故、あんな力量もない人が抜擢されるのか、不思議でなりません。私が上の立場であれば、私だったらもっともっと上手にやれるのに、とばかり思っていました。

私を抜擢する人は、私の人生に於いて、私の職業の人生の最後まで、とうとう誰も現れませんでした。定年を過ぎてしまった今では、もう縁が無かったのだと、諦めざるを得ません。私の悔しい思いです。

しかし、私の神様からは、私には、神様が与えて呉れた計画があると言われていましたので、そんなに悔しい思いを強く抱くことはありませんでした。むしろ、私の神様は私に何を計画されているのか、まだ分からなかったので、それに思いを馳せていました。その仕事というのは、私が喜んでやれることであると言われて居たので、私が好きな事をやっていく事だと思って、その好きな事に一生懸命取り組む事に頭を切り替えていました。

結局、今、私がこうして、やっていることがそうなのだと気付きました。

私が、今、こうしてやって居る事が、神様が私に与えて呉れた計画だったのです。最近になって、やっと気付きました。それならば、安心して仕事ができます。だって、神様が応援をしてくれているのですから。

誰にでも、神様が与えてくれた計画が在ると思います。それは周囲がなんやかんやと言うものではなく、自分の心の奥から聞こえてくるものだと思います。それに耳を傾けていれば、自ずと道が開けるのではないでしょうか?周囲の人間が自分の人生の仕事を決めるのではなく、自分の仕事は自分が決めるものだと思われます。2013.10.03

⑳心霊学は膚で会得、ツボ、悲しみに別れ、人生の貸借、素質と努力、苦悩と原因、本人の心得

●心霊学は膚で会得すべし

心霊の書を二年や三年読んで、もう心霊学を会得したとか、又あそこが腑に落ちぬとか言って、頭で判断している中は心霊学も未だしです。

仏教を引用させて戴きましょう。釈尊滅後百年にして経典が出来始めたと申します。これを心霊的に見ましたなら、当然釈迦と言う高級霊が、その当時霊能のある高僧に依り、或る時は智或る時は禅或る時は戒を霊視霊聴自動書記によって霊信したものだと思います。

然るに「釈迦がこう言った」とか、「仏教は丸い」とか「暖かい」とか「冷たい」とか、こんな言葉で済むものでしたら、達磨がわざわざ万里の波涛を冒し苦労して中国へやって来たと言う事もいらぬし、又壁に向かって九年も統一して居たなどと記す必要も無い訳です。

心霊も同様膚で会得した者で無ければ、本当の心霊は解する事は出来ません。

ツボにはまった処置のために

人間は誰でも物質に恵まれたいと思うのが人情でありましょう。

然し生活苦を克服するに当たって、ただ物を掻き集めようとガムシャラに努力しても無駄であります。例えば碁を打つ場合相手の石を奪おうとガムシャラに努力しても、勝利を得る事が出来ません。

それは正しい智慧による正しい位置、即ち一石を打つに致しましても、現在・未来を通した、最も良い結果を生むたった一つのツボ所がある筈であります。

若しこの誤り無きツボ所を外しますと、波状型に不利になって広がって参ります。

そこで何事をなすに当たっても、その誤り無きツボ所へどうしたら何時もはまる処置が出来るか?と言えば、それは正しい霊感によるものであります。

では、どうしたら、その誤り無き正しい霊感を得る事が出来るか?

それは正しい精神統一による他ありません。こうして皆さんが精神統一して居られますと、表に現れて居る五%の心だけでは無く本人にも気の付かぬ隠れて居る九十五%の心までが、一つの目標にひたすらクルリと向く様になり、これを度重ねますと何時でも何処でも、高級背後霊と直結出来て来るのであります。即ち両鏡照らし中心影を宿さぬ事になり、従ってする事なす事その最善のツボ所にはまる事になり、必ず快適な人生を送れる事になるものであります。

●悲しみに別れること

“悲しみ”と言うものは、何かが失われた事を負かく嘆く感情であります。この何かが失われた事を深刻に考える時、「同期相より同性相和す」で、つまり同波長牽引法則が働くのであります。働くと言う事は、その悲しみ不幸を嘆く迷いの霊が同調すると言う事で、こうなりますとなす事グレハマになり、たちまち病人は出る、財は失われると言う事になるのであります。

財と言えばこれ程もろいものは無く、よく昔の人は、「貧乏神に取り憑かれたら最後、いかなる富も三年もたぬ」と貧乏の神を恐れました。その貧乏の神は誰が一体招き寄せたのでしょう。それは己の心が悲しむからであります。万一皆様いやな事があったら、そのいや気になって仕方のない事柄を紙に書き、そしてこれを火で燃やしながら、自分から「この問題は消えて行くのだ」と強く心に信ずることです。そうした時に不思議にも心は晴れ晴れしくなり、富の方向へと気が変わってまいります。

人生の貸借勘定

蒔いた丈のものを刈り取ると言う因果の法則があり、蒔かぬ種は生えぬと言う法則がありますが、人生とはこの様に因果の厳しい心の法則に支配される世界の中に置かれるのでありますから、怠けたり不正な事をして人から品物や金を得れば盗人同然で、盗人は自分自身から幸福を奪って居る事になり、詐欺師は自分自身の欺いて居る事になります。これ等の行為は直ちに借受勘定が起こり、遅かれ早かれ全部の借受勘定を支払わなければなりません。

それは怪我をするとか、或いは人に騙されるとかの思わぬ災害に逢う事になり、必ずその償いが付いていくのであります。

ともかく値を払わずして、何か価値のものを得ようとする事は出来ません。

素質と努力

人は誰でも何らかの良い特質を持って居ります。この特質は生まれながらの素質によって出来たものでありまして、これは過去何代かの祖先の努力の賜物であります。

この特質を働かす場合は、余り努力しないでも他人より優れた事が出来るのであります。

だからと言ってその上にあぐらをかいて、安閑として居てはなりません。むしろこの特質を精一杯生かして、祖先より頂いたものをより秀でたものにして、後世の人への贈物にする覚悟がなければなりません。

そこに心霊学徒の言う地上で生活する意義があるのであって、世に言う天才とはその人の祖先が積み重ねた努力が、今現れて居ると言う事であります。

●苦悩と原因とは

人は一杯目には人がを飲み、二杯目には酒、酒を飲み、三杯目には、人を飲む、とか申しまして、人にを飲ますと本生が分かると言われています。

バー或いはその他のを飲ます店での飲みながらの語らいは、商談で無い限り大抵働いて居る所の不足不満の泣きだと申します。ところがこの中に、たまには笑いながら大声でやけにはしゃぎまわる人もいますが、この種の人は心の奥底から出たはしゃぎでしょうか?

いや、そうでは無くて常に持って居る不足不満をによって発散させようと、ごまかしてはしゃいで居るのだと思います。

では一体何がこの様に人間を苦悩の中に追いやるのかと言えば、結局誰自分よかれの執着心があるからだといえましょう。

●本人の心得

家庭の主人がその家の者の、或いは事業の経営者が従業員の、欠点ばかり見付けてこきおろし、皮肉な嫌味を浴びせかける主人も経営者も、家庭から或いは従業員からの最善のサービスを期待してもそれは無理であります。常に家庭や事務所や工場に、陰気な黒雲を巻き起こし唯どなる事を常習として居るならば、その家庭及び事務所は災害中の危険な状態となってしまい、落ち着いた良い仕事は出来ません。欠点を観てすぐに叱り付けるのは良い様に見えるがそれは反対で、それ以後従業員は反抗心を起こして、経営者の私生活などの欠点を探し出し、その日常の贅沢を数え挙げ、「我々はみじめな簿給で働かされているのだ」と反省の色無く、むしろ何かにつけて不足をかこち、誠をこめた仕事など到底望めません。従ってだんだん経営が不振となり、遂に閉鎖せねばならぬ憂き目にならんとも限りません。

 

紹介者からの一言

最後の章の部分の職場がまさに、私が結婚してから、子供を産み、育てる中で、働いてきた場所と同じであるなと思われて仕方ありません。

プライドばかり高い職場、サービスばかりを要求する上司、お互いに欠点をつつき合い、欠点を上司に言いつける仲間、上司も同僚もみんながイジメあったり、罵り合ったり、そんな中で、信用できるのは患者さんだけです。幸いにも、助産師の仕事はほとんどが患者さん、妊産褥婦さんと付き合う時間が長かったので、あまり、医者や同僚や先輩、上司と付き合う必要がありませんでした。患者の側に行って、たわいない会話をしたりすれば、息をつくことができます。私は入院患者の身体を拭くのが大好きでしたので、務めて、その仕事を率先してやりました。お産も大好きです、陣痛が辛くて、うんうん唸っている産婦さんをみると、助けたくなって、腰をさすったり、お腹を触ったり、どうすれば楽になるのだろうか、そのような思いを抱きながら、仕事をするのが大好きでした。だから、私の様な人間でも務まったのかなと思われます。

今の世の中を見ても、大して変わりありません。同じようなものです。私は好奇心旺盛で、退職した今は、時間もたっぷりあり、ツイッタ―にも参加させていただいて居ます。他の方のツイッタ―を読ませて戴いて居ると、毎日激しいつつきあいや罵り合いです。気分が悪くなってきます。私のツイッタ―は罵り合ったり、つつきあったりするのではないにしてみよう考え、できるだけ直接的な事を伝えることにしました。どうすればいいのかなと考えて、又聞きニュースでは無く、私自身が直接、情報を得た記事、私の仕事にも共通し、今までの経験も生かせられる、厚生省の会議録に挑戦してみる事にしました。更に著者が直接書かれた、私が興味を持って読ませていただいた記事を紹介してみようと思いました。しかし、クレームがつく本もあるんだとわかりました。また、私の浅はかな意見を載せることは、読者を迷わせることもありかな?と思って止めました。しかし、このホームページは私がお金を出していますし、誰からもとやかく言われる筋合いがない、自分の家と同じですから、プライベートな事はこちらに書く事に変更しました。

今日も読んで戴き、ありがとうございました。2013.10.04

21)方位について、魂の真の喜び

方位について

「家を直したいが今年は方位が悪いのでどうだろうか?」或いは「今年は年まわりが悪いが結婚しても良いか?」などと聞かれます。そして又「今日のあなたの気が良いとか悪いとか言われますが、その気なるものをもっと分かり良く話して下さい」等と時々尋ねられます。

相の無いものの話をする時は、相をそこに現して話すより外はありません。

眼に見えぬものを話す時は、浄土教の指方立相がありでありまして、即ち方位によって西方と言うものを立てる、そうして西方十万億土の空間の一点に極楽浄土を置く、何故西に極楽を定めたのかと言えば、東は太陽が出るから“生まれる”で、太陽は西に入るから“死ぬ”時を西と定めたのだと思います。

こんな風に先を定めて話をすると話し易いのでありますが、太陽は東からと言わず西と言う名にしても良いわけですが、しかし東を春の気と定め、東宮とか春宮と皇太子を申し上げる習慣があり、南は夏は茂り火の性を意味して中年の気をそれに当てます。

西は修めるとされて“蔵”を意味し、仏壇神棚を、また老人の住むに気良しとされ、北は冬として長い間それで皆納得して来て居ります。

老子は先ずここに一なる架空のものを定め、一、分裂して陰陽の二を生じ、二、三、万物を生じると言って居ります。

物が動くから色々に分裂するものでありますね。私の息子が四、五歳のまだ学校に通うには間がある時分に、「ママ何故これを一というか」とやかましく聞かれて困った事を覚えて居ります。何故これを一と言うかよく考えると難しい事だと思います。

●気(オーラ)について

が良い、が悪いとは、仏像には大抵光背がありますね。あれがその気、つまり雰囲気を現して居るものでありまして、肉体を包みはみ出ているオーラの色と振動を言って居るのであります。

良い気とは、比較的振動がこまやかで、色の鮮明の時を申します

今日は気が良くない、悪い、と申し上げた時は、振動が荒く色が薄暗かったり、にぶい赤色があったり、黒い色が混じって居たりします。

●三味とは、その時その場の仕事に最も相応しい背後霊の霊信を正受しつつある姿であります。

魂の真の喜びとは、自分がした行為が役に立ち、他人に喜ばれた時であります。

●ある霊よりの話し

今出て来られた霊は、60位で他界された方の様ですが、何か言いたそうなので聞いてあげる事に致します。

「私は過去この世にあった時、不平を言いに世の中へ出て来た様な陰気な顔をしていましたが、今はご覧の様に潑刺と明るい姿になりました。私は家庭的には夫婦・子供とうちとける事がついに無く、食物・家の事にうるさく、社会的には、職業に対する不満や、待遇についての不足があり、同僚・目上共に親しめず敵意を持ち、目下に対しては冷酷でありましたので、自分に気に入るものは何一つも無く、唯金を貯める事を楽しみにしていましたが、それすら思う様に貯えも出来ず、不足不満イライラの一生でございました。従って、死後誰一人寄ってくるものも無く、寄って来るものは悪霊のみ、その苦しみは想像以上でありましたが、縁につらなる子孫の者が心霊研究する様になり、私にも守り導いて下さる高級霊を見出して頂く事が出来、始めて世に居った時の行為の恐ろしさを覚り、何一つ善行をしなかった事や自分自身を粗末に扱ったかが悔やまれて仕方ありません」との事です。<No.241

 

紹介者からの一言

日本心霊科学協会に通っていた頃、学徒の精神統一が終わった後に、祭壇に坐っておられた霊能者が、とても美しいオーラが見えた人がいるらしくて、一人の主婦に向かって、貴方のオーラはとてもきれいであると、言われました。私が振り返ってみると、普通の奥さまでした。どこが違うのかな~って感じがしただけでなく、祭壇にいた霊能者の言葉が余りにも差別しているように感じられて、もうその霊能者がする時には行くまいと思ってしまいました。心のきれいな人よりも、迷っている人、心が濁っている人にこそ、アドバイスが必要だと思います。優れている人を優先にするのは、弱い存在を軽くみているとしか考えられません。ここは精神統一と言う商売の場に過ぎないのではと、思ってしまいました。更にひどいのは、胸の黒い人がいたようで、指摘していました。それもどうなのかなと思われます。精神統一しても無駄だと悟って、34回で止めました。

その頃の私の心が、娘や夫の病気のことで、未来を悲観していて、頭がいっぱいで、不安が頂点であった時でしたので、そう感じたのかもしれません。しかし、今考えてみても、ちょっとその言動には問題がある様に思われます。

私は、どんなに力量があっても、優秀な方でさえも、人の前で、自分の自慢をしない方がいいように思います。更に相手がどんなに変だなと思っても、悪口を言ったり、指摘したり、しない方がいいことを実感しています。その環境から離れたら、普通の人になっていることが多いのです。環境がその人をそうさせていることが多いからです。

結局、悪人も善人もいないのです。循環すれば悪人は善人になり。循環が悪ければ善人が悪人になるだけです。宇宙の理、宇宙の法則の視点から世の中をみてみると、循環をしているだけです。悪人というのは宇宙の立場では滞ることなのです。霊能者だって同じことです。高年になっても、いつまでも同じような仕事をしていれば、学徒から飽きられてしまいます。病気であっても、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、全てが循環さえすればいいだけなのです。立ち止まって、滞らせる原因を自分で作らない事が、物質世界では必要なのです。善人が進化の循環を遮っている場合だってあります。そこには悪人の存在が必要になってくるのです。

宇宙の法則は循環です。悪い人が居るお陰で、眠ってばかりいた人間、ぬるま湯につかっていた人間の目を覚まさせてくれているのです。

宇宙や地球にとっては、悪い事というのは循環しないことなのです。善人と悪人が戦えば、いつかは、共に滅びてしまいます。善人の智恵は悪人から学びます。だから善人が智慧を身につけるには悪人が必要なのです。しかし、今、悪人の力が優性です。悪い循環になっています。このままだと宇宙にとっても危険なようです。善人が智恵をもっとつけて、良い循環にしないと、地球が消えてしまうようです。いろんな人が居る中で、いい刺激を求め合うことが、いい循環になるように思われます。立ち止まる事が、地球と宇宙にとって最も悪いことのようです。

進化に向かう循環、昔の人が詠った諸行無常が宇宙の物質の世界のようです。この地球に生まれて、自分の魂を進化させる選択をしたのは自分であります。立止まらずに、生きるしかありません。2013.10.06

22)人生の意義宿命の法則、執着をとること、心霊治療の精神統一、病気治療の原理、神霊的な智慧

●人生の意義 

仏典には「諸行無常色即是空」とあり、キリスト教の聖書には「空の空なる哉、すべて空なり」とあります。

たとえ身は高級車にふんぞりかえろうと、流行の衣装を身に着けて誇ろうとも、所詮は空しきこの世の営みであると、かく観じますと、この世はすべて空となり、虚栄の市となる、これでは人生は空だからつまらぬ、いっそ山にでも入り、仙人の様な生活をしたいと、しこ狐に憑かれた様な事を言う人があります。

こういう人は未だ人生とは何かを知らない人であって心霊を研究すれば仙人の様な生活に憧れる様な事は無い筈であります。

人は自分の周囲に起こって来た事柄を素直に受け入れ、これを魂を磨く糧として魂の向上進化を計るより外無いのが人間にうまれついた定めであります。

もっともその中には苦もあり楽もあります故、これから楽を見出す事も出来ます。

●宿命の法則 

この世の中の有りとあらゆる生物には、個々の宿命が有り、そしてその営みにこれまた個々の心の法則が有るのでありまして、その課せられた法則を破った程度に応じて不幸になって行くのであります。

例えば水中に住まなければならぬ宿命を持つ魚が、あの緑なす若草に憧れ、岡の若草の上に這い上がれば、死を待つより外ありません。又陸に住むべき宿命の蝶が、陸を嫌い水中に飛び込んだらどうなるでしょうか。忽ち苦しんで命を落として仕舞うでありましょう。

人は自分の運命を自分自身の手で切り開いて向上進歩して行かなければならぬ宿命なのであります。昔の人は「若い時の苦労は、買ってもせよ」と師弟を戒めたものです。

それは若い時したいほうだいの事をして遊び暮らした人に、年取って楽な生活をした試しが無いのを知って居るからでありましょう。

世の中は思う様な甘いものでは無いのでありまして、自分の気に入る様にばかり周囲が動いてくれません。

例えば学生時代には、好きになれない科目の一つや二つは誰でも有りましょう。然し苦手の科目であっても一つ一つ努力して自分の物にしなければ、何時までも卒業は出来ません。

又実社会に出ても同じ事で、折角縁が有って職に就いたのに、同僚とそりが合わぬとか、ろくな仕事もしないのに上役に認められないとか何とか言って、一年もたたないのに飽きが来て転業して仕舞う。「あれ!職が変わったな」と思うと、又外に移る。これではその仕事に相応しい背後霊の付く間がありません。従って、転落して世間の物笑いとなるのは当然であります。

それと反対に食い付いたら最後、如何なる苦難に会おうが元気一ぱいに体当たりして、その苦難の壁を突き破る気力の有る者は、鬼神もこれを避けるとか申します。

ともかく人間は、その踏むべき心の法則を踏み外せば外した程度に応じ不幸になり、又心の法則に従った程度に応じ、高級霊の守護指導を受ける事になり、その誘掖によって意義ある幸福な生涯を送る事が出来るのであります。

●執着をとること

執着は人を傷付けます。

履き慣れた靴も足が大きくなれば、何時まで履いて居られましょうか?やはり捨てなければなりません。折角履き慣れた、品の良い靴だから離すのは嫌だと言っていれば、足を傷付けます。ここで人間に与えられた問題は、この際足を傷付けるか靴を捨てるかのどちらかを選ぶかであります。

よくある例ですが、良い縁だとは思うが、さて可愛い我が子を離すのが惜しくなり、遠方だからとか、やれ親が若いとか言って、娘の良縁を逃してしまいます。そして、我が子可愛さから利己的に執着して、遂にあたら娘盛りを家にとじ込め、一年やもめ暮らしに追いやる親さえもあります。

あの昔の支那婦人の如く、無理に小さな靴を履かせて逃げる事もどうする事も出来ぬ様にする蛮風は、執心の盲目性と共に相手を傷付けさえする残酷性の現れと思います。

執着しきれば良いが、はたを傷付けないでは執着しきれない地上の掟の様なものがありますので、執着を通そうとすれば無理が出て来るし、通らない時は執着すればする程、憎しみが出て参ります。

小さな問題に引っ掛けられ引きずり廻されて居ると、大きな問題を処理する時間も無ければ智慧も湧いてきません。

小さな事にひっかかって憂鬱になる者は、石を袖に入れて水の中に飛び込む様なもので、一つ一つの石は小さくても心のポケットに入れて居るが為に、行動の自由を失って沈んでしまいます

●心霊治療の精神統一

心霊治療を行う際の精神統一は、先ず心を敬虔な気持ちに置き、神前に坐す心となり、中継霊、側におわすと一礼し、次に神の智慧我が内に流れ入るのを感じ、次第に光が我が身を包み、智慧と法悦が、霊界に居られる祖霊にまでも張り渡ると観じる事であります。

次には志す病人を燦然サンゼンと輝く霊気に包み、協会の治療霊団直し給う光景を見つめる事であります。

これを続けるならば、如何なる病も治って行くものであります。

病気治しに当たる人は、よく人の病を引き受けるなどと言う人がありますが、これは迷信でありました、自分が治すのだと思い上がるからでありましょう。病気治しは、その人の幽体から治さなければ本物ではありません。

病に冒されて居る個所は、幽体が黒ずんで居る個所に治療霊が、人に見えぬ幽質のものを注入されるのであります。

●病気治療の原理

病気で苦しんで居る人は、先ず肉体上の不安から心を放す事です。そうしない限り、その人の病気は、次から次へと黴菌がふえて、遂には身を滅ぼす様になります。

平素、正しい精神統一を続けて居られる方は、悪因縁にはなかなか落ち入りません。

もしそのような悪因霊にめぐり会っても、それにあなたの背後霊がのせませんでしょう。

「その情けを超えてその紐を解き、その念を去れ」です。人間一つの事にこだわって居ては、何も進歩はありません。

が宇宙を創造した際は、物質を造る前でありますから、物質の材は何も無く神は霊であるから、これを素材として一切の物を造られました。

を一定の形に変形するは、心即ち霊の波動であります。この波動智的の念であり、素材の霊を一定の形に凝固させる力であります。

その原理が分かれば、如何なる病も治せます。またいくら病の個所を手術して一時治っても、この病の波動を起こす霊的のものを取らねば、必ず別な病気になるのであります。

●神霊的な智慧

人間は、智情意の三位が一体となって固成されて居るものでありまして、その智・情・意のバランスがとれた人でなければ、円満な人格者とは申されません。

夏目漱石の著書の中に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という名文句がありますが、人としての日々の営みの中には、智を働かして筋を通さなければならない場合がありますが、その表現の仕方がまずいと、「彼の人は冷たく厳しい」と非難されます。その反対に情けに溺れて、無理に情を立てれば、自分自身がどうにもならぬ破目に落ち入ります。

昔の格言に、「智慧は生きて居る間に出して使い、智慧と力は重荷にならぬ」と言ったり、又反対に、「智慧とて偽り多し、智慧多ければ憤り多し、智慧却って害となる」など全く反対に扱って居る場合もあります。

然し如何なる事柄も、因縁によって起こって居るものである事を自覚し、心静かに守護の霊にその処置を聴かれる事であります。

そうすれば、きっと角の取れた暖かい、面も後になっても馬鹿をみない、適切な処置が取れると思います。

 

紹介者からの一言

私は、お客様のリンパマッサージをする時に、疲労物質が流れるのをイメージしています。それでも、悪い気を受け取っています。坐骨神経痛を一日中もらったり、2~3時間胃痛を戴いたり、疲労感であればたくさん戴きます。それは。ケア後の一日から二日目に出て来ますので、普通の疲れとは違うので分かります。これってヤバいと思う様になり、お塩で清めたり、アロマの蒸気を流したり、ゲルマニウムを足や手に巻き、更に腰にMeV-QXⅡを巻いたりしています。なんとなく効果がでているように思います。私がまだまだ未熟であるからなのでしょうか?

 

「人の病を引き受ける」は迷信であると吉田綾さんはおっしゃいますが、私は引き受けると思います。そういう方が私のまわりにもたくさん居ます。私にマッサージを教えてくださったお隣のおばあさん、リンパのお客様の美容師さん。それから私のリンパの生徒さん、それから西式健康法の掲載されている著者等、 たくさん居ます。私が未熟な人間だからでしょうか?今日からは、お客様の背後霊に、私に悪さをしないように依頼して見る事にします。それから、病気は本人が自分で気づくようにとお願いしてみます。お肌に直接触れる職業は簡単にはできないですね。これは家族がやるべきものと思います。そこで私は家族に教えますと変更してから、二人見えました。若い方は覚えが早いですね。お安いのでお勧めします。御遠慮なく、是非受けにいらしてください。2013.10.11

 

23)「運の話」、神棚と仏壇の祀り方、正信と迷信、守護霊と直結すべし

●「運の話

宝くじ一枚買って五百万当たった人に対し、「彼の人は運が良い」と言い、競輪で破産して、先祖からの場所まで皆手離した人には、「彼の人は運が悪い」と言います。

世間には知能も人並み以上にあり、正直に働いて居る人でも一向うだつがあがらない人がありますが、又反対に格別頭が良いでも無く、そうかと言って勤勉な訳でも無く、相当に無理もするし悪い事も平気でやって居る様だが、安楽そうに暮らして居る人もあります。

これ等の事は心霊以外では、解明できないのであります。そこで心霊家以外の人は、どうしたら運が向いて来るかと易者先生を頼り、世の中が不景気にでもなろうものなら、お客は増えるばかりであります。

ところがこの易者仲間では、来るお客の事を“亡者さん”と呼んでいますが、この亡者さんのお陰で生活を立てて居るのであります。

そして面白い事には、人の運命を観る易者先生等は、自分の運命を切り開く道は分からぬのか、大抵貧乏とか病人をかかえるとかしており、中には物質的には成功して居る人もあるが、他の職業に比して寧ろ低い生活をしている方が多い様であります。

それは易経に説かれてある哲理を深く極めて、正しく理解し、人生を善導しようとする、本当の易者先生が少ないからでありましょう。心霊家は心霊学を正しく究めれば究める人程、物心共に恵まれて参られる様です。

●神棚と仏壇の祀り方

日本では、昔は神棚は年中祭ってあった訳では無く、特別の時だけ臨時に作ってお祭りをしたもので、例えば正月には年棚、お盆には盆棚と言って、その時期だけ神棚を設けて先祖祭りをしたものでありまして、しかもそのお祭りは各家で行うものでは無く、本家で神棚を作り分家一同ここに集まり、先祖祭りを致したものでした。ところが平安末期に浄土宗が盛んになり、これが広まり、各家には仏壇が出来て、これに死者の位牌が祭られる様になって来たのでありまして、神棚が本来は先祖の御魂をお祭りする場所であったのが、仏壇に祖先の御魂をお祭りする様に変わったのであります。

そして菩提寺から、色々なお経が檀家に配られ、それを仏壇に供える風習が起こって来ましたが、これを黙って見ておれず、伊勢神宮からお札が配られる様になり、そのお札を安置する場所として、各家に神棚が祭られる様になりました。そして、やがて今日の様に、お館を作り、その他恵比須棚・大黒棚・荒神棚等も祭られる様になったのであります。

仏壇も昔は特別なものは無く、支那や印度でも、今から約千三百年前には、窓等に仏像を祭って、この場所を仏壇と言っていました。そして今日の様に仏壇に位牌を安置するのも、仏教本来のものでは無く、儒教の方で祠堂に木睥を安置するのを、仏教の方で真似た訳でありまして、仏教の盛んな徳川時代には、仏壇を持たぬ家は邪教とされて、告発されたものであります。

さて神棚や仏壇をどう祭るのが本当か霊界に聞いてくれとの事ですが、これは家相に属する問題で、しかも家相の各流儀で大変違っています。

古代の神棚即ち年棚盆棚を作る場合は西向きにし、西を人間が背に受けてお祭りしたもので、出雲大社の拝殿の向きは西向きである事は有名であります。民間では家相が問題ですが、家の中心が何処かと言う事で、初めて丑寅の方向が悪いとか何とか言うのですが、この中心の決め方にもありまして、例えば主人の部屋を中心としたリ、大黒柱としたり、又棟木の一番高い所を中心としたり、土地の中央を中心としたり、又宅中に九局を布施してこれを九宮に配してその中心を計って中心としたり、その他非常に複雑な計算で中心を定める方法もあるので随って各流儀で中心が変わって来る故、神棚が時によっては、その住宅の鬼門になってたりします。ですからここでは神棚の向きだけを問題に致しましょう。各流儀を通じて同じなのは、南向きが上吉で東向きがこれについで吉です。その他の方向ではまちまちで、例えばある流儀では、北向きは吉といい、ある流儀では、北向きは信心に凝り過ぎて弊害があると言います。又ある流儀では西向きと東向きも悪くないと申しますが、別の人は東南向きは吉だが、西向きはその屋の主人が本業を怠け、道楽者になると言っています。又東北西南に向かえば、神徳至らず却って祟りがあるという説もあります。

又祭る方向が良くても、その向かい方が門口や入口に向かっていたり、あるいは井戸や仏壇に向かっているのは良くないし、神棚に天井の竿縁が串刺しになるのは、最も良くないといわれています。人間の寝屋もこれと同じく、串刺しに床を敷くと、長患いをすると申します。仏壇については、神棚と大体同じですが、向きは東と西が吉で、南向きは余り良くないと言う説もあります。この西向きが良いとされるのは、行基菩薩が西方に極楽浄土があり、そして栗の木は西方に頼りがあると、杖にも柱にもこの栗の気を用い愛された事から、西向きにする風習が盛んになったとされています。

とも角西向きは、先祖を尊敬し、且つ先祖の加護を子孫に及ぼし、福徳備わり家業は繁昌し、家運長久の吉相とされています。

更に南向きに構えるのも吉で、西の方も東向きも吉ですが、但し南の方に北向きにするのは、子孫衰微の凶相だと言う人もあります。

然し神道では神殿の向きは問いません。それはその家の人の和から、良くも悪くもなるのだからと申しています。宣なる哉であります。〈No.242

●正信と迷信

今生にある多くの宗教、とりわけ迷信的要素の多い宗教ほど情熱的になり、日一日と火に油をかけた様に段々その信仰が強くなり、人からその迷信的盲信ぶりを、注意され様なら、相手を自分の宗教へ入会させるまで居座って、人に迷惑をかける者もあると聞きます。

これ等の輩は、信仰が強まるに従って、一般の智慧を排斥して盲目的になり、怪しい神仏と称するものに憑依され、遂に本物の気狂いになる人が大変多いのでありまして、嘆かわしい事であります。

自分の運命は自分で切り開いて行くという信念とその術を忘れ、いたずらに神仏におんぶしてこれに頼り、本来の自分を忘れて居るという生き方は、人間は何の為にこの世に生まれ出て来たのかの意義を忘れた根本の考え方に、誤りがあるのであります。

●守護霊と直結すべし

“私の魂”と一口に言ってみたところで、この“私の魂”たるや摩訶不思議の曲者でありまして、上は高級霊の御心に通じるかと思えば、四足動物の魂にも劣るかと思われる、雑多な性格の心の集合体であります。

それ故或る角度から見た人は、あの人は磊落ライラクな良い人だと思うでしょうし、又或る角度から見た人は、怒りっぽい冷淡そのものだと思うでしょう。

これは自分でさえ気付く場合があります。

この人怒って将来不利になると思う心があるかと思えば、否ここで怒らなければ虫がおさまらないとか、又いい加減この辺で止めようと思うなど、色々の心の面を持っています。つまり魂とは色々な心の集合体と言えましょう。この色々の面の心を総轄している本心の心がある訳で、これが守護の霊とつながる本来縫目の無い面なのであります。

キリストは「汝悔い改めよ、天国は近くにあり」と言い、観音無量寿経には「極楽はここを去る事遠からず」と書いてあります。

我々人間は守護の霊に余りにも恵みを受け、余りに密接過ぎてその存在を知らないのです。丁度マツ毛が余り近過ぎて見えない様に、魚は水中にあって見ずを知らず、人は守護霊が近過ぎてその慈愛に気が付かないのであります。

間も落ちず昼はも夜はも夢の見も

君な忘れそ御祖居ますを

紹介者からの一言、

私は、齊藤一人さんのお話を時々聞いています。斉藤一人さんも昔から同じようなことを言われています。斉藤ひとりさんも霊界の見える方のように思われます。斉藤一人さんの言葉で印象に残っているのは、人生を海にたとえて、海はどこまで行っても、塩辛い、どんなに捜しても、甘い海はありません、というお話です。ソッカ―、人生は辛いんだと気付きました。それから、普通は辛いよ、と言うお話です。普通に生きて居ればいいのだと思っていた私には、ショックなお話でした。ソッカ―普通に生きる事はよくないことなのだと悟りました。普通に腹を立てる所を、腹を立てない、それに感謝して、むしろ恩返しをすれば、自分を悪く思っていた方がその内に味方になります。

モチペーションとイノベーションの違いがわかりますか?モチペーションは自分の心がけを高く持つ事ですが、イノベーションは自分が思っていなかった事が加わる事によって、格段に上昇することなそうです。つまり、自分の脳だけの力ではどうにもならない力なのです。それは守護霊様にお願いすることなのかなと私は思っています。

普通の霊能者は、私から言わせれば、ゴミが見えるだけなのではないのかなと思っています。つまり、自分で出した浮遊したゴミなのです。地面に這いつくばっている方には見えません、しかし、ちょっと頭を持ち上げると見えて来ます。ゴミが見える方が、普通の霊能者なのです。だから低い霊しか見えません。もっと天高く頭を持ち上げる事ができる霊能者は太陽や星までも見えますので、雲の下の下界には左右されません。

だから、ゴミを浮遊させない生き方を下界人間はしない様に心がければいいのではないでしょうか。ゴミが出たらまめに雑巾等で拭けば舞い上がりません。いつも綺麗に掃除をして、ゴミを浮遊させなければ、毎日きれいな空気を吸えるだけでなく、お天道様やお星様を感じる事ができるようになるのではないのでしょうか。<2013.10.13

24)人間の構造、肉体と霊魂、心の眼を開いて、

●人間の構造

人間と、その魂が指向する肉体と、その肉体を生かして行く生命力との三つが因縁和合して、初めて人間としての営みをする事になるのであります。そしてその三つのいずれが欠けても生きている人間とはならないのであります。

肉体物質習慣性はありましても、それ自身自性なく、従って積極的に何一つ出来ず、魂の命令によって働く事だけの能力しか持っておりません。

心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず」とは、肉体が魂のこの世に生きている間だけの道具だと言う事を物語るものであります。

生命力とは、空気・水・四季さまざまの生きるに必要なものを与え給う神の力を申します。

さて難解なのは魂の内容でありますが、従来は魂の事を霊とか意志とか、或いは心とか申しておりますが、今この魂の事を分かりやすく申しましょう。

これをお宮に喩えれば、神社は肉体、祭神は本来の魂で、その両側に左大臣・右大臣が控えています。その他色々の眷属ケンゾクがありますが、この中には手に負えぬ低級霊もあります。

然しこれ等の随伴霊は、常に祭神に付属しているものでありますが、時により神社の祭神が交代されている場合があります。

この場合、より格式のある神社へ移られる場合は、力量のある御神祭で、随伴霊を向上させ、低い霊も皆向上心にもえている良き気の神社の御祭神に限ります。それと反対に随伴霊の勢力が益々強まりますと、御神祭はこの神社にいる事は許されず失格致します。

同格の心霊は数多くあられても、御宮を持ち給う神もあれば、持たれず人世の為に働かれる高級霊もたくさんおられます。

人間も如何に立派な腕があっても、才能があり体力があっても、本来の魂が坐る所にどっしりと坐って、随伴霊つまり低い心に号令をかけない時は、物事が常にくい違いが出来、不幸になって行きます。〈No.243

●肉体と霊魂

霊魂の進化とは、各種各様の物の中で心が周囲に起こって来る善悪の事柄を心の糧として、より良きもの、より高きもの、より優れしもの、より美しいものなどを求めて向上進歩し、より大なる調和より、より大なる統一を目ざして心霊が心霊となり、大元霊に帰一合一するとするならば、再生の時の悪魂はどれかと言うことが考えられます。

それはその霊魂の所属する類魂中の高級霊等の協議の結果、進化のために肉体に宿らせ、地上生活の経験をさす事が最も好ましいとされる霊魂の部分でありまして、即ち地上生活は類魂の未発達の部分で、それは永遠の進化過程の一環であって、未発達の魂にとっては肉体を自己表現の機関として地上生活の経験をする事が一番楽とされる霊魂であります。従って全部再生でないのでありまして、全部再生でないと言う事は、死んだ人の霊魂がそのままそっくり生まれ変わるのでないと言う事であります。でありますから、この現象の世界は、未発達の性格同志の集まりが人間としての営みをしているのでありますから、十善の性格の者は一人もおらないのが当然でありましょう。

このような鈍重な肉体と言う皮衣を破り、ぬくぬくと修業をしておられるのも御祖の厚い深いそして暖かい恩恵に因るものであります。

人間とは、”肉体”と”霊魂”“生命力”の三位一体が人間でありまして、そのいずれが欠けても人間とはならないのであります。

昔の人は人間の肉体の骨は父親から、その肉は母親から預かりものとされ、この預かりものに傷を付けては不孝になると戒めてきたものです

つまり先祖代々相続して受け継いで来ている大切な預かりものだから、自分の我が儘から粗末にしてはならぬと言う事です。

それを不心得者は、いかにもこの世へ招かれたお客様でもあるかのように、世間の人はもっと自分を優遇してくれてもよさそうなものを、と不満に思うから肉体はその心の動くままになり、正直に暗い陰気な容貌になっている人もあります。

またその反対に、一切を素直に受け入れ、一つ一つ努力をして、顔色がいつも生き生きとして人相も良く、人に好感を持たす人もあります。

そのいずれもが肉体の主人公たる霊魂の心がけによるものであります。

いくばくも生けらじものを何すとか

はたもなづみて面くもらすも

今仮に肉体の関係を桜の木に喩えてもうしましょう。

雪降りしきる厳冬に、いくら肥料を施しても花は咲きません。因縁が熟して春になれば、欄漫たる桜花が見られます。

花のないときも桜の木はあります。花咲くときも桜の木はあります。つまり生きている時も死んでも、は厳然と生きていると言うことであります。

然しの花である肉体は、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に風の吹かぬものかは」で、まことに儚いものとされております。

●現世にあるもの凡そ、因縁の生んだ仮の桜の姿であります。人間自分の意志だけで長生き出来るものでしたら、意志の強い人が二百年、三百年とこの世に生きていても、少しも不思議はないと思います。

常に変化しつつある肉体でありますれば、生きている短いこの因縁を大切にし、肉体に苦労をかけぬよう、明るく楽しく意義ある一生にしたいものです。

●よく隣にいる人の悪霊が私に乗り移ったのではないかと言われる人がありますが、桜は桜、松は松です。

一目千本の桜堤に一本の松があったとしても、百年たっても松は松、桜は桜です。松は桜の感化は受けないし、桜は松の感化は受けません。また同じ桜の仲間でも染井桜は八重桜と何の交渉も無く、個々別々に生きております。

心の眼を開いて

祖霊を離れた自分などあろうはずがありませんのに、世の中にはそれをとかく離して考えたり、行ったりされていますが、それでは無理があります。

今現れている境遇は良くも悪くも、祖霊を通しての境遇であります。若し先祖に罪があるなら当然子孫が補わなければならず、祖先に汚れがあれば、徳を以て消すという、これより外ありません。

●たとえ良い事をして報いられなくても、人と人との取り引きと思うから腹が立つのです。本当は神仏との取り引きなのであります。

つまり良いことをすれば神仏に貯金が出来るさけで、それは必ず利子がついて何時か形となって現れて来るものであります。

●薬山和尚が坐禅していると、一人の僧が「貴方ほどの方がそんなに不動の姿勢で一心に何を思量しておられるか」と尋ねたのです。

ところが和尚曰く「不思量底」つまり思量に絶したものを思量しているのだと言う事です。

修業僧曰く「不思量底、如何か、思量せん」即ち既に自分は思量に絶すと言うものを、どうして思量すべきか、と言う事ですね。

これを心霊的に考えると、大変面白い意味深い問答ですね。自分は長年の心霊家で、既に統一の奥義に絶し、守護の霊と直結は出来ているが、自分が向上進歩させなければならぬ自分の随伴霊に聞かせているのだと言う事です。

そこで皆様が統一しておられる間、貴方の随伴霊つまり先祖から流れて来ている低級霊が素直になり話を聞いているという事です。

色々の方の前で話を聞き、自ずとこれはいかぬと悟らせている姿だと言う事であります。

人間無くて七癖、有って四十八癖と申します。色々な心を持っているからでありましょう。

●「表を見て人を測るは、痴の甚だしきなり」とあるこの“痴”は病だれの中に知ると書きますが、つまり智慧が病を破っていると言う事です。

容貌風采が如何に良くとも、腹に舵を潜めているのもあれば、風采上がらずみすぼらしい身なりのい人でも、腹に竜のような立派なものを持っている人もあります。

これを見分けるには、頂門上に今一つの背後霊の活眼即ち生きた目を持つ事です。

御先祖と共に蒔いた種は必ず生じ栄えましょう。常に和顔愛語を固持して、されど魂は勇敢にして、常に冒頭に活眼を開きたいものです。

●山川草木悉くが、仏教では仏の御生命だと言い、神道やキリスト教ではこれを神の現れだと申します。

心霊統一をして居りますと、その不思議な智慧の働きを見、不思議な現れをよく知ることが出来ます。

そしてがらりと人生観が変わってまいります。

紹介者からの一言

エネルギーの出所は二つありますね。一つは地球のエネルギーです。食べ物や物質です。“地球の理”がそうであるのかもしれません。地球上に住むには地球と仲良くしなければ生きられないです。しかし、人間が宇宙に飛び立つようになったら変わったようです。未来は地球の理だけでは、色々な精神の病気が発生します。うつ病、ニート、自閉症、アスペルが―、認知症もきっとそうでしょう。地球の理だけでは生きるのに無理が生じるのです。宇宙の理も必要なのです。しかし、それって、何? 魂のような気がします。

人生を精一杯生きて来て、ある日、魂の希望が途絶えた時に力が抜けて、何もする気が起こらない事ってありませんか? 食欲が落ちて(私は食欲だけは落ちた事がありませんが…)何もする気が失せて、まるで木偶の坊のようになったようなことってありませんか?回復するのには、一年~三年間位かかります。

私が看護学生の頃、行きたかった学校が遠過ぎて、親に反対され、入った看護学校での勉強が身に入らなくて、生活もちぐはぐ、回復するのに3年間かかりました。3年目の卒業の頃にやっとエンジンがかかって、猛勉強して助産師学校に入りました。しかし今度は失恋です。この時にも勉強に身が入らなくて自分でも困って、なんとか無事に卒業しましたが、就職して約3年間は木偶の坊のようでした。思う様に働けないのです。気力が湧いてこないのです。

これは、宇宙エネルギーが不足していたのではと思います。『人間の肉体の骨は父親から、その肉は母親から預かりもの』で納得しました。魂は骨で、それは父親のDNA細胞の真正核なのです。そして母親のDNAは地球上の微生物のミトコンドリアで細胞を造ります。エネルギーの受け取り方法がそれぞれに違うのです。だから、活魚は心臓や内臓、肉を剥ぎ取られて、骨だけになっても、しばらくピクピクト生きていられるのです。骨が死なない限り、その人間は死んだとは言えないのです。肉体から魂が抜け出た時点が本当の死なのです。どうすればわかるのでしょうか?

最近、ネット映像で紹介されました。人間の死の瞬間に魂が身体から抜け出て行く瞬間を撮影に成功しているのです。凄い時代だと思いました。私はオ―ラ写真は何回か撮って貰った事がありますが、魂も撮影できる時代になったのですね。精神の病気も治せるのではないのでしょうか?しかし、薬や物質では治せないと思います。アロマの臭いや、音楽、色、空気、波動や振動がそうなのかもしれませんね。心もそうですね。癒やしで治せると思います。やはり、リンパマッサージも必要な時代ですね。(2013.10.15)

25)幸福への道、心の舵をとれ、成功とは何か、金に好かれる家、人生と金

幸福への道

人者自者

人を知るものはなり みずからを知るものはなり

人者有 自者強

人にれるものは有り みずからにつものは

是者富

これを知るものはめり

徹底の、統一に行くと、決める事に徹底すれば、周囲の事情は行ける様、自ずと変わって来る。

頭のが出すぎている、そのを引っ込めよ、頭角が出ていると、気付いたら下腹に力を入れると、自然頭角は引き下がる。又、思う様に行かぬと不足のが持ちあがる。

幸福を得られぬ人は、自分をこの現象界に招かれて来たお客様だと考えている人が多い様です。

お客様だから、人からもっと待遇されてもよいはずだと思ったりするのでしょう。

そこで予想された待遇が与えられない場合に不快になるのですね。本当に幸福になりたかったら、人から与えられたいばかりの生活は改めねばなりません。自分が先ず主人側の気持ちで、人に喜びを与える事です。

この様に人を喜ばす生き方をする人には、人の下積みには人がしておきません。

●人間はどんなに偉そうにしている人でも、皆自分に対し好感を持っていて、見ることが喜びであるような相手を持ちたがるものです。

犬猫を飼っている人もその心の現れかと思います。どんな動物でも可愛がってくれる人を良く知り、よくなつくものだと申します。それが、もしいくら可愛がっても、ひっかいたり、食い付いたりばかりして、なつかなかったなら、おそらく飼って楽しむ人は無いと思います。庭木ですら手を掛け可愛がってやれば、それだけ立派な花を咲かせて楽しませてくれます。

時計はネジを廻したバネの力だけ回転して、時間を知らせてくれます。

このように人は他に与えただけは投げ返されるものであります。

守護霊と我とは本来無縫でありますが、指導霊はその人の仕事によって違って参ります。つまりその仕事に食事をいたす努力に対応してより力量ある指導霊に変わってくるのであります。

従って心霊学徒は如何なる仕事につかれても、自信を持たれる事が大切であります。

例えば社長の椅子につかれて、社長としての努力をすれば、社長が身について来るものです。それ故何事によらず尻込みする事勿れであります。

人生における最大の快楽は他人の出来ぬ事をして、それが多くの人の御役に立った時でありましょう。

●人間は或る意味で無智なるものです。仏教ではこれを無明とも不覚とも申します。“無明の業”と申しますのも無明即ち業であるからです。それは智慧が隠れている状態を言うのです。〈No.244

心の舵をとれ

心の帆を失敗の方に向け、あるいは病気の方へ向けていながら、成功の方に又は健康の方へ航海したがっている人が多いようでありますが、これは逆の方向に進むもので、丁度南に向かって北斗星を捜すようなもので、それでは霊界の高級霊の働かれる場を与えない事になります。

人間は思う通りの霊が同調して来るものでありますから、失敗を思えば失敗の方へ、病気を心に描けば病気の方に、自分が吸い寄せられつつ有るものであります。

恐れない者はつり橋を平気で渡れますが、恐怖心を起こした者は、眼下の波に目がくらみ、失敗して千仭の崖下に引き付けられて、墜落する事になるのであります。

守護霊常に我を見守り給う」と思う勇気と果断とは、あなたの人生の推進力であります。そして守護霊はあなたの智恵の舵で、智慧の無い勇気と果断とは舵の無い船同然で、何時か暗礁にのりあげます。

仕事も病気も守護霊に任せ、「病気は既に治っている」「この仕事は必ず成功する」と自信を持つならば、守護霊の働きの場が出来て、必ず思う通り成功し病気は影を潜める事、火を見るより明らかであります。

人間は病気の事を全然思わなくなった時、健康を実現する第一歩に入った時です。また貧乏の事を全く考えなくなった時、裕福の門に一歩踏み入れた時です。

そして自分には背後が付いておられるのだから、必ず成功する事が出来ると、失敗の事など寸分も思わなくなった時、成功者としての第一歩を印した事になります。

「稼ぐに負いつく貧乏無し」の諺は昔の事、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」などの歌は、おかしな事で、それは真理を知らぬからであります。

要するに、こんな事を言ったり歌ったりしている間は、貧乏の神の喜ぶ雰囲気であって、貧乏神は居心地よしと、離れようとはいたしません。それはいくら働いても、高い祖霊の智慧が加入していないからであります。

●成功とは何か

おごりなよ、月のまろきも唯一夜

心しなければなりません。人生の目的はその魂の向上進化の為に存在しているのですから、世上の所謂“成功”では無いのであります。

それは成功の上にあるその力と徳とを以て人世に尽くす所に永久の命が生まれるのでありまして、人生の目的はそこに充たされるのであります。故に人世の為にならなければそれは成功でも何でもありません。

よく世間では「私は正直にこんなに働いているのに、良くないことばかり続くので、一生懸命働くのも馬鹿らしくなった」などと話すのを聞きますが、それは如何に真心で一生懸命働いてもすぐにその結果が現れぬ事もあります。

世人はこれに対して、すぐにその結果を論じたり、やり方を問題としますが、それはすぐその成果のみを期待する打算と功利的な考え方でありまして、このような唯物的な考え方をする人は真の大事は成し遂げられません。毎日々々の積み重ねがものを言うのでありまして、事は成るべき時に成り、結果は現れるべくして現れるものであり、「人智を以てはかるはなるを知れ」とはよく私が背後霊から言われている言葉であります。

金に好かれる家

金も名誉もいらぬ人はたまにはありますが、大抵の人はお金を嫌いません。

金の別名はお宝とかおあしとか、兎に角世の中を歩き廻る性質のものでありますが、霊界から見てお金に好かれる家と、嫌われる家とがあります。

好かれる家とは、たとえ思ったより薄給でもお金に感謝し、粗末にして下などに置かぬが、出すべき金は御苦労様と思いながら喜んで出します。

その反対に、いくら働いる様でも、金のとどまりの少ない家とは、金が入っても不服で感謝の心が薄く、義理は欠く恥をかく欲をかく、金は出さぬとする人であります。

たとえどうしても払うべき水道電気代すら一日でも延ばしたがり、仕方なく払う時にはお金を悔しそうに放り出す様な家があるが、こんな家には貧乏神にこそ好かれるが金はとどまりません。

一升徳利に一杯水を入れ、なおつぎこもうとしても入りません。

金を喜び払うべき金は早めに気持ちよく送り出す家には、金にも心があります故、こんな住み良い家なら早めに孫子を連れて来ようとします。

煩悩とは鉄で言えば、身体で言えばであります。鉄はを生じて砕けて滅び、人はのために毛穴を塞げば、呼吸が出来ず病気になります。そして人の心は、煩悩の為に不幸になって滅びて行きます。

協会の背後霊は、よくこう申されます。「三角定規の様な人になるな」と、この三角定規とは、一は恣心があって人情の無い人、二は恥をかいても平気な人、三は義理を欠いても得しようと思う人であります。

釈迦は「大自然に反する心が病気になる」と言い、キリストは「病める者幸いなり」と言って居り、天理教の教祖は「病と言って更に無し、神の知らせぞ手引きなるぞや」と言っています。人が病気になるのも、先祖から流れて来ている悪因霊も、結局は御恩報じを忘れた姿でありましょう。

No.245

●人生と金

人世の目的は、世上の所謂成功ではありません。

それは成功の上のそのと、布施とを以て世間に尽くすを目的とするところ永久の生命が生きるのでありまして、成功の目的はそこに充たされるのでありますから、後の世の為にならなければ成功でも何でもありません

現世において金をためるのも良いでしょう。名誉を得る事も良いでしょう。然しそれが自分一人の幸せに使うものなら、それは罪を後世に残し、自分の魂の向上を妨げるだけではなく、子孫にどうにもならぬ悪因縁を残す事になります。

 

紹介者からの一言

私の人生はちぐはぐな人世でした。自分は孤独で、無口で、愚かで、おっちょこちょいで、不器用で、失敗ばかりするし、仕事がのろいし、出来ないし、上司からは認めてもらえないし、自分の人生を悲観して、諦めていましたが、退職してみて、自分の人生を振り返ってみたら、自分の思う様な人生をきちんと歩いていることに気づきました。自分だけがのろまで、不器用だと思っていましたが、そうでもありません。自分は不真面目で、駄目な人間であると思っていましたが、そうでもないようです。自分は誰からも尊敬されない人間失格の人間だと思っていましたが、そうでもないようです。只、普通よりも苦労した人生を送ってきたように思われます。その苦労は気苦労なのです。必要のない心配、恐れ、不安なのです。それを、退職してみて、最近、やっと気付きました。何も恐れる必要は無かったのです。

子供が小さい頃は、病気で死んだらどうしよう。イジメや非行にでも走ったらどうしよう、きちんと進学や就職が出来るかな、子供が自殺したらどうしよう、地震がきたらどうしよう、ハイパーインフレや食糧難になったらどうしよう、夫が海外出張で死んだり、病気になったらどうしよう、等々、色々と気苦労ばかりしていたように思われます。

退職して、この年齢になって、娘たちが大人になって親から離れて行くに従い、今までの心配が消失していきました。しかし、今度は自分の生活の気が抜けてしまっています。

気持ちを切り替えて、これからが自分が本当にやりたい事をやる人生に挑戦してみよう、もし、失敗してもあまり迷惑がかからないだろうし、同時に、気苦労する事も止めてみようと思いました。そうしたら、心配、不安、恐れから、自由になりました。全く無くなった訳ではありませんが、こだわらなくなってきたのです。やるだけやってみて、後は野となれ山となれ、私の守護霊や背後霊が守ってくれる、御指導をしてくれると思えるようになったのです。そうなったら、気持ちが楽になり、やる気が出てきました。仕事がスムーズに行かなくても、まだまだ力量がないから仕方ないと思って、悲観していないのです。今生で出来なければ、来世にやればいいのだと、人生を楽観視するようにもなりました。だからこのように、思った事をホームページやブログにも書けるのかもしれません。心配したら何も出来ません。(2013.10.16

26)霊力を強めるには、執着なく、心の病気を、天知る人知る、打算を超えるもの

●霊力を強めるには

霊力を強める方法には昔から色々ありまして、断食、水行、又インドの行者の様にいばらのとげの上に寝て難行苦行し、肉体をいじめる方法もあります。けれども最も大切な事は、霊力の強い、而も境地の高い指導霊を得る事であります。

人間は肉体的面と霊的面どが、普通の場合においては、バランスの得ていて、余り敏感にならぬ様になっているのであります。

つまり人間として生活する事に調和がとれているのですが、苦行する事によって肉体を衰弱せしめると、霊的と肉体のバランスが崩れ、霊感力が強くなるであります。

然しそれは霊能が出たのではなく、霊力を押さえていた肉体が弱ったのであります。

瀕死の状態の人がよく「親が迎えに来た」とか、「何か見える」とか言って、手を出して触る様な事をいたします。

然しこれは本物では無く、本格的に霊能力を増加さすには、正しい精神統一に因らなければなりません。

つまり徐霊能力の力量のある而も境地の高い背後霊団が後ろに控えていない場合は、却って危険で、低いものを浮かび出さすだけの事になります。

●執着なく

春ハ百花涼有り、秋は月有り、冬は雪有って万福。

心霊学徒は楽なら楽で良し、敢えて愛着しない、苦しみ来たらば、苦中にあって別になずまない。

その事に対応して体当たりしては、サラリとほどき解いて進ところに人生の意義が有り若さが有り、だからこそ幸せと言う事になるのであります。

心の病気を

肉体が病めば百里も厭わず山坂超えても、医者に駆けこみます。ところが魂の病気を治そうと心がける人は少ない様です。

肉体の病気は肉体が死んでしまえば無くなり、百年も続きません。しかし魂の病気は肉体が無くなっても尚永遠に続くのですから、恐ろしい事です。

心霊学徒は先ず心の病気から治し、高度の背後霊と結びましょう。そして今現れている不孝の根を焼き捨て、本来の姿に立ちかえる事です。学徒の中には、病気は治った、運も向いて来たとなる心霊を忘れて遠ざかり、また、思う様に行かないと言って統一教会に来られる人も、新しい方の中にあります。

報恩と感謝行とは魂の病気を治す特効薬であります。自分の心をもっと大切にする事が病気をしない秘訣です。

●天知る人知る

折角善業を施しても、それに対して御礼を求めたらその徳はほころびるものであります。

キリストは「右の手に行った善業を左の手にも知らすな、人がほめられようとして行った善業は虚栄心である。又人からほめられようと思って街頭でラッパを吹くな。ほめられたら天に於ける報いはない、それはもうその人は報いを既に受けて居るからだ」と言っています。

目に見えぬからと、不義理にもなり易いものですが、不義理をすれば自分の幸せを天から引かれているのに気が付かぬ人が多いが、目に見えぬと思って天知る人知るでありまして、遂には人にまで見離される事になります。

●打算を超えるもの

無所得の反対は、有所得であります。

無所得とは「こうしてやったからこうなるはずだ」という我がないから無限に入って来るものでありますが、有所得とはすっかり計算を立てて、結果を期待する事であります。

小さな事柄ならその様な計算もたしかに可能だと思いますが、損得利害の打算的な考え方で、常に得をする様に行動して果たしてプラスになりましょうか?

時には損と知りつつも行動しなければならぬ信義の問題もあり、また総合的な判断で打算を超えた事が、必要になるのも事実であります。これは大きな点から考えて、損して徳(徳)を取れと言う事です。

人生はおおらかに、こせこせしない人が却って成功しているもので、兎にも角にも良き背後を持つ事です。

 

紹介者からの一言

天も地も両方共に大切であると私は思っています。損得利害は必要です。『天知る人知る』の考え方は、地を疎かにしている輩の考え方です。魂だけの存在であればそれはそうでしょうが、この地球上で肉体を宿している人間から見れば、それは違います。肉体を維持して行かなければならないからです。地球上での生活には損得を勘定にいれないと生活ができません。生活が続きません。今の人間にとっては、まだまだ無理です。生きて行くには、天と地の両方の徳が必要であると私は思っています。

『天知る人知る』は天しか知らない、片手落ちです。今の世界を知らないからです。そういう偽善者がこの世を悪くしていると私は思っています。地球上の人間に喜ばれない徳など、地球上の生活には必要ありません。この乱れた世界を損得勘定がないと生きていけません。更に、地上に平和が訪れない限り、天の幸福などもありません。天にだけ認めてもらおうと思う心も損得勘定なのではないでしょうか?

『天知る人知る』の内容は、地上に生きる人間にとって、地球の星にとっては、不孝を招きます。そういう偽善者が私の周りにもたくさんいます。私は不愉快です。天も地も両方を共に知って、徳を知ることが大切であると私は思います。(2013.10.19)

27)万物は和合の因縁、背後と縫目なく、徳と才、人生と間、背後霊への願い事、オーラ(憑衣)の変化

●万物は和合の因縁

一切の事物は、物と心の和合によって成り立っています。

平家物語の一節に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とある様に、万物は常に変化し流転するもので、私たちはよく“相変わらず”と言いますが、実は昨日の私と今日の私とは、厳密な意味では大いに違っているのであります。

人間の細胞は六十兆という大変な数で身体が形成され、而も時々刻々その細胞は新陳代謝して、昨日の幾つかの細胞は死に、今日は幾つかの新しい細胞が生まれ変わって、今日の身体を作っているのであります。

この時々刻々に新陳代謝する細胞の事を考えますと、病気の事も必要以上に心配する事はありません。必ず治ると信じ明るい気持ちで与えられた仕事に、“誠”を尽くしていれば、必ず病は消滅致しましょう。

●背後と縫目なく

「絶言絶慮」例えば「あなたは熱心に統一に励んでおられますが、この頃お鼻の具合如何ですか」と問いますと、「今気が付きましたが、ほんにこの頃は鼻の事、思い出しも、人にも話した事もありません」と言われました。

この状態は完全に肉体と生命と魂が一つとなり調和した姿でありまして、つまり健康体であります。

夫婦は朝から晩まで一緒にいても、体も心も疲れません。ところが昨日や今日知り合った人と朝から晩まで行動を共にしていると、早く一人になりたいと思います。

つまり前者は心に縫目がないが、後者は縫目のある状態であります。

又何か良くない事が起こった時、或いは苦しい時、思い出した様に背後様にお頼みする。こんな人は本当の心霊学徒ではないのでありまして、真の心霊家は高級背後霊の念自身が行っている縫目なしの状態でありますから、随所で守られ、大難は小に、小難はなしになり、ころんでも唯起きず、より好きなものを拾って立つと言う事になります。

その反対に背後霊と隙間が深ければ、深い程度に対応して、その隙間から良くない不純物が入り込み、物事すらすら片付いて行きませぬ。私達は心霊常心を地で行く日常生活を致しましょう。

●他から援助を期待していましても、内にそれを受ける準備が出来ていなかったら、それを受け取る事は出来ません。

守護指導背後のつながりが無い人は、丁度穴のあいたバケツに水を入れている様なもので、何時の間にか入れたつもりの水は入れている様なもので、何時の間にか入れたつもりの水は無くなっているものであります。

「与えよさらば与えられん」とキリストは申されました。与える事を忘れ、唯与えられようと、いくら思っても無駄であります。

これは別に銭金の事を言っているのではありません。働くと言う字がありますが、本来の意味は、はたを楽にする事、つまり与えていると言う事になります。

“見る”という字と“聞く”と言う字は、肉体が主となって見聞きする時に用うる字でありますが、“観る”“聴く”とは背後霊のつながりを得て、観聴きする時、つまり心が平静にして観聴きする時、つまり心が平静にして観聴きする時に用うる字だと思います。

本来にごりのない心で観る時は、神仏の恵み到所に満ち満ちてありと感じとれるものであります。でありますから高級霊から観た時、多くの人間は色盲と同じで、わざわざよこしまな事のみを見ようとしたり、不完全にばかり見たがったりしますが、その本来の心の眼を開き、汝が本来の心の耳で聴く時には、観るもの聴くものそのまま天国浄土となるであろうと常に言われています。

●火鉢の火を見て下さい。火鉢の相が悪く、火が起きないのではありません。明るい一人一人が寄り合い、而もつかず離れず、暖め合いをして居る状態の時起こるのであります。さき程申しました“つかず離れず”とは、炭火がぴったりくっついたのでは駄目で、いくらが空気が入る隙間が無ければ起こりません。これは、つまりお互いにあまり干渉し合ってはならないと言う事ですが、さりとて「お前はお前で勝手にしなさい」では、これ又火は消えてしまいます。〈No.246

●徳と才

「徳は才の主、才は徳の奴なり。才ありて徳無きは、家に主無くして奴、事を用いるが如し。幾何か悪霊にして猩狂ならざらん」徳は高級霊とのつながりによってなした行為の結果、その人の人格に備わったもの、才は人間知恵の働きを申します。本来の魂が坐る所にどっかと座っていないと、いろいろの悪霊がその肉体の主人公と入れ替わるという事です。

人生と間

人生にはということが大切であります。

がぬけているとか、に合わぬというですね。

書画が良くてできているか否かは、筆の間のとり方一つでその価値が定まります。音楽も間がきちんととれていなければ、如何なる名曲でも聞き苦しいものです。縫い物もその通り、布と針目の間が合っていなければ如何なる高価な衣装も仕立て栄えがせず、引き立ちません。人もまた、守護の霊との間が合っていなければ、することなすこと食い違いができ、不幸になってゆきます。

ではどうしたら自分を守護して下さる霊といつもがとれている状態になっているかと申しますと、それには過去の不幸のとげを心中にいつまでも繰り返してはならないのであります。

それは丁度車の輪が土についている部分を両手でしっかりおさえている状態と同じことでありますから、いくら守護の霊が守ろうにもその隙間が無く、守りの光が射し込むことができません。

過去は過ぎ去ったのであります。から後どうなるかは、あなたの手の中にあるのであります。夜になったら、病弱の嘆き、一切の貧苦を背後霊様に預かって頂き、何もなかったつもりで守詞を二、三回繰り返しておられるうちに、如何なる不眠症も安眠することができます。次の朝は元気で素直で朗らかに、今日の仕事の中で力一杯生きぬきを働きましょう。

例によって霊歌をとらせて頂きました。

祈事も悩みももとな任すべし

何ぞむ観親見捨てべけんや

〔歌意〕願い事も悩みもみんなお任せなさい。何でまあ、あなたの守護霊様がお見捨てになりましょうや、なりません。

背後霊への願い事

人は誰しも特定の境地の高い守護の霊を持っているものであって、この守護の霊は鐘の如く強く叩けば大きく響き弱く叩けば小さく響くものであります。

かく致しますと、その方の背後霊は直ちに協会の霊団にその内容を取り次がれますが、其の様を霊視致しておりますと、霊界に千波百々波を起こし動かし連絡を取っておられるのがはっきり視えます。

そして何事も少数の霊では力が弱いものと見え、より多くのその事柄に通じた力量のある霊等が立たれ協議され、難しい事柄は少し時がかかりますが、霊界に背後と一緒に蒔いた種、即ち願望は必ず成就致します。

それまでは毎日お願いし、而も成就させて頂いたものと思い、「御苦労おかけいたしました」と言う事を忘れない様にする事です。

願望を成就さすコツは、と、根気と、そして泣き事を言わぬの三つであります。

オーラ(憑衣)の変化

人間の価値はその人の服装や顔立ちではありません。その人の肉体から放射されているオーラによって見分けのつくもので、今如何なる境地の霊の影響を多分に受けているかによって、オーラの大きさ・光・振動が視えます。

叡智と積極的な明るい健康の人のオーラは、実に清々しく而も信仰心の厚い人程紫がかり、光も緻密に出ているのを強く感じられます。

それと反対に不健康な時即ち眠り不足の続いた時や、貧苦に悩んでいる愚痴っぽい人のオーラは、その程度に応じて鈍い黒色を呈します。然しそんな暗いオーラの人が「今日は気持ちが良い」と言っても、急にそのオーラが変わるものではありません

それは長い間の叡智の積み重ねでありまして、長い間如何なる境地の霊と結んでいたかにかかっているのであります。

恨みとか怒りが心にある人は、稲妻の様などす黒い赤色がさしていてこれは一番いやな感じが致します。

また祖霊の悩みがこの世に具象化して、その子孫に及ぼす事も大いに関係があります。この先祖が語っていないものを多く持つ人は、何事も苦労が絶えぬ事も忘れてはならぬと思います。

この協会で統一をされて半年も経たぬ間に、人違いする様にオーラが良くなられるのは、先祖が浄化されると同時にその方の物の考え方が変わり、日常生活に楽しみが出て凡てに積極的になられ、明るく感謝心が出て来られた証拠だと思います。

 

紹介者からの一言

(有)オーラジャパンでのオーラ写真を年に一度、退職の前の3年間撮影したことがあります。そのオーラ写真は毎回、同じ事が書かれています。「私は生まれつき、心と精神の治療科としての素質を持っている」と書かれています。そして、「時々、世間の厳しさに耐えられないが、静かな一人だけの時間を持つ事ができたら、簡単に自分を取り戻す事ができる」とも書かれています。まさしく、その通りの道を歩いているとビックリします。オーラ写真は雲の様に、動いて、ある瞬間だけを撮影しているので、人間の心の様にコロコロ変わるなと思い、今一、信じることが出来ませんでしたが、三年間に渡って、同じような撮影を撮られて、同じような事を言われているので、信じても良いのかなと感じるようになりました。更に、新大久保でのコーヒー店でのメッセージからも、安心して自分の信じる道を歩けば、神様が導いてくれるとも言われていたので、おっちょこちょいで、失敗ばかりの私が、仕事でミスを犯して、上司から叱られてばかりいても、あまり心配しないでいましたが、現実は厳しいです。とうとう職場から追放されてしまいました。本当に神様が導いてくれているのか、心配にもなりましたが、今、このようにリンパの仕事が出来ているのも、神様のお導きがあってのことであるなと考えなおしている所です。でも、おっちょこちょいの失敗は今もついて回って、それが悩みの種ではありますが、「祖霊の悩み」がこの世に具象化して、子孫に及ぼして、苦労も絶えないということなのでしょうね。それは自分の問題として、取り組む事にして、あまり神様に御迷惑がかからない様にしようとは思っています。

私見を聞いて下さり、ありがとうございました。(2013.10.23)

28)現在唯今こそ、読経について、水と川、因果律、与えよ、さらば与えられん、我らの楯

現在唯今こそ

人としてこの世に生をうけて出された以上、その好むと好まざるとに拘わらず、先祖から流れて来ている善悪の業因を背負い未来をはらむ現在、人は何時も今ここに生きるより他無いのであります。

例えばという瞬間に我々の片足は、もう未来の領分に一歩踏み込んでいると同時に、他の片足は過去に踏み置かれている訳であります。とすれば確実にあるものは過去未来だけだとも言えましょう。

この場合の現在とは、時が過去より未来に転じ、未来より過去に転ずる転回点として、ほんの瞬間的に存在するものと言わざるを得ないのであります。

然し人は何時も現在唯今の想念に生きています。この事は又肉体崩壊後と雖も永遠に現在唯今の想念を持続しつづけるのであります。

過去は過ぎ未来は未だ来たらず、畢竟過去も未来も現実には無く、現在唯今というによって統一され、右にいかんとするも、左にいかんとするもそれは自由なのであります。

従って後世にまで賞賛される様な美麗な雛型を作るか、或いは又嫌悪な鋳型を作り上げ、密接不難の関係にある未熟な霊魂等に悪影響を及ぼすかは、何時も現在唯今想念にかかっているのであります。

心霊学徒は即目前に全生命を打ち込み、苦を乗り越え、場を切り、全体作用をなすべきだと思います。

昨日荷負い明日をはらめる今日をこそ

あえて立つべし丈夫マスラオの君

読経について

読経は御本尊様に向かってするのでは無く、自分自身に声高らかに読み聞かせるものであります。そして経典には釈迦や高僧の法話が載せてありますので、これを仏に向かって読んでは、それこそ釈迦に説法でありましょう。

自ら理解して体得して、随伴霊に読み聞かせる事が、読経の使命であります。それを経巻そのものに特別な霊能があると信じたり、又例えば法華経八巻二十八品の文字の数六万九千三百八十四の一文一文にあり難い意味があるとして、この漢字の字数にさえ神秘を感ずるのでは、経典も却って有難迷惑に思う事と思います。

即ち読経は仏に上げるのでは無く、自分に聞かすものであります。〈No.247

●水と川

今仮に先祖自分との関係を水にたとえ、水は神の経論で出来たもので、川はその先祖であるとして、更にその川から一杯の水を汲み取ったと仮定してみましょう。この柄杓ヒシャクに一杯の水を人間一個の魂を代表するものとしますと、この水は暫くの間その大川の水の色のままになって居り、そしてその水は容器の形になっております。

次にその容器の中に一定量の色素物質が投入されますと、水はコップだけの特有の色と変じましょう。そしてその色物質は一時分離した人間の個のが、種々な経験を経て発達した諸々の性質を代表するに等しいと思います。

人間の死ぬ事はそのコップの水を大川にあける事であり、コップの水がどんなに濃厚な色を持っていても川全体の水と調合されて微かな色を持つに過ぎません。

個々の人間が生存中にあって如何なる性質、つまり善悪いずれの性質を発達せしめても、その死後、先祖の群魂に帰属する時には、その色は一般先祖の魂の中に溶け込んで初めの色にはならないのであります。

しかしこの先祖からの流れの中に良い因縁悪い因縁を作るのは、現世の人の心構え一つでありましょう。

●因果律

因果律をはっきりさすには、因・縁・果の三法を立ててみる事であります。

同じ苗木を植えても肥料や手入れの如何によって、花の咲き映えが大変異なって参ります。

この場合苗木はでありまして、肥料や手入れする愛情はであり、花はであります。それで普通に納めて、因果と言い習わされているのであります。 では先祖から流れて来ている悪の業因つまり先祖を含め過去に於いて蒔いた種はどうしても必ず何かの形で子孫が刈り取らねばなならぬのかと言う事ですが、先程の苗木の話の様に縦の因果だけを考えず横の縁を考え、良くない苗を枯らすとか或いは花を咲かさぬ智慧は心霊家のみがその鍵を使う事を知っている訳であります。

心霊家は如何なる悪行の因縁であろうとも、恐るるなかれであります。

それは我等の守護の霊は、常に悪因は消散させ、善因はより成長させようと、日夜心に懸けていて下さるからであります。

●与えよ、さらば与えられん

「与えれば与えられて自然に富み、貪れば自然と失う」これは真理であります。

例えば梅の木が庭の持ち主を喜ばせようと、その本文を発揮して美しい花を開かせ、高尚な香気を放つならば、持ち主は年毎に寒肥をたっぷりやり、虫の付かぬ様に気を配って可愛がってくれます。

それで、梅はますます元気づき来年を夢見ながら又又美しく、そして木の聖者そのものの香気を発散させ、道行く人の足をとどめて、どんな邪心の持ち主にでも良き想念を起こさせます。

その反対に、ひねくれた梅の木が、万一自分は美しい花は開くまい、又高貴な香を発散さすのは勿体ないと、本来の使命に背いて蕾を堅く閉ざしたまま萎んで幾年も繰り返したならば、持ち主はこう言うでしょう。「この梅は何と場所をふさぎろくでなしだから抜き捨てよう」と。

この様にして梅の木は自分の我が儘とは言いながら、美しい花も付けず高尚な香りも出さず実も付けずに死んでしまいます。

人生とは天から与えられた使命をより良く生かし、自分以外の人生に尽くす事によって、相手からも良き想念を受けて、より良く成長して行く事が出来るもので、これはあに前述の梅の木ばかりではありません。

我らの楯

釈迦は財産と言うものは自分一人のものでは無く、五人供用のものと言われました。

五人供用とは風に水に火に賊に、そして今一つはに奪われて行くもので、即ちこの五家の所有でありまして、王とは課税又は相続税の様な形式で政府が取り上げる事です

財産と言う楯さえあればどんな風も避けられると言う事は誤りです。金は本当の楯でも甲冑でも無く、時には奪われ騙され、或いは減らされたり価値が下がったりして裏切られて行きます。

人に財があるとみれば諂ヘツラったり中には恋愛さえもする人のある事をみれば、正しい楯どころか誘惑の目標にさえなります。

昔から無かった人ならまだしも、昔は有ったが今は失われて行くという気持ちは辛いものです。又、「自分は丈夫な身体だと。他人とは違う」と思っても心に背いて弱って行くのも淋しいものです。

では何が本当に自分の頼りになる楯かと申しますと、その時その場で最も適す様に導き給う魂の親、これより他に確かな頼りになるものはありません。この御祖こそ火にも風にも朽ちる事無き唯一つの存在であります。「全く背後暮らしの気楽さよ」と思わずにはいられません。

何があろうと起ころうと我が御祖と共にあり」の信念こそ大難は小に、小難は気づかぬ内に消滅しているものです。

 

紹介者からの一言

私が子供の頃に何が恐かったかというと、お産でした。お風呂の中で母親の大きなはち切れそうなお腹をみて、赤ちゃんはどこから生まれてくるのだろうと思って母親に尋ねたら、私の母親は、お腹が割れて生まれてくるのだと、お腹の真ん中の黒くなっている線を指差して答えたのです。それを聞いて、私はびっくりして、絶対に私は大人になっても結婚はしたくない、子供を産むまいと思い込みました。あまり覚えていないのですが、お母さんの顔が苦しそうなのです。それをみて更に恐くなりました。赤ちゃんを育てるなんて、更々できないと思い込みました。でも、大人になるに従ってそれは消え失せました。

今、私が恐いものは何だろうか?と思い浮かべてみると、3人の娘たちは成人になって、夫婦二人の生活、楽しみも少なく、夢も希望もありません。病気かな?死ぬことかな?人生って何だろう?今まで、必死で共働きをしながらの子育ての生活を振り返っても、これからの未来の生活を眺めてみても、空虚感があるだけです。これって、何なのだろうか? 結局、今までの私の人生は想念で生きてきたのではないのだろうか?更に未来までも想念で生きようとしているのではないのかな?だから、空虚に感じられるのではないのかな?と思われます。自分の未熟な脳で考えた想念はむなしくなるばかりです。

財産があるから安心?それだって、いつどうなるかわかりません。台風で家を壊されたり、海のない県なので津波は無いかも知れませんが、取り敢えず流されてしまったり、火事になったり、騙されて盗まれたり、はたまた国や地方税、消費税、最近は放射能汚染かな?とにかく財産があっても頼りになりません。だから、未来を心配しても意味がありません。

それならば、やはり今を生きるしかありません。そしてその時その場で最も適す様に導き給う魂の親、何があろうと起ころうと我が御祖と共にあり」の信念。 その気持ちさえあれば、人生に空虚感が感じられないだけでなく、自分の気持ちが楽になりますね。くよくよしないで、毎日を、精一杯に生きる、それしか方法がありません。まだまだ生きる事ができます。今まで苦労を共にしてきた我が身体を労りながら、我が魂と背後霊様と共に、この肉体が朽ち果てるまで、生きることが使命の様に思われます。

 

29)大般若経、子は神からの預かりもの、神は有るか、無いか

●大般若経

大般若経を転読しているのが視えます。

般若経典と言う一群のお経がありますが、その中で最も大きな数量の有るものが、大般若経六百卷で、信経はその大般若経の真髄であり、骨幹になる訳なのであります。

それでこの大般若経は、仏教経典の中では最も長い大きな書物で、通常その一巻ずつ読むのに時間がかかる事から、転読と言う事もするものでありまして、大乗仏教の貴い教えがまとめられてあるので、これを読むと非常に御利益があるとされ、その御利益に預かりたいと言うことで、考え付いたのがこの転読であります。

口々に沢山の僧が経巻の巻数と翻訳者の名前を大声で読み上げ、最初の一巻と最後の六百卷の終わりはえらそうな親玉の僧が読み上げ、他の僧はお経を繰り広げながら、何か「諸法皆是因縁より生ず、因縁は生まれるが故に自性なし、うんぬん」と呼んでいます。

お経と言うのは、サンスクリットの“スートラ”と言う言葉の訳語でありまして、真理に契ると言う事から契経とも訳されています。縦線と言う漢字の意味が経の字義でありまして、宇宙の真理を一貫している所から経と言ったものだと思います。

●子は神からの預かりもの

十余りの吾子育つる親あれど

一人の親を見ぬ子多きに

世の中に吾がものとして無かりけり

身さへ子さえ宝さへ

と聴こえました。

兎も角自分と言う意識に囚われない事であります。

自分の子だと思うから、不具であるとか、分裂症である子の事を気にして世をはかなみ、遂に一緒に心中したり、不良の子を持てば、相手の友達の子供をうらんでみたり致します。世の中にはたとえ片輪の子でも自分の子を持ってみたいと思う人もありますのに。〈No.248

●元来大和民族の正しい心構えは、三種の神器によって代表されているものでありまして、八咫の御鏡は智、八尺瓊勾玉は情、天の叢雲の剣は意を意味し、即ち鏡は智と真勾玉は仁と美剣は勇と善でありまして、と言うものは善は善、悪は悪善悪正邪清濁醜美決して為る事無く、隠す事無くそのままの形を写し出すまこと釈尊の教えられた大円鏡でありまして、「如何なる者もこの前に立つ時は慄然としてその非を悔ゆる」と説かれています。

又山伏が山獄を錬行する時は、必ず丸寸の鏡を所持し、出逢わした者が正神か邪神かを、この鏡で写し見ると言われています。

情けは勾玉で慈悲博愛つまり和合相の根元でありまして、意は天の叢雲の剣で、善は行うべし悪は行うべからず、如何なる銀難辛苦に遭遇しても憤然として勇往邁進一歩も譲らず、悪邪はたちどころにこれを裁断せよとの教えを論したものであります。

●流れて行く水は二度とは帰ってはきません。過去は過ぎ去ってしまったものです。

失恋の苦脳・病弱の嘆き・貧苦の恨み等を心中に繰り返す事は、丁度毒ガスの室の中に自分を閉じ込めている状態であります。先ずこの東西南北の窓を開け離して新鮮な空気を入れ替えましょう。そして生まれ変わったつもりで新しいその日その日の事柄に体当たりして、明るい日を送りましょう。そして生まれ変わったつもりで新しいその日その日の事柄に体当たりして、明るい日を送りましょう。

行く水は 返らぬものぞ 繰り返し

悪しかる刺トゲに 夢なさはりそ

念オモいは現れると言う法則があります。昔から「心ここに有らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず」と言われていまして、そこに何かが有っても心がそれを感受する準備が出来ていなかったら、有ると言う事を感じられないのです。それと同様に如何に高級霊からの霊感が有っても、それに波長を合わせなければ受け取る事が出来ません。

でありますから、常に霊感を受けようと思うならば、常に背後霊が我がそばにおわす」との信念を忘れぬ事です。そうしたなら、たとえ霊視霊聴は出来なくても、何となく思うという霊感を受ける事は誰でも出来る筈です。

●神は有るか、無いか

丸い球が視えます。それは一円相です。世界は円相、月も地球も円相で欠け目の無いものです。

今この球は神の象徴で取るに任せ、海にも山にも到る所に散らばっている、否充満しています。それを我がものにしている誰あらん背後との同体の客、つまりする事なす事、茶飯事が高級背後と一つになっている人であります。

唯物学的学問ばかりして理屈を知っても、皆私利私欲のために没頭して却って「祖霊を忘れていませんか」と思います。

神は宇宙の統一者であって、実在の根元であります。唯その能く無なるが故に有らざる所が無く働かざる所が無いというその見えない神と人とのアンテナが背後霊であります。

●現代人は、誰も彼も皆社会の要求する一定の規格に合格する様に行動していって、型破りでは生活出来ない仕組みになっています。昔でも破格調の行動をすれば、たちまち生活困難が伴います

人が現在唯今、若し人世に役に立たぬ仕事をしているとすればその事柄に就いて未来はともあれ、現世には貧苦が付きものです。

●何故に人生は苦なのか?何故に人は苦しまねばならぬのか?これを端的に言うならば欲望あるがためでありましょう。つまり欲望そのものに執着する事が苦なのであります。

●成仏とは死んで仏になる事ではないのでありまして、生きながらに釈迦の心と一つになろうと言う心掛けを申します。

●有名な支那の詩人白楽天が、禅の坊さんに、「仏教とは何か」と質問したのです。すると禅僧の答えはごくありきたりのもので、「善事を行い、悪い事はしない。これが仏の教えだ」と言ったので、側に居合わせた者も、一緒になってそんな事なら七歳の子供でも知っていると、大笑いをしたのです。するとその途端に件の禅僧は「七歳の子供も知っているが、七十歳の老人も実行出来ない」と一喝を食らわしたという有名な話があります。

東洋の学問はであり、行ずる事が実行であり、実践でありますが、西洋の学問の目的は、知ると言う事に重きを置いています。

心霊家は行じて見てはじめて知る、即ち統一して見てはじめて知るのでありまして、自分に特定の高級霊ありと知ってはじめて本当の智慧が湧き出て来る事を知るのであります。知る事だけにつとめて、知だけ旺盛になり、行じなかったら副助となり、頭ばかり大きく、足が伴わず、立って歩き出る事は出来ません。詳らかに問い慎んでこれを思い、篤くこれを行ずる事が心霊学であります。

 

紹介者からの一言

鏡に映して、正神か邪神かを判断する。は自分の顔を写すことであると私は思っています。自分の顔を、鏡で見ます、そうすると自分の顔が映ります。今の私は老顔で、あまり見たくないですが・・・。

つまり、今、自分が正神になっているか、邪神になっていないかを、鏡で自分の顔を見て判断します。自分にウソがつけないからです。

バシャールが言っていました。鏡の中の自分に笑え、と怒りながら言っても、いつまでたっても絶対に笑ってくれない、と。自分が笑えば、鏡の中の自分も笑う。と、当たり前の話ですが、結局それが真実です。相手が変わってくれるのをいつまで待っていても、変わってくれません。自分が変わらない限り無理なのです。自分の顔は自分で見えませんが、鏡で映せば見えてきます。しかし、鏡がなければ、他人には見えても自分では自分の顔を絶対に見ることができません。

霊能者と言う方が言っていました。他人を視ることができるけれど、自分のことは視えないと。それと同じすね。自分の姿は他の人から見ることができます、しかし、自分で自分の姿を見ることができません。これって不思議と言えば不思議なことです。自分の事は自分が一番解ると思っていましたが、実は、そうではなかったのです。自分の事をわかってくれる人は、自分ではないのです。他人なのです。そうなると、他人であれ誰でも自分を解ってくれるかと思えば、そうとも言えません。それでは自分を一番分かってくれる他人はどこにいるのでしょうか?他人のつもりで自分を見れば見えて来ます。つまり、鏡がつもりなのです。つまり。つもりが鏡なのです。つまり、いつも自分の意識に囚われないで、自分で自分を第三者的に眺める眼を持つということなのです。そこで、自分の意識に囚われないと言う事が大切になってきます。そこで、第三者的なもう一人の自分の存在が必要になってきます。それが誰なのかといったら、自分の意識が作りだした、もう一人の自分なのです。もう一人の自分を自分の意識(魂)でつくり上げてしまうのです。自分のなりたい自分の姿を思い浮かべるのです。そうすれば、今、自分がしなければいけないことが視えて来ます。私はその様に勝手に自分で解釈する事にしています。だから、鏡は、朝と晩にしか見ていません。鏡の中の自分を見ると、理想と現実が余りにもかけ離れてしまいます。肉体は衰える一方ですから、自分が想像した自分の姿(魂)はいつまでも老化しません。今生の夢や希望は、来世にも引き継がれることを信じて、今を生きようと考えなおしました。そう思ったら、老化も非嘆しないで済むようになりました。だから、生きている間、死ぬまで、私の人生は、来世のために生きるのです。私の肉体の人生は仕事と子育てで一旦終了しました。これからは私の魂の人生の始まりです。来世に連がる自分の魂を優先に生きてみようと思う気になりました。来世は是非とも万物共生の世界に生まれることを夢みています。だから、今の思いが大事なのです。うまく行くかな?と思う不安が悪魔なのです。背後霊を信じて背後霊とのアンテナを強くすれば不安が消失できます。背後霊を信じることができれば行動・実践が楽です。今までの自分は、何をするのも不安が先にきていました、不安が頭によぎったら、それは悪魔なのです、追い払うのです。そうしたら私の魂が、やっと自由になったと言っているような感じがしています。(2013.11.4)

30)平常心是心、守護霊と自分との間柄

●“平常心是心”とは、眠らんと欲すれば即ち眠り、坐せんと要せば即ち坐す。暑ければ即ち涼を取り、寒ければ即ち火に向かう。

これを要約致しますと、あたり前の事あたり前に行って無理せぬ事が、病気をせぬ秘訣であります。

罪”“けがれ”とは、自分が知ると知らずとに拘わらず、人から良くない念を受けている事で、このような状態の時はその人のオーラは良くない色が交じり、「病気が有る」とか「その人の仕事がうまく行かないなあ」と言う事がよく分かります。

●足らはさむ 人こそ世にもめでたけれ

満つれば欠くる 憂ひこそあれ

人生の真の楽しみは、自分の成した事が、誰かの役に立って居るかどうかにあると思います。自分の思い通りになる事は、決して幸せでは無く、何も彼も思うままになると、かえって張り合いが無くなり、足りない事があればこそ生きる張り合いも出て来るのでは無いでしょうか。

●人間の目の事を“まなこ”と言いますが、これは真ん中を取る義であります。又ガンとも申しまして、「彼はガンの付け所が違っている訳ですね。

世の中にはお金を守り本尊の様に思って、金は生きて働くもので、人に布施の心が無ければ悪行の死金が付いている様なものです。

「月給の順に先生と並ぶなり」という川柳がありますが、こうなると先生も淋しいものですね。

●皆様の血のつながりを持った祖霊は、今なお霊界で生きて居られます。私等は八十年九十年と限られた肉体的生命丈を見て人生を判断せずに、もっと永い眼で人生を見直すべきです。自己の永遠の生命を信じるものは不滅であって、そこには死はありません

生死を達観して人生永遠の生命に目覚める事が、何と言っても一番大切です。所謂「腹が出て来た」と言うのはこの境地を指して言うのでありましょう。

人生たかが八十年か九十年、ぐずぐず言わずと何事も守護霊に任せてくよくよせず、おおらかにその日その日を死に切って真理の道を行き背後暮らしを致しましょう。

守護霊を常に思念して居ると言う事は、その守護の霊の守りよい状態に自分自身を置く事になるのであります。

そして力量のある霊に守られる場は他人が作ってくれるので無く、自分自身で作るのであります。

●物質の形も、色も、音も、結局は物質そのものではなくそれを感受する心であると言うならば、感ずる人の心によってある人には△の形に見えてもよさそうなものであるのに、同じ形に見え同じ色に感じるのは何故でしょう。

それは凡ての人が神仏に生かされ、生きて居るからであります。

正しい生活に入るには、正しい大霊団の背景を持つ場所で精神統一する事が一番早道であります。

「今度こそ統一会に行こう」と前もって決心して居れば無理無く行ける様に、周囲が都合よく動いて呉れる様になるものであります。

家事も ことの繁きも た忘れて

うなゐ児のごと 和ぎ 集ひませ

●樹木でも生きて居る限りは、絶えず新しい芽を出し一寸でも一分でも必ず常に伸びて行くのであります。

「この木はどうしたのか芽が出ないし枝も伸びない」と思って調べて見ると、その木は既に枯れて居ったのであります。

人間でも少しも新しい計画、即ち新芽を考える力が無くなり少しも新しく発展しなくなった時には、既にその人の生命は枯れつつあるのであります。

然して常に新しい事を考えて計画し、新しい事に興味を持つ間は、その人は老いないのであります。

守護霊と自分との間柄をはっきりと知りたいと思って居られる方々が多いので簡単に申しあげます。

それは曾て自己の祖霊中のある人霊が、現世生活中に向上させべき良くない心の癖を遂に修業出来ずに死後その非を悟り、神仏に誓いを立てられ、自分の分御霊ワケミタマとして再度この世に人として一番楽に修正する事が出来得るため、分霊を出し修業して居られます。

従って男性は男性、女性は女性の特定の守護霊が居られる訳でありまして、本来の自己とはこの守護霊につながる魂を申します。

守護霊は種々の経験を積まれ、境地高く人を守る事の出来る約四、五百年前の帰幽霊が多い様です。さて、守護霊と自分との関係をわかり易く物に喩えて話してみますと、ここに一本の銀のキセルがありますが、口に入る部分は守護霊とし、外のガン首は今現に肉体を持って生きて居る一個の魂と致しましょう。すると、このキセルの吸い口とガン首は切っても切れぬ関係にありますが、若し中間にヤニがたまれば、即ち不純の低級霊が介在すれば、通りが悪くなり、遂には使い物にはなりません。

でありますから、常に私共は、御祖の心を心として居る様心掛ければ、小難は無にして大難は小にする事が出来得るものであります。

天衣無縫天真無碍の王者の心境になれとは、言はめやも 只神仏との間を取って下さる中立ち霊と直結されん事を〈№249

●思うに人生とは、至極単純だけれども複雑怪奇である。例えば人生とは悲劇であると言う人も居れば、いや人生とは喜劇であると言う人も居るが、一体どっちなのかと問われるなら、どちらも正しいといえるし、どちらも正しくないともいえる。然しどちらにも一面の真理はあろう。

人生は戦である。人生は金である。人生は博奕である。人生は後悔である。人生ははずみである。この中のどれを取るか、そしてどれを信じるかはその人間の性格による。或いはその人間がそれまでにあった人生体験によるのである。

寒さにふるえて来た者程太陽の暖かさを感じるし、人生の悩みをくぐった者程、生命の貴さを知るものである。

●徒らに過去を悔やむ事勿れ、甘き未来に望みをかける事勿れ、そして生きよ!勤めよ!この現在に、であります。

或る聖僧が・「明日と申す事あるまじく候」と言われました。私等が人生に渡るのを書物に書く場合に喩えれば、なるべく誤値の無いように、後から訂正をしなくても済むように書いて行きたいものです。少なくとも汗と脂の勤労によって一頁ずつ悔いなく朗らかに掻き続けて行きたいものです。然し書物なら書き直しも出来ましょうが、人生は書き直しが出来ません。誠に人生の喜び楽しみは飽く事無き所有欲や物質欲によって充たされるものではありません。地味で真面目な勤労に従事する事によって、高く勇ましく進軍ラッパが吹き鳴らされるのであります。

 

転載者からの一言

人生をくよくよせずおおらかに、守護霊に任せて、と言っておきながら、自分で作るもの、と。

地味で真面目な勤労に従事する事によって、高く勇ましく進軍ラッパが吹き鳴らされる。どうも、私には理解できません。

私の人生はどれかな?後悔ですね。自分の想念が邪魔をして、後悔ばかりしていたように思われます。ある時期から自分の想念を追い払うことに努めてみました。現実の出来事だけを素直に認める事にしました。そうしたら自分の力量の無さを、まざまざと見せつけられるようになりました。しかし、それと同時に、今、何をするべきかが見えてきました。現実を素直にみることができるようになってきたように感じます。想念は不要ですね。

今を生きる、過去も、未来も考えない、今の現実の事だけを考えて、行動する。それができると、過去も未来も活性化します。今の現実を疎かにしたら、過去も未来も暗いです。だから、今が大事なのです。そのように私の人生を振り返ってみたら、くよくよとしないで、おおらかな生活ができたはずと思うのですが、それは今だから言えるのであって、その時には精一杯やったと思っています。もっと他のやり方が有ったかもしれない。もっと楽な人生を選べたかもしれない、後悔もたくさんあるけれど、まだ私の人生は終わっていません。でも、今更、どうでもいいです。これからの私の人生は、来世につながる生き方をしようと考えています。

2013.11.12

31)唯物思想、唯心思想、

●多く の病気は便秘や血流の結果から起こって来ると言われています。

便秘血流の滞りは、感情の結ぼれと滞りから起こるのでありまして、感情の結ぼれは神経系統の働きを梗塞し、心臓の働きを抑制し、血流と内臓の働きを不活溌にして、だんだん知らぬ間に体が弱り抵抗力が減退して、遂に重い病を起こします。

体の弱い肺結核の人が空気の良い所へ家族と離れて転地すると、体の調子が良くなり太ると申しますのは、家に居ると心の抵抗がひと以上受ける人であります。然しその人はその転地先に長く居れば又我が儘の心が出て、他の抵抗を感ずるようになるでしょう。

でありますから、先ずその元の心の我が儘を治さぬ限り、いずこに努め口を変えてもいずこに居ても同じになります。

●「同気相寄り同性相合す」これをよくよく知ることです。

不良不良と仲良くなり、真面目な人は真面目な人同志で心が通い合うものです。心霊家は万一心霊家の中に不幸な人があれば、何とかしてと心を砕き人間的にも霊的にも助けようと致します。

昔の格言に「その人を知らんと欲すればその友を見よ」と全くその通りです。私達心霊家は今後共お互いに助け合い励まし合って、不幸の人が一人でも無いように致しましょう。

●反省と悔やむ事では無く、自分の正体を知る事であります。

この協会は、病気治しや金儲けのためにだけで来る所ではありません。万一それ丈で来られる方があったとしたら、病気や貧苦の解決は遅くなります。

真面目な心霊研究者なら、時を重ねている内それらは自然と解決致しますので、ここでは他でやるようなお恵み話を誇張したり尾ひれを付けたりして、壇上に立って本人に話して貰ったり、雑誌に載せたり致しません。

然し、各々体験を持たれればこそ十何年間も休まず続けて来られるのではないでしょうか。

●人間は肉体と霊魂との二つがもちつもたれつの因縁和合にあります。

人間社会も又物と心の二つがあるので、精神を否定する唯物思想もいなければ、物質価値を否定したような唯心思想も良くないのでありまして、いくら自分には立派な神仏が付いているからと思っても、自動車にひかれれば怪我もします。火に飛び込めば焼死します。

又その反対に、先祖の霊を祭り、これを敬わぬような家には常にゴタゴタが絶えないでありましょう。

衣食住の三つは、人間の生活にとって欠くべからざる要素であります。

仏教では、「衣食住の三つは三悪道なり、衣を求めざるは畜生道の業なり、食物をむさぼり求むるは餓鬼道の業なり、住居を構うるは地獄道の業なり。然れば三悪道の業なり。然れば三悪道を離るべきなり」と言っています。

三悪道とは三悪趣とも言って地獄・餓鬼・畜生の三つの世界を申します。世界と言っても別の世界に出かけて行くと言うような距離の問題では無く、衣食住の現実の生活中も又死後に於いてもその人の心に従ってその人の周囲に地獄・餓鬼・畜生道が現れて来るのであります。

例えば、風呂にも入らずボロボロの気味悪い臭いさえする衣を纏マトうて人にいやな思いをさせるは畜生道の現れで、又その反対に衣装をむさぼり求めてあれこれ狂喜するも、前世着たっきり雀が人を恨んだ欲望で、これも畜生道の業でありましょう。

餓鬼道の業とは、前世をも含めて食物をむさぼり求めたり、又人に食を与える事を拒んだ者の落ち行く世界であります。

或いは又、確かな住居が無く身の置き所無いルンぺン同様な人も、前世住居をあれこれ飾り立て側女をあちこちに住まわせ、転々として柱に落ち着かなかったかつての地獄道の業の現れであります。

心霊学徒は衣食住に執着せず、立場に応じた衣食住に満足し、背後暮らしの気楽さで長生き致しましょう。

成しのまま渡れば安き橋あるを

あぜなづらうや魂のくもるに

成しのまま=神のなしのままに  あぜ=なぜ

人間の短い一代を幸せに送る埒又不幸な境遇に終始するは、その人の発散さす“”にあると言っても言い過ぎではないと思います。気とは揚気、天気、気分、又は陰気、寒気など色々な言葉の末に使います。

つまり肉体からはみ出しているその人を代表している人格のオーラでありまして、自分自身には見えないし常人にも見えない、その見えない霊的なものを私は気と呼んでいます。

その気が言挙げずとも人に尊敬されたり、無限の親しみ、懐かしみや暖かさを感じさせます。また反対に、何となく冷たさ、気味悪さを感じさせ、寄り付き難いものにもします。

これはあなたの思想・感情・野心・希望・愛憎・趣味・教養・過去の体験の一切の記録など、無数のものつまり如何なる霊と交流していたかが一つの渾然一体に統一されて、それが肉体の微妙な形態を通して表現されているものであります。

これはあなたの隠す事の出来ぬ人格の全部であると言えるのであります。先ずあなたの肉体から発散するこの“気”を良くする事が、運命を良くする根本であります。

 

転載者からの一言 

人間は肉体と霊魂との二つがもちつもたれつの因縁和合  

精神を否定する唯物思想物質価値を否定する唯心思想 

ミイラにして永遠に肉体を保存したエジプト時代には、魂よりも、肉体の方を重視する唯物思想の時代だったのかもしれませんね。つまり、ミイラにすれば永遠に肉体を保存することができます。しかし、その後の時代は土葬にしたり、火葬にしたり、医学では切ったり、焼いたり(放射線やレーザー治療)、歯医者でも削ったり抜いたり、肉体を軽視する唯心思想であるともいえるかもしれません。 

遺伝を重視する天皇の家系、これはどちらになるのでしょうか。染色体が肉体だけの染色体であるとすれば唯物思想になると思います。然し、人間の目には見えない第三の染色体も存在するとも聞きます。そうすると、どちらになるのでしょうか。 

未来の人間は唯物思想と唯心思想のどちらを選択するのでしょうか。

最近、半霊半物質という言葉を聞きます。次元上昇ができればそうなるようです。つまり、肉体がミイラになるのではなく、霊になるというのです。そうすれば、病気もしない身体になり、長生きできるそうです。それでは、半霊半物質とはどのような存在なのでしょうか。

個体、液体、気体、プラズマ、の考えからすれば、人間の体は個体と液体と気体の混合物なので、次は液体と気体とプラズマの混合物になるということなのでしょうか。

胎児の記憶を持つ子供が、自分の身体から自然に手や足が出て来た、と言われたそうです。私達の体も、自分の意図としない所で変化するのかもしれませんね。自然は偉大です。人間の脳では考えられません。あまり深く考えないで、自然に任せることにします。(2013.11.19)

32)神使、変化、背後霊の霊感を素直に受ける

●仏教には拳属といって仏菩薩天部に、それぞれ動物が附属しています。

日本の神神には、神使と称して矢張り動物が召し使われていますね。

仏の方は獅子普賢は摩利支天は、先日話した寿老人は鹿又は弁財天はマムシ等、まだ色々あります。

神様の方では、天照大神に春日様に鹿稲荷様に八幡様にと言うように、仏神共にそれぞれ特定の拳属をお持ちです。

世俗に稲荷様をと混同していますが、狐は稲荷様の神使で祭神は伊勢外宮豊受大神と御同神で、宇迦之御魂と称し、五穀即ち人民生活の主宰を為す衣食の守り神であります。動物が神使とは可笑しいようですが、神が人間に利益を与えるためその神使の特殊の霊能通力を持ち得る事もありますし、人間より動物の神使の方が単純で使役しよい点もあるのかも知れません。これは人間に随伴霊のあるのと同様であります。

●世の一切のものは移り変わるのですが、それは元が無くなるのではなく変化するのであります。仏教で諸行無常つまり一切のものは常に無いと説く場合、多くの人はそれを悲観的、消極的に解釈ているようですが、人生は無常なるが故に楽しいのではないでしょうか。無常とは常に固定せず変化するとなれば、そこに努力の楽しさが生まれます。人生が固定して動かなかったらとても退屈でしょうし、どんなに怠け者が出来る事でしょう。従って、向上進歩しようなどと思う人は無くなります。

昔おじい様が極楽の蓮の上で退屈でアクビばかりしている図の書いた本を見ましたが、その図のわきに「或る日おばあ様がおじい様の所へ行ったら、おじい様の申すには、おれは退屈で退屈でもう極楽は見飽きたから、地獄とやら針の山とやらへ行ってみたい」と言うことが書いてありました。そうかも知れませんね。無常なるが故に生き甲斐があると思います。楽ばかりが幸せではありません。

●人間は、今与えられている仕事を怠けようと思えばいくらでも怠けられるし、又勤勉に働こうと思えば人一倍働けます。

それがその人間には、他の動物と異なって自由性を持っている所であります。この自由性を持つが故に、自分の行った事については、常に責任という裏付けが有る理であります。従って自分の行った事が、であれば報いがあり、人間としての法則をふみはずせば、神仏や人がしなくても、自然に不幸になって行くのは人間の生れ付きなのであります。

●キリストは「汝右の頬を打たれなば尚も左の頬を持ち出すべし」と言われました。また或る名僧智識と言われた僧が、突然矢が飛んで来て右目に突き刺さった間一髪、左の目を衣の袖でおさえたと申します。又或る教祖は、自動車のドアに手を挟まれたが、そのまま悲鳴をあげ、ドアを開けさせ、徐に手を引いたと聞かされました。

これ等は皆立派な処置だと思います。然し心霊家は未だ事が現前せざる以前に、その事に就いてのお霊感があって然るべしと思います。

或る熱心な心霊家が車が来たのに、何か忘れ物をしたような気がして自室に入りハンドバックを調べるとちゃんと入っていたので、それから又車に乗って家を出たところ、すぐの四ツ角で若い人が運転を誤り、自分のすぐ前の車にぶっつけ、双方共大怪我をしたと言う事ですが、万一自室に戻らなかったら、丁度時間的にすぐ前の車のような運命に落ちたものと思います。常に背後霊の霊感を素直に受ける時、本人が気付かんでも有形無形の守りを得るものであります。

●新しい仲なので、この度必要になり返を申し出たが、は返らず親友を失ったとよく相談を受けます。

を貸す場合は、この人になら万一返して呉れなくとも良いと思うでなければ貸してはなりません。

昔は商店も今と違って毎月末払いでなく、半年払いのものでした。そこで半年に払わない時は又半年のびる。ところで或る酒屋が張り紙を出して、「貸しますとたまりますから困ります。現ならば安く売ります」と書いたところ、翌日その側に、「借りますりゃあ貰ったものと思います。現ならば他で買います」と書いて張ってあったそうです。は持つ人によって「宝とも仇ともなるは黄なりけり」で、「は召し使うには最良の下僕であり、これに仕えるには最悪の暴君である」と或る詩人は言っていました。

には昔から色々の歌があります。

無くて何の己が桜かな」とか、「欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を忘れる」などあります。

又「貸し借りは争いの始めなり」とか申します。或る高徳の僧の歌に、「は世間に傾け置く、欲しい野郎は働いて取れ」と言ったそうで、自分はいつも粗末な暮らしをして布施行をしていたそうですが、その子孫がその徳を受け、大変栄えたそうです。〈№250

 

転載者からの一言

私には霊感は全くありません。更に、自分の能力を全く信じていません。だから、自分の周りの出来事に耳を傾けて、その中からアイデアやヒントを掴むように心掛けています。 いつごろからそうなったのか、というと40歳の時からです。それまでは、自分の能力をある程度信じていました。しかし、何をやってもうまく行きません。どんどん悪化するばかりです。自分が信じられなくなりました。そこで一からやり直そうときめました。どの様にしたかと言うと、あなたは看護学校からやり直しなさいと上司から言われたら、素直に看護技術の雑誌を購入して、勉強しました。字が汚いと言われたら、素直にお習字を習いに行きました。漢字の間違いが多くて、子供から学びなさいと言われたら、漢字書き取りも始めてみました。よくもまあ、親からもこんなに叱られた事も無いのに、次から次と上司から叱られました。顔を真っ赤にして怒った上司の顔をみていたら、まるで鬼の顔でした。ソッカ―、鬼は人間が怒った顔だと悟りました。そんな感じで、馬鹿になる事にしました。上司が怒ってくれたおかげで、今までの自分を変える事ができました。どのように変わったかと言うと、自分を信じないことです。なるがままにまかせることにしました。そのような気持ちで働きました。そうしたら、怒られても、失敗しても、そんなに気にならなくなりました。そして、59歳の時に、とうとう、看護副部長から仕事を止めたらと言われてしまいました。それも、素直に受け止めました。そんな感じです。子供が病気をしても、素直に受け止めました。何とかしようとはしないで、何とかなると思って色んな方のお話を聞きに行きました。その中からヒントをつかみました。お金はかかりましたが、今まで、子供に申し訳なかったこと、仕事やお金よりも親の愛情が大事だった事を気付かせてもらいました。仕事を止めてからも、周囲の人たちからヒントを頂いて、リンパサロンを開業、更に乳幼児リンパの特許、自分の頭で考えていたら出来なかったと思います。全て周囲に耳を傾けてヒントを頂きました。これもあれも、何となく背後霊のお陰かなと最近は感じるようになりました。

つまり、自分を信じないで、背後霊を信じる事にしたのです。どのようにしているかと言うと、他人の言葉に耳を傾けて、ヒントをつかむ、更に自分の頭によぎったヒントは逃さない。くよくよ考えないで、やることはやる。40歳から20年経過、見えない力の存在を感じられるようになりました。自分の脳は自分の過去の経験の意識なのです。新しいアイデアは考えられません。だから、何かをやろうと思ったら、自分の脳以外の所からヒントを掴むしかないのです。頼りになるのは自分の脳ではありません。背後霊なのです。植物も動物も太陽も光も、何もかもがヒントになります。導いて呉れるのが背後霊の存在なのかもしれません。(2013.11.28)

33)釈迦が出られてから約二千六百年、キリストが誕生されてから約二千年たつが

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釈迦が出られてから約二千六百年、キリストが誕生されてから約二千年たつが、その間兎に角この二大宗教が世界を風靡して来たにもかかわらず、何故今尚人類は相争い、恨み、憎み続けているのでしょうか。

では、宗教では真に人を導く事が出来ないのかと言うと、そうではないのでありまして、釈尊の説かれた教えが悪いのでもなく、それはその教えの根底に潜む幽玄的な心霊思想を見落として宣伝されて来たからであります。 

今や洋の東西を問わず、知識階級の間で、この正しい心霊研究をする者が日につぎ盛んになって来た事は、人間味を深く掘り下げて考えれば考えるほど、如何なる宗教でも壁に突き当たり、自然とその根底に潜む心霊研究せざるを得なくなって来るからであります。

この研究をする事によって、過去現在未来を通じ最も良きその時その場に住する事が出来、又生死を恐れなくなるのであります。

自己を深く掘り下げずして、徒らに自分のみ守り導く神は無いかと、唯周囲を探し求めても何処にも特定の守りの泉は出て参りません

●「心こそ心迷わす心なり、心に心ゆるすな心」と言う格言があります。

魂と一口に申しましても、魂とは色々の心の集合体であって、例えば「ここで一番怒ろうか」と思う心、それと反対に「今怒ってはまずい」と止める心、「いや今怒らねば」と思う心など色々の心があります。

禅宗の二祖慧可大師が修業中神光と言われた頃、心とは何かと言う事に煩悶苦悩し、そこで遠く達磨大使を尋ねて雪中に立つ事数日、而も臂を切って真剣身を示し、やっと入室が許されたその時神光が言うのには「師よ、わが心を安んぜよ」と血を吐く思いで叫ばれた時に、達磨曰く「その心を持ち来たれ、お前の為に安ぜん」と言われた。すると神光曰く「心求めるに不所得即ちわが心をお見せする事ができません」と達磨曰く「お前の為に心を安んじ了れり」と言われた時、神光は悟ったと言うことです。

この頃もっと心霊研究が今の様に広まっていたら、あたら臂を切ったり血を吐く思いをせぬでもよかったのでは無いでしょうか。又神光の様にいくら体内を探しても肉体中には心はみつかりません。

こころ即ち魂は物質ではなく次元の違う存在でありまして、肉体を指向しているに過ぎません。

自分つまり守護の霊とつながりを持つ心がしっかり目を覚ましておらぬと、低いものに使われ、従って不幸になっていきます。

●世の中に幸福な人と不幸な人とがありますが、何を以て幸福とするか、又何を以て不幸とするかは、これを客観的に而も厳密には判断する事は出来ません。よく聞く事ですが、「私ぐらい不幸な者は無い」と言っている人から私から見ればそんな不幸はいくらでもある事だと思われますし、又「貴方は幸福ですよ。今の境遇を在り難いと思わねば冥利につきます」と言うと、渋々承服する人もあります。
又貧乏で孤独で不健康で、何の楽しみも無く、あるものは苦しみばかりだろうと思われるのに、本人は大いに幸せだと思っている者も無きにしも非ずで、 幸福と不幸はその人の主観にある事で、当人が自分は幸せだと思えば幸福だし、不幸と思えば不幸なのであります。

然し一般には他から見ての幸せの人は幸せな人であるし、不幸に見える人は不幸であるのが普通で、客観と主観と全く反対になる程違うのは、よほどその人が特殊な性格を持っている場合であります。

この娑婆は消失する事の無い私と思い「私の魂のほんの一時の修業場だ」と考え、自分の周囲に起こって来た一つの事柄にふわりと乗って、先祖からの悪因があるなら善因に変えようとする勇気あふれる人にとっては、この娑婆は張り合いのある実に楽しい所となりましょう。

●与えられた義務はそれを遂行する事によってのみ軽くなる、それから逃げる事によっては決して免れる事の出来ないものであります。

逃げた義務は、支払わない借金の様なもので、その人の潜在意識がからみついています。

与えられた境遇や環境に就いても同じ事です。その境遇や環境が嫌さに例えば小学校を転校しても同じ過程は必ず学ばなければならない様なものです。 

転載者からの一言

我が夫は、趣味で畑を借りてジャガイモや里芋を栽培しています。私は虫に刺されたくないし、泥んこになるのも嫌なのでやりません。しかし、夫が収穫した芋を、軒下に茣蓙ゴザを敷いて干すのが私の役目になっています。つまり、夫は収穫までは一生懸命にやりますが、その後の保存方法を知らないのです。一度、収穫したジャガイモや里芋がバケツの中や箱の中で腐ってしまいました。それも収穫後一週間もたたない間に、熱が籠って、腐ったのです。すっごく嫌な臭いがしました。ジャガイモの腐った臭い、里芋の腐った臭いは悪臭です。ミカンでも、リンゴでも、腐ると嫌な臭いを発します。人間も同じですね。癌に侵された身体は独特な臭いを放ちます。しかし、腐らないで残っているミカンやリンゴ、ジャガイモ、里芋は新鮮な空気の場所に置けば腐らないのです。腐った物は、ドロドロと溶けて跡形も残りません。しかし腐らないで残った物は、しなびていても、なお生き続けています。死んでいないのです。生きています、しなびた形で残ります。しなびていてもいつまでもおいしい臭いを発しています。食べてもおいしいです。種があれば新たな息を吹き返します。死が訪れないのです。永遠に循環します。しかし、腐った方は種もろとも腐ってしまって、そこで終了です。もしかして、魂もそうなのではないでしょうか?周りに悪臭を放ち、最後は自ら溶けて途絶えてしまいます。

我が家の夫は言います。買った方が早いね、と。しかし私は言います。比べる土俵が違うよと。つまり、資本主義社会のお金や物の世界の土俵、自然や宇宙の何億年もの間で培った畑の土俵、比べる事自体が恐れ多いのです。次元が違うのです。

買ってきた食べ物と家で料理した食物。味や栄養、それ以外の別の付録があります。その付録が見える人と見えない人がいます。しかし、見えない人でも長年の月日が経つと明らかに差が見えて来ます。それが子供であれば引きこもりかもしれません、家庭内暴力かもしれません。夫婦であれば離婚かもしれません。国家であればデフォルトかもしれません。

唯物論と唯心論、体主霊従と霊主体従、私達は見える物の世界と見えない世界の間で生きています。どちらも大切です。しかし、物しか見えない人、心しか見ようとしない人、物と心の両方が見える人とでは、長い生活で明らかに差が付いています。その長い生活は一世代ではないかもしれません。道として永遠の過去から永遠の未来につながっていると思われます。人間であれば霊の世界に、国であれば文化や芸術の作品に、それが心霊研究なのではないでしょうか。キリストも釈迦もそれを伝えたかったのではないのでしょうか。しかし、今は昔ではありません。物が豊かになった現代人には理解できるのではないでしょうか。何が大事であるかを、お金や物だけではないのです。自然のエネルギー、豊かな心なのですが、それは見えません。それが見えるようになれば、争いの無い平和な世の中が訪れるように思われます。
(2013.12.28) 

34)“謝三郎”四を知らない愚鈍者、何事も人より勝る行いがなくてはならない

 

34

●どんなうぬぼれ屋でも自分の顔がどんな顔形をしているか知っています。けれども自分の心の顔がどんな顔をしているかと言う事を、知る人は少ないようです。これは、心は目に見えないからであります。

自分は如何なる雰囲気を周囲に発散させているか、その発散さす気によって相手或いは一家中を不愉快にさせたり、明るい気持ちにならせたり致します。

先ず自分は今どんな気を発散させているか常に自分の心を顧みる事が大切と思います。ところが「あなたの気は暗いからもっと明るくなられます様に」と申しあげてもお分かりにならぬ方が、多い様ですが、それは目に見えないから、分からないのであります。

目に見えない自分の雰囲気、それによって或る人に魅力があり、或る人は人に嫌われ、或る人は信望を得、或る人には無限の親しみが感じられる様になります。

でありますから、自分の気を良くする事が自分の運命を良くする根本であります。

希望は実現の母でありまして、希望を持ってその希望に向かって心明るく、前に進んで行く者は遂にその希望を実現する事が出来ます。何故ならばその人の希望は、常にその人の背後霊が良くも悪くもかなえさせ様と思うものなのであります

若しここに二人の同じ進行程度の病人がいたとして、「一人は守護霊が見守って下さるから必ず治る」と希望を持ち、心豊かに明るく快活にしているとし、他の一人は「もう自分では駄目だ」と考え、希望を失い悲観暗い心を抱いているとしますならば、前者は恐らく治る率が多く、後者は全く治らないか又は同じ治るにしても、結果に於いて他の余病が出たりして、そこに大変な差が出て参ります

前者は病を持ちながら希望に満ちて楽しいでしょうし、後者は心に苦しみがあります。心愉しい人は極楽浄土に遊び、心苦しむ人は生きながら地獄にいる訳であります。

守護して下さる良き背後霊があると常に感謝する心は、努力もいらなければ力もいらない。唯守護の慈悲に包まれて自分が無くなり気楽に暮せましょう。

●心霊学徒にして、若し非凡の人物となり、非常なる仕事を成し遂げようとする者は、天地崩るるも動かざる程の志と、勇猛壮烈鬼神もこれを避ける程の気力を要します。

けだし富貴も心を蕩トロカせず、威武にも屈する事が出来ない、而して正義を行うに当たっては水火も辞さない位の決心で、これを行う時には、何事も他人に依附せず自ら行わなければなりません。

それは何事も人より勝る行いがなくてはならないからです。

●邪教であるか正しい信仰であるかを区別する標示は、その神罰や仏の怒りで脅かすかどうかにかかって居ります

神罰や仏罰を説いて恐怖心で自宗にしばりつけておく事は、即ち心霊知識の無い証拠で、我とは何かを知らない“謝三郎”だからであります。“謝三郎”とは、死とは何か、また四と言う字も知らない愚鈍者と言う侮蔑の昔言葉であって、つまり智情意のバランスが取れていないと人と思います。〈№.251

●世に人間の肉体程素直で正直なものはありません悦べば顔が晴れやかになり、心配事があれば顔が暗くなり、一つあの奴を騙して金をせしめようと思っている人の顔は陰気にどす暗くなり、―――心が腹立っている時には表情がこわばります。

それ等の心を多く持っていると、肉体の習慣となりそれが蓄積されて、その人が別にその時何等感情を動かしていなくても一種の一定の人相が出来上がってしまうのであります。

●精神統一をこの協会でたび重ねる内に目が三つになります。二つは物質を見る目で今一つは霊眼でありまして、これが備わると未然に霊信を受ける事が出来ます。つまり正しい霊眼が備わって来たという事であります。

現象に捉えられて焦る者には、唯心の描く地獄の姿が見えるのみです。今与えられている運命をそのまま素直に受け入れる事によって、丁度冬の中に春の準備がされるようなもので、輝いた春の日は冬のうちに準備されるものです。

救いは苦しみの中にあり、幸福は不孝の中に見えるものの中にままあるのであります。私共は静かに瞑目して、我が内に宿る守護霊の無限の救いを黙念致しましょう。

●心とは何か、つまり人間心の目を開かぬ限り逃げても隠れても自分の行く処には、又形を変えた同じ程度の苦労が始まるのでありまして、苦労を嫌がらずに進んでその事柄に体当たりして切り崩し、その課目を卒業するよりほか住む処はありません。

心霊的に言うならば、汝の魂を向上さす糧として因縁を殺す事無く受けて立ち、よしこの因縁をより早く卒業してやろうとの心構えが大切と思います。

世の中には大した原因とも思われぬのに憂うつになったり、怒りっぽくなって他人に当たってみたり、世の中が嫌になったりする人がありますが、それは自分の周囲に起こって来る因縁に負けている、言わばいくじ無しの弱虫という訳であります。

●世の中に彼は天才だと簡単に言われていますが、それはその人の先祖の誰かがこの世に生存中かねてその仕事に血のにじむ努力をして居るからであります。

その尊い因縁を大切にし、時代に合うようより良く伸ばす事こそ祖霊に対する礼でもあり、また因縁を生かす事にもなるのであります。あのアクロバットでも外国では二十何代目アクロバット何々家とか、又猛獣使い二十何代目の何々家誇りと自信を持ってその業を受け継いで居ります。これ等は祖先の因縁を良く生かした事を物語って居るものdのでありましょう。

この世には心中したい程の恋仲であっても因縁が無ければ夫婦になれません。然るに親子となり兄弟となり夫婦となって、一つ家に寝食起居を共にすると言う事並々ならぬ深い因縁であります。

その浅からぬ因縁を大切にし、祖霊の御心に添い奉る為により暖かく時代に沿った立場立場を理解して、楽しい生活を致しましょう

 

転載者からの一言

今の資本主義社会はいつ作られたのでしょうか?その前はどんな世界だったのでしょうか?大昔はお金の無い世界でした。石器時代や縄文時代は集団で助け合って生活をしてきました。そうしないと生きられなかったからです。弥生時代になり、生活が豊かになると争いが始まる様になったようです。そしてお金の時代になると、更に争いが強烈になりました。今は原子爆弾を抱えて、私達の生活を脅かしています。守護霊や指導霊は1000年程前の御先祖様だと言われています。1000年前の御先祖様の時代は、まだお金の無かった時代です。そのような時代の御先祖様が今の時代の私達の守護霊になって、果たして私達の希望をかなえられるのでしょうか?疑問です。

御先祖様がこの地球上で御苦労されて生きぬいて来てくださったお陰で、今、私達はこの世界に生存できています。その御縁が因縁であると思います。祖霊の御心とは何でしょうか?因縁を大切にするとはどういうことなのでしょうか?DNAを連いで生き抜くことなのでしょうか?結婚して、子供が授かって、子供を育てて、それでお役目終了です。そして、若し私があの世で1000年後の子孫の守護霊になったとしたら、私は何ができるのでしょうか?きっと、私よりも子孫の方が優秀だと思われます。私はなにも出来ずに、ただ見守っているだけのような気がします。しかし、私の子孫が私の方を振り向いて下さって、御先祖様ありがとうございますと言われたならば、きっと、その時にこそ、今の現世を生き抜いてきた私の苦労が報われる様な気がします。そのような循環が御縁であり、祖霊の御心であるように思われます。そのような循環になるような世の中にしないといけない様な気がします。もし、私が守護している子孫が、何故この世に生れて来たのかと嘆いていたら、守護している私はすっごく悲しい思いをするのではないでしょうか?そして自殺などされたら、守護している自分の存在の意味も無になってしまいます。

現世で生きている私達は、スポーツで言えばプレイヤーだと言われます。そして守護霊や背後霊はコーチや監督です。もし、そのプレイヤーが現世で活躍していたらきっと観客も増えると思います。応援してくれる神様が多くなるのです。そうなったら、プレイヤーは観客に向かって手を振って、応援ありがとうございますと笑顔で御礼を言うと思います。監督やコーチも喜ばれると思われます。

どんなに神様や守護霊様に祈っても、現世の自分がプレイをしない限り意味がありません。だから祈ってばかりいていいとは言えない様に思われます。でも、守護霊様はいつも自分を応援してくれている存在である様な気がします。<2013.12.29

35)何時も満足で晴天白日の如く朗らかに暮らせましょう

●世の中の物事は凡て相対的なもので、一の楽境界あれば即ち一の不楽的のものがある。一方に安楽な境界があればこれに対して他方には又安泰で無い境界がある。即ち一方に楽の世界が有れば、これに対して他方には必ず苦の世界が有るものであります。互いに差引勘定をしているのであって世間の事も皆この通りで苦あって楽、楽あっての苦、醜あっての美、美あっての醜、何一つの絶対的のものは無いのであります。

夫婦と雖もその通り良い心の面のみはありません。然し何も悪い面のみ見て嫌がる必要はありません。夫は妻の良い面を、妻は夫の良い面のみ、じっと見ていたら三十年、五十年はすぐ過ぎてしまいます

●人は自分の所属している類魂の協議の結果、この世に各種各様の使命を受けて出されて来ているにもかかわらず、自分で自分を放浪息子にしてしまうのは、祖先への抵抗1つの一つの大きな罪であります。

どんな人でも境地の高い立派な人霊を背後に持ちながら、この世は単なる物質的存在だと考えるのも、祖先への抵抗のひとつであります。

思えば思われ、信じられれば信じられようと努力するのが、あの世の霊もこの世の人も同様であります。

背後霊とは宇宙全体に満ち満ちておられる普遍的な神様では無く個性霊でありますので、あなたが信じれば信じられようと、より悪因霊のとなり、より幸せにしかも楽にさせようと、常に念じていてくださいます。

ひとはそれぞれの使命を帯びて来ておりますので、その使命の任に当たっては、鳥の頭となるも牛の尾となるも、偏に如何なる背後霊と親しくしているかによるものであります。

●腹一杯と言うけれど、修業の腹は一向にふくれていない、一向に役に立たず悟りもせずに悟ったと思いあがっている人が多いのは、悲しむに絶えたり、笑うに耐えたりであります。

父母未生以前の我、これは学問や理屈では分からない、素裸になって心霊修業した人で無ければ本物は得られぬ、一本シャンと筋金が通っている士でなければ人は信用いたしません。

●達磨大師は南天竺テンジクの香至上の第三王子と言われていますが、実在の人物かどうかは疑問とされています。

達磨とは“通天”と言う意味又は“真理”と言う意味にも使われています。その大師の師、“般若多羅尊者”が、当時国王より誠に目もくらむばかりの球を貰い、それを当時子供の達磨に見せたら、達磨曰く「この球は世の宝として貴ぶに足らぬ、法実・真理の球こそ本物の世の宝だ」つまり物質では無いと言う事ですね。

この協会で半年位坐られますと、自然に球が視えます。つまり、真理の球、高級霊とつながりが出来た験の球が視えます。この球は人が盗もうにも盗む事は出来ないし、焼くにも焼けて無くなるものではない、これこそ法実でありましょう。

世の物質の球は本物でないから、世を照らし人に益を与え又自分をも照らしません。真の智光でなければなりません。守護の霊から離れた仕事などろくな事は出来ません。

●人間は感情の動物で、体は安静にしていても心九国の戦と言う言葉がありまして、心痛む時それに対応して肉体が弱って行きます。

と言う字はマカスとも読みますが、何でも他人に任せれば良いと言うのでありません。

真理に任せる、つまり守護霊に任せる、そして無理せず時をはかる事で、不安なく焦らず任す事がやがて冬の春の芽生えの支度をする事になるのであります。

●人生を勝利と幸福との中に生活する第一に必要な悟りは、自己が無限の力ある霊とつながっているという自覚であります。

分に安んじて足るを知るの満足心を悟り得たなら貴くも賤しくも富んでも貧しくとも何時も満足で晴天白の如く朗らかに暮らせましょう

 

転載者からの一言

あけましておめでとうございます。昨年から、インターネットの世界に飛び込んで、我が家の隣、近所の人達が不思議に思っていたようです。御主人は散歩で見かけますが奥さまは見かけませんねと、奥さまは引きこもりになっています。

今年も取り敢えず、ブログを投稿しながら、社会に参加しようと思っていますのでよろしくお願いいたします。

先ず、相対的の意味ですが、喜怒哀楽、戦争と平和、善と悪、美と醜、闇と光、上と下、表と裏、二つが相争っています。この相対的な力から私達は逃れられないのでしょうか?

キネオロジーのユーチューブを見ていたら、磁石に例えて、この相対的なお話をされていました。磁石を二つに切ってもプラスとマイナスの世界になってしまうそうです。磁石を、切って、切って、小さくしても、プラスとマイナスになってしまいます。地球でも北がN極、南がS極に分かれています。どちらの力が強いのでしょうか?どちらも同じ力です。

しかし、宇宙の視点から見れば、上も下も、光と闇も、別の意味になります。戦争にしても人類の進化の過程から見れば、一概に悪いとも良いとも言えません。紙をひねってくっつければ、表も裏も無くなります。もしかして、私達は便宜上分かりやすくするために、相対的なものを作って相争っているだけにすぎないのではないでしょうか?つまり、進化の過程で相対的な物が必要だったのです。これからの世界はその相対的な観点から抜け出して一歩前進をしないといけないのではないでしょうか?相対的なものを脱ぎ棄てる時期に入ったのです。目標の視点を地球の視点から、宇宙の視点に移動しないといけないのです。つまり、相対的な事はどうでも良い事になります。自分の魂を進化させる過程であったので、それはその時には自分や社会にとって、必要な事だったのです。

“達磨”=“通天”=“真理”。物質ではありません。これからの世界は物質をみる二つの目と霊眼の目と三つを開いて人生を生きる必要があるのでしょう……。

追伸、磁石のN極とS極を曲げてくっつければ磁石の力が無くなるそうです。更にみんなで丸い輪になって、手をつなげば心が一つになるそうです。おもしろいですね。<2014.1.1元旦>

36)「情」は心の青二才、低次元の想念、不幸から抜け出す事は、大変手間がとれます。

●人間は無数の色々の経験をして、常に意識つまり魂・心の内に隠れて居りますが、事に当たり霊信が行われ、現れて来るものであります。

心霊大家の様な顔をしながら、潜在意識とか、暗示とかの言葉を使って居りますが、この潜在意識とか暗示は、何を一体経験して知ったのでしょうか?ほんとうの心霊家なら、この言葉はかるがるしく使う事は出来ぬと思います。

端的に申しますなら、本人の魂が何時かかねてそれを経験し、その事を知って居るから事に当たり感じるのでありまして、その人の魂より外には知るものはない筈であります

●世の中のありとあらゆるものは変化するが、決して消滅はしないと言う事は心霊常識でありまして、人間も亦七年たてば肉体を構成している細胞の殆どは、新しい細胞に入れ変わってしまうと申します。にもかかわらず、その変わっている自分の肉体を指して、何時も変わらぬ自分の様に自覚せしめているのは何故でしょうか?それは、その肉体である物質を指向している自分本来の魂があるからであります。

分かり易く申しますなら、人間が肉体そのものだけのものでしたら、肉体の成分が新生するたび自分では無くなるはずでありますのに、常に変わらぬ自分だと思っている事は、肉体を動かし思わしめる不滅者たる霊魂が肉体の背後に控えているからであります。

魂とは種々の心の面を持つ集合体であって、どの面の心が一番肉体の背後に控えているかによってその人の持つ集合体であって、どの面の心が一番肉体に働きかけているかによってその人の持つ雰囲気が異なり、従って境遇が変わるものであります。例えば心が幸せを常にささやけば顔形明るく、また心が不足ばかり思えば陰気なシブクレ顔にさせます

魂とは実に巧妙な技術者であって、自分には高級背後霊が見守って下され、めったな事では不幸にならない、又病気はしない常に思っている人は、自然肉体を構成している細胞は生き生きとして、健康を維持出来ます。その反対に暇さえあれば病の事ばかり思えば、その想念通り細胞の成分は弱々しく並んで、病気ばかりする体質に変化するものであります。

この事は又病気の事ばかりで無く、一切の事柄に通じるものでありまして、人間の想念は良くも悪くも変化さす魔力を持っています。

病ある者、又は自己の立場を憂うる者よ!その情けを超え、その見を離れ、その縳テンをさり、その粘を解け、であります。

●霊の世界は実体であり、物質的利益はその映像でありまして、物質利益を先に求めるのは、宝の車を求めてその車の後に馬をつないで居るようなものであります。

そこで現世の幸せを求むる前には、出来るだけ自分に与えられた仕事を喜びを持って努力するならば、それがたとえすぐ物にならなくとも、その努力が足場になって必ず善き芽が吹き出る様になる、これが人間の世界であります。

●道をはずした生活をしている時は、心がイライラして心わびしく暗く、晴れやかなこころにはなれません。

人としての道を踏み、努力心に燃えている時は心楽しく生き甲斐を感じます

●利己的な野望は、一時富を作っても高級霊の喜ばれるもので無いから無現供給の源泉から断ち切られ、やがてその富は姿を消してしまいます。

人間智慧を捨て背後任せの無我になると、結局空と同じですから真空の所へは凡ての物が吸い寄せられます。

●有る人が笛吹くに妙を得る場合、その人の先祖に必ずと言っても良い位笛吹くに得意の人が視えるし、先祖に字の上手な人の有る場合、子孫に必ず字のうまい者があります。

心霊家は良き足跡を残し、次の世代の者に良き贈物と致しましょう。

●伸びる人は始終努力と反省をして行くが、詰まる人は気の付かぬ所で怠けているものです。

●正しいからとて和を乱せば、正しい事にはなりません。

●明るくやさしく素直、これが女の本分だと自覚したら、目上、同僚、目下から愛し愛されると言う事は、相手から良い念波を受ける事になるのですから、自然と幸せにならざるを得ない事になるのは当然であります。

●菩提心を因と為し、大非を根と為し、方便を究極と為せ。

●せっかくの良きチャンスなのに、尻込みして取り逃がしてはなりません。人生は場を切って出る人が勝を得るものでありまして、その立場そしてその事に誠を致す程度に対応して、指導霊はより力量のある霊とかわります。

●人はマガ神・マガ霊の祟りを受けるものでありまして、隠り世に至ると雖も永く現世の善悪心は消えなく、全く悪心が消え尽くさなければ、祖霊となる仲間入りは出来ません

●人はその日その日の気分に支配される、所謂お天気屋であってはなりません。その時その時の気分に振り廻される様な人間は気分の奴隷であって、自主的な人間とは申されません。

仕事が旨く進行している時は、嬉しそうに快活に振る舞っているが、ちょっと仕事が不振になるとあわてふためきます。しかしそれはやがて必ず移り変わる現象なのに、それにひっかかり、現象に振り回されて自ら深みに落ち込んで行き、沈めば沈む程ふさぎこみ、そこには名案も霊信も影をひそめて益々不幸に沈んで行くこんな人の多いのは悲しいことです。

先ずその不幸から目を離し、手を離しなさい。凡ての現象は必ず移り変わるもので、やがて夢の如く幻の如く消えて行く性質のものであります。その事柄の悪い面と四つに取っ組んでは、その悪い現象はなかなか影をひそめませんし、その上守護の霊は近寄れないので、不幸から抜け出す事は、大変手間がとれます。

 

転載者からの一言

私達はどうしても過去の想念に引きずられて生活をしているように思われます。不安、恐れ、怒り、うらみ、失敗等、低次元の想念を手離した方が良いと言われています。過去何千年間もの永い間、このネガティブな思考、想念に人間は呪われていたようです。三次元から四次元より上の次元の世界は、「情」が消えるといわれています。

「情」と「心」はどのように違うのでしょうか。心が青いと書いて「情」ですから、きっと心の青二才なのでしょうね。「情」が「心」よりも未熟ということです。情けを超えて、心を強く、成熟させることが、霊魂の目的でもあるように思われます。<2014.1.2

37)不服だらけの世の中だ!それを列挙したら大蔵経とその量を争う

●女性が鏡を見る事は単に自分の姿を見るだけでなく、自分がどんな風に人に見られるかを試す為だ」とアンリーは言っているが、これは徐霊の一つにもなります。

●人は自分を犠牲にしてもわが子を守り、幸福の道へと悲しみの目を向け、休む事無く心を砕き守り導きます

これと同様守護霊も亦、自分自身の分け御霊であるその魂の子を、幸福な生活にする必要な一切のものを与えようと、常に心を向けておられます。この御祖に心の焦点を合わすのが精神統一であります。

それでともすれば物質欲の虜にされ易いのが人間でありますので、ここで統一されている間は一切合切の自分を投げ出し、スッパダカの自分になって御祖との交流をはかる事によって、心の垢そして先祖から流れて来ている悪因の業を徐霊され、清々しく意気躍動して一切を受け入れ、そしてそれを善処する力を強めて皆様は帰られます。そして来られた時と帰られる時とは、その顔その雰囲気が別人の様に感じられるのは、あながち私のみでは無いと思います。

不服だらけの世の中だ!それを列挙したら大蔵経とその量を争うかも知れぬ

この霊は悟りと迷いが一軒の家の中で喧嘩しながら同居している様な人で、快侮の裏に何となく何かに縋スガりたい気色が見え、人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほの見ます。

こんな人には、「その心張りをはずし分別の錠前を開いて執着を取れ!」と言いたいのです。

この執着とは、くだらぬ己などかなぐり捨てスッパダカになって、心霊研究に飛び込めと言う事です。かくするなら幸せは眼前にありと思われます。

●生まれ出たいと思ってもいないものを、物質を必要条件の一つとするこの世へ生れ出たこの事実は、全く自分の意志に因るものではありません。

そこで生まれ出たこの事実には、他に何ものかの意識があずかっていなければならないと考えた時、「生きる者を支配する何ものかが有るに違いない」と誰しもここに考えが落ち着くものと思います。

それにしても、自分と思う自分のこの魂は、「いずこより来りいずこへ行かんとするや」と言う事が明らかにされない限り、心ある者は安心してこの世に住み、安らかにこの世を去って言う事は出来ない筈であります。

それ故人生に安らかな生涯をもたらせようとして、古来の宗教の多くが魂を問題として論じて来ているのも当然ではありますが、然しそこでも必ずしも魂が正しく理解されているとは申されません

ところがこの人生にとって最も大切な魂とは何であるかという問題が、世界的に明らかにされるよりも一足先に、物質の正体がアインシュタイン博士などの世界の科学者によって明らかにされた形になってまいりました。そしてその魂から遊離した物質によって、世界の人々がますます不安と恐怖におののかねばならない事となったのであります。

そこで今や世界の科学者たちは、この取り残された魂とは何かという問題を解明を、心ひそかに求めているのでありますが、残念ながら未だにそれを明らかにする事ができないのであります。それはつまり的外れの学問をしているからであります。

●神の啓示はひとつであります。然しそれを受け取る受信機の良し悪しでは、その声が素晴らしい音楽に聞こえたり、また声が歪んで濁音が入り、本物で無くなる場合もあります。

ここで受信機と言っているのは、予言者または宗教の教祖をさしますが、「我が宗教でなければ絶対に人は救われぬ」と言う人があったなら、それは邪教であります。

釈尊が生まれてから約二千年、キリストが出られてから約二千年しかたっていませんのに、人間はそれより幾十万年以前に、この地球上で神に生かされ進化して居ります。

神と言う言葉がいやなら、「大自然の偉大なる経綸」といっても良いかと思います。

心霊的に見ますと、先祖が信じていられた宗教はそのまま家の宗教とし、万一新しい宗教に改宗するなら、自分一代とすべきだと思います。それは先祖霊の中には改宗を好まぬ頑固な霊も居る事を知って居る必要があるからであります。

転載者からの一言

聖書や仏典の蔵書がこの世に山ほどあります。反対に、不安を仰ぐ蔵書も山ほど存在しています。私の書棚を見ても、老子や存在の意味の書かれている本もあれば、反対に、国家破綻、闇の権力、病気の本など、不安やストレスを煽るような本も多いです。今は、国家破綻や病気も、存在の意味も興味が失せてしまいました。だからといって、未来に希望や夢がなくなったのかと言えばそうではありません。現実を見る事の方が今は楽しいのです。現実には、過去も未来も含まれています。厚労省の会議録を読んでいると、過去から続いている問題、今の問題、これからどうしたらいいのか、いろんな方々の意見が交差しています。他の省や我が地区の会議録をネットで探しましたが、容易に読めません。厚労省は色々と問題があって、また、私達の生活に密着しているため。公開しているのでしょうか?在り難いシステムですね。他の省や地域の会議もネットで公開して欲しいものです。国民や市民は税金を払っているので、見る権利があると思うのですが。

人間は脳幹で心のバランスを取っているようです。それも非常にシンプルな信号を身体に送っているだけのようです。それは、快か不快の信号です。快か不快の信号だけなのです。更に包囲しているのが大脳辺縁系です、そこでは記憶、感情、意欲を司っています。その上を包んでいるのが大脳新皮質で、人間の発展的な思考(物を作る、情緒、高次感情)です。アロマ講習会で教えて頂きました。臭いは脳幹にストレートです。原始生物にとって餌を取るのに特に臭いが一番重要だったようです。だから、臭覚が一番先に発達したようです。臭いは病気を癒す効果もあります。最近では、認知症もアロマで治せるともいわれています。治るかどうかは疑問ですが、人間にとって快か不快は非常に大事なことなのです。不快な事をすれば病気になります。快であれば病気が治ります。簡単ですね。今の医学は不快な治療ばかりです。果たして根本的な病気を治せるのでしょうか?的外れですね……。
<2014.1.3> 

38)希望を持って打開策を練り背後霊に頼むならば、不思議と新たなより良い道が開けて来ます

●問題が今起こって来ても恐れるに足りません。それは今悪い花が咲いたと言う事は、突然に起こって来たものでは無く、在るべくして問題が表面に浮き上がって来たものに過ぎません。

大切な事はそれが起こって来ても、神の罰でも仏の咎でもありませんから、御安心なさい。それはやがて散り去る時があります

船を水に浮かべ入れた時、必ず船は左右に揺れますが、揺れる事その事は船が真っ直ぐになろうとしての揺れであります。万一その時驚いたり恐れわめくならば、在るべき様に置かれなくなります。

ひたすら心霊を信ずる者は、揺れが少ない様、有形無形に背後霊がお守り下さる事はたしかである事を信じましょう

●人として生まれている間には、順調な時ばかりではありません。障害もあれば行き詰まりもあります。

然し行き詰って居る事柄にとらわれていると、心の自由が無くなって光がさし込む間がありません。

もしも心に希望を持って打開策を練り背後霊に頼むならば、不思議と新たなより良い道が開けて来ます。

要は如何なる苦境に立っても、決して失望しない事です。

例えば今車が土に着いて動かなくなった時、不服だらけの世の中だ!それを列挙したら大蔵経とその量を争う時、その部分だけを心でじっと押さえてばかりいるならば、何時までも車は回りません。

そこからは手を離す事です。心でじっと暗い事柄だけを押さえず、早く車を回すことです。

●はたの目が光っていれば与えられた仕事をするが、人の目が光っていなければ怠ける人、ましてや与えられた仕事以外の事をすれば損をすると思う様な人が大変多い様で、役に立つ、任せておける人の少ないのは悲しいことです。

この様な人は、何時まで経っても魂の灰汁が取れないで洗練されないから、充実した生活が出来ないのが当然でありましょう。

仏教にある五導や六導にひっかかり、これだけ功徳を積んで世間の人気を博そうとか、天国に生まれる切符が欲しいのだと言う様な有相な生き方、即ち目に付く様な相スガタ・名のりを挙げなければ、何一つ善行をせぬと言う事ですね。

またこれを有量とも申しますが、有量とは数えたがる心即ちこういう事をしたと教えたがる心、こうしたからこうなりそうなものだとか、こう思いそうなものだと他人に教えてもらいたがる心、これでは高級霊の考えをはさむすきの無い淋しい生活です。

●高い境地の霊になればなる程筋道を正しく通すものでありまして、例えば人間が自分の子供が生まれた場合、勝手に他人の籍に入籍できませんし、また他人の家を訪れた場合、勝手に許し無く上がり込む事は出来ません。

霊界でも病人を治療する事や、不遇を幸せに導く場合でも、必ずその人の守護霊の許可を得て協力して頂き、始めて手を付けられます。

従って、相手の背後霊が拒絶される場合、その上の境地の優れた祖霊を探し、徐々に手を付けられる様で、この場合人によって遅れたり早かったり致しますのは当然かと思います。

よく聞く事ですが、「折角好い会社と思って務めましたが、一人底意地悪く自分に当たって務めづらく、遂にやめました」と言う相談を受けます。これは相手同志の低い随伴の霊が、“虫が好かぬ”と言う我が儘を本人同志の本来の魂が気が付かずに、低級霊の思いのままにさせているからであります。

学徒は世に1人でも虫の好かぬ人を持ってはならない。それだけ自分の向上が遅れる事になるし、虫の好かぬ人にも立派な守護霊がちゃんといられるその守護霊に失礼ではないでしょうか。

若しもどんな人にでも、自分から進んで親しくしようと思うなら、必ず仲良くなって行くものです。

●人間として生まれ出された以上、自分の先祖の善悪の業因の流れの中から外へ逃げ出す事は出来ないのでありまして、たまたまその流れの中にある悪行の種の縁にふれて発芽し今その苦難の花が咲いた事は、この悪花は消散すると言う前提の下に咲いているのであります。

然るに人は、この苦難の花が急に天からでも自分に降って来たかの様に慌てふためき、この苦難の花と四つに組んで放さず、そして怒り・憂い・悲しみの良くない念をまき散らします。

かく致します事によって、守護の霊といよいよ波長が合わなくなり、従って守ってもらえず、そればかりか更に新しい今以上の悪行の種を類魂の中に注ぐ事になり、何時まで経ってもその悪行から解脱する事は出来ません。

転載者からの一言

人間の脳は三つに分かれていて、中央の脳幹では、心の快、不快を。その上が大脳辺縁系で、記憶、感情、意欲を、更にその上は大脳新皮質で、人間の思考(物を作る、情緒、高次感情)、更にその上の脳機能は何が来るのでしょうか?私が考えるには、サイキック能力という霊能力なのではないのかなと思っています。今でも、この能力の持ち主がおられて、ほとんどの人がお金儲けにその能力を使われています。そして私達凡人の心を救うと言って、余計に私達の心を迷わせています。幼児が歩くのが早かった、遅かったとか、言葉を話すのが早かった遅かっただけの違いであって、そんなに自慢するほどの事では無いように思われます。みんなが自然にその能力を持つ事ができるようになると思われます。だから、守護霊が居られて、先祖の霊も居られて、常に私達を見守って下さっているのだと信じて、今の現代を精一杯生き抜いていれば、自然に、その能力が備わって来るのではないのかなと思われます。早くその能力を持とうとセミナー等にも私も行きましたが、お金が高いだけで、無駄に終わった様に思われます。今では毎日太陽礼拝をして、朝の澄んだ空気を腹いっぱい吸っていると、自然に閃きが出て来て、気持ちが落ち着き、寒くても、毎朝、空や太陽をながめています。飯山一郎さんが勧めている太陽凝視をやってみたら、太陽の眩しさが感じられなくなり、目の飛蚊症が少なくなってきました。気持ちの落ち込みも、ほとんどなくなり、物事のこだわりも少なくなり、夫との二人の暇な生活でも、毎日が充実しているように思われます。

眼の前の課題に精一杯取り組んで、怠けず、逃げず、ズルをしないで、

更に、あまり真面目にならずに、気楽に生きる様にしましょう。
<2014.1.4>

38)私等を導いて呉れるのは信です。背後霊を信じる事です

仏典の中に、布施持戒忍辱精進禅定智慧と言う言葉があります。

これを心霊的に申しますなら

布施とは貪欲を打ち破って他に憐れみを施す事でありまして、

持戒とは規則正しい生活の意味即ち道徳的な行為を申します。

忍辱とは耐え忍ぶ忍耐であります。

精進とは努め励む事で、全生命を打ち込んで努力する意味でありまして、禅定とは沈着心でありまして、

智慧とは聖地で、物事をありのままはっきり認識する事を申します。

そこで仏教では、「成仏を成し遂げるには布施である」と言い、一方では「いや智慧だ」と今尚論争している様ですが、

先祖並びに自分の悪行を消滅さす布施心であります

然し布施とは智慧とは二にして一でありまして、本物の慈悲即ち布施智慧眼が開いて来なければ出来ません

大悲は盲目的の愛で無い限り、必ず正しい批判と厳かな判断と誤り無い認識、即ち智慧によらねばなりません。

そこで智慧布施とは、一のものに対して、二つの見方だと思います。

●“権実並行”のとは臨機応変の活用手段のであり、実は一定不変の道理で、つまり手段ばかりではいかず、かと言って理ばかりでもいかず、理と手段とが良く事物に対して融通しあわなければ、人の指導は出来ません。

これは随縁真如又は不変信如と言い、又法華経では“方便門”または“実相門”と言っている様で二つある様に見えますが、実は一つで、例えば今上野へ行く、これはで、電車に乗って行く、これが方便です。

分かり易く申しますと、山寺の和尚が庭に来た鹿を棒でなぐった、これを見た弟子が「慈悲を説く和尚が何故鹿をなぐられたか」と詰問をしたら、和尚曰く、「人家近くなれなれしく鹿がくると、人間は必ず良くない仕打ちをするであろうから、それがふびんさに鹿が気安く近寄らぬ様にしたまでさ」と言ったとか、それは権と実が並び行じられた一例になります。

●吸う息吐く息ことごとく神の生命を呼吸して居り、食物もまたことごとく神からの恵みならざるものは何一つありません。それ故に私共は当然朝夕、神に感謝すべきであります。

よく「自分は誰の世話にもならぬ、今日になったのは自分の力だ」とうそぶく人を見る事がありますが、しかしこの人の来て居る着物・靴・住む家等、数えれば限りない程、皆人様の汗と脂の結晶した賜物であります。

それを思う時、自ずと物を粗末には出来ないし、何とかして自分にも出来る事をより良く人のお役に立たしたいと思う心がわいて来るものです。

私共は神仏の子として、皆もちつもたれつの人間であります。人間は誰一人孤独では無く神の子であり、そして霊界には今も厳然と先祖は生きて居られます。

●神仏の話を嫌う人に二つの型があります。その一つは無智にして迷信におちいる人、今一つは低級霊に憑依され悪らつな行為を敢えてしているので、神仏の罰がこわく煙たくて、その話を嫌がる人とがあります。

いずれにせよ神仏を嫌うとはおかしな話で、心霊的にみるならば森羅万象ことごとくが神仏の子ならざるは無く決して神仏は人間に罰をお当てになりません。

人生には色々の問題があり、それは山岳重畳の山道を縦走するようなものです。向こうの山には何があるか、又どんな木が生えているかは人間の知恵や感覚では見る事も知る事も出来ません

それと同じく人生では、明日にどんな難問が起きて来るかも分かりません。その時私等を導いて呉れるのはです。背後霊を信じる事です。このとはマカスという意味であります。

転載者からの一言

生と死の境界はないと言われています。物質の世界の視点では死があります。魂には死がありません。魂には時間もないようです。その代わりに変化があるようです。魂を進化させるという変化です。魂を進化させるために物質世界があるようです。だからこの世に生きる意味があるようです。ただ、物質で生きると言う事は、とても不自由です。衣食住が最低限必要です。衣食住以外で、この物質世界で大事なものがあるのでしょうか?

東北震災の時に、おじいちゃん、おばあちゃんが家から持参した物は財布やお金ではなかったそうです。位牌だったそうです。更に自分たちが住む訳でも無い、都会人から見れば全く無駄だと思われる、壊れた神社を住民同士が集合して、建て直しをされたと言われます。更に、今でも、行方不明の親族を探し続けているそうです。

更に、原発で土地を追い出された方々、家も土地もあるのに住めないという方々は、いずれ帰れる日を、今でも信じて生きています。

人間の思いもよらない震災は、昔からありました。その度に災害を乗り越えて人間は生きています。日本の国では略奪はあまりなかったようですが、果たして、これから大都会で同じような災害が起こったとしたら、どうなるのでしょうか?我が家には位牌はありません。家はありますが、一代きりの家です。引っ越してもきっと違和感はないと思います。

御主人を亡くされた一人暮らしのリンパのお客様が、80歳になったら、今の住んでいる家を売って、養老院に入ると言われています。息子が一人いますが、40年以上も留守で御主人の葬式に一度見えたが、全く当てにできないと言われていました。私はどう返事をしたらいいか迷いました。普通なら、一人息子さんと因りを戻すのがいいと思いましたが、壊れた親子関係を立て直すのは難しそうだったので、そうですね、80歳まで頑張って生きましょうと返事をしてしまいました。

結局、最終的には、自分の肉体の始末を、自分の魂が責任を持つ必要がある様に思われます。誰がしてくれるのかではなく、自分の魂が満足する方法であればどんな方法でもいいのではないでしょうか?肉体の自分の頭で考えるのには難しくて分かりません。背後霊を信じて、背後霊にマカスのが一番いいのかもしれませんネ。<2014.1.5>

 

40)何事についても積極的にスジを通す

●どんな小さい事でも緊張してやる人が大事を成し遂げる資格者でありまして、何事についても積極的にスジを通す人は、再び地上に生まれ変わる時でも、又子孫に入学運と職運が良くなるという、良い因縁をつくることになります。

●日本の音楽は間にあると言いますが、間がしっかりして居らぬと三味線、琴の本手、替手、合の手がお互いにチグハグになってもつれ、如何に良い曲でも聞きにくくなります。

間即ち調和は音楽ばかりで無く、家庭・社会・国家も同じ事が言われましょう。

●この協会に立たれて居る霊は、各々の類魂中の善業と本人を結びつかせ、低級霊を楽にその悪因から抜け出さす智慧と慈悲を兼ね備えて居られ、威あって猛からず一宗一派に偏しておられません。それらを超越した宗教、つまり心霊科学普及の為に働いて居られます。〈No.256

●着物の中に居れ込んだピンの様に、始終家族の者にチクチク刺す様な言葉を使って、どうでも良い事を「こうでなければいけない」「ここのところはこうで無ければならぬ」と言うのは、時代の違った世代の人には通じません。

そして、これでは家族の精神的空気が腐ってしまいます

●子は神の授かりもの、先祖の預かりものと、昔は懐妊いたしますと四ヶ月位たって嫁の里方から赤白の羽二重をしき台に載せ、婚家へ身内の者がお祝いに参ります。その帰りには必ず婚家の氏神へ安産の祈願詣でをしたものです。

生後百日位たちますと始めてお宮参り致しますが、その時神前でわざと子供を泣かしてその声を氏神様に開いて頂き氏子として始めて認めて頂いたものです。

無事七五三お祝いのお参りも仕舞い、さて結婚する段となりますと、先ず氏神様に報告の挨拶に詣で、結婚式は各家庭で挙げたものです。

結婚とは肉体の結びつきでは無く、男女陰陽の魂の結びであります。

そして又折角授かった胎児を、手がかかるから又は金がかかるからと、闇から闇へ人工堕胎する人の多いのは何という事でしょう。これは大罪の殺人を犯した事になります。

又近頃は結婚式など二人さえよければ金のかかる式など意味が無いから、その金で楽しい新婚旅行をと言う人も多いようですが、旅行は何時でも出来ます。神前の式は金をかけずとも出来ますので、必ず行うべきだと思います。

転載者からの一言

私は、自分に自信がないので、いつも緊張して働く方でした。自信たっぷりで働いている先輩や後輩を、私から見ると、まだまだ未熟で、危なっかしい仕事をしているな、と思っている人でも、自信たっぷりで働けるのです。どうしてその様に自分に自信を持つ事ができるのか、今でも不思議です。或る意味、仕方がない所もありますが、結局、性格なのでしょうか。自信がなかった人でも、自信を持ち始めると、自信が無かった頃の事など忘れたかのような態度を取り始め、先輩を見下します。その人の性格ですね、御先祖様からの因縁です。自分の性格を治すには、自覚と努力が要ります。

私は。上司から、貴方は経験も実力もあるのだから、もう少し、自信をもって、しっかりしなさいとよく言われていました。しかし、私の性格上、なかなか自信たっぷりで働くことができません。或る日、心の修業も兼ねて、50歳頃からヨガに行きはじめました。3年目頃から、心が強くなり、仕事に対する緊張が取れて来ました。そして5年目ごろ、おかしい事はおかしい、と言えるようになりました。しかし、それが却って仇になって、定年一年を前にして、退職するはめになってしまいました。むしろ、いつまでも自信の無い、目上に逆らわない、真面目に働く人間であったならば、60歳の定年まで働けていたのかなと振り返って思ってしまいます。

定年を目の前にして、退職してしまった事には未練はありませんが、急に仕事を止めたことで、夫や子供達に非常に迷惑をかける始末になってしまいました。しかし、自分ではスジを通したと思っています。今でもそのスジを通すために、実は戦っているのです。今、じっくりと考えてみても、おかしい事はおかしいし、許せない事はゆるせないのです。自分に自信はありませんが、神様や自然の偉大な力を信じる信念は強くあります。

いつから世の中がおかしくなったのでしょうか?個人情報保護法やヒヤリハッとが叫ばれる様になってからであるような気がします。みんなでチクリチクリと刺す様な雰囲気や言葉が、見え隠れするようになりました。更に、その頃から、引きこもりが増えてきたように思われます。つまり、世の中がギスギスとなってきました。突つきあいの世の中になってしまいました。そして、世の中が腐ってしまいました。腐った物は、元に戻せないのでしょうか?

今の状態では、元に戻らない様に思われます。世の中が良い方向に変わらないと、いけないように思われます。早くしないと、可愛そうな引きこもりがどんどん年齢を重ねてしまいます。これは誰の責任でしょうか?本人の責任でしょうか?親の責任でしょうか?本人の責任だとしたら、あまりにも可哀そうです。親の責任だとしても、性格が似たり寄ったりなので、解決するには困難があるように思われます。私だって、未熟な若い時期に、チクチク刺される職場で働いていたら、きっと、引きこもりになっていたのではないかと思われます。現在、引きこもりになっている若者をどうすれば良いのでしょうか?子供二人も引きこもりを抱えているリンパのお客様がいます。御両親の性格を私から見ると、第三者が入らない限り、解決できそうにないと思われます。第三者が後押しをする必要があるのです。厚労省の議事録を読んでいたら、文部省が動き始めていて、引きこもりになっている若者に資格を持たせるために学校に入れる案が出されていました。国にも責任があると思われます、しかし、もっと地域の自治体が動き始める必要があるように思われます。引きこもりになっている若者を家庭訪問して、サポートをするべきです。アドバイスだけでは、難しい様に思われます。

学校であれば、引きこもっている人でも、行きやすいのではないのでしょうか?社会で働くステップになると思われます。そして心が一つになるような勉強方法をするのです。成績を争う勉強であれば、元もこうもありません。日本人は昔からお祭りを大事にしてきました。東北震災でも、きずなが大事と言われて、お祭りを復活させています。学校でも文化祭や運動会をして、絆を深めさせています。私の周りの地域をみると、会社の運動会や盆踊りをしなくなった所が多いです。ボーリング場やスナック、ディスコで踊る場所も無くなってしまいました。学校の校庭でも、一般の方が入って遊べなくなってしまいました。子供や若い男女が自由に遊ぶ所が少なくなって来ました。心を一つにする場がどんどん少なくなってきて、代わりに、パチンコやカラオケなど、一人か少人数でしか遊べない場所がどんどん増えているように思われます。さらにカジノが日本に出来る予定だとも聞きます。どんどん絆と一つにする心を育てる場が失われていきます。認知症の方が外に出て、行くえ不明になる理由も、外の方が認知症にとって良い環境であるからだと思われます、介護だと言って、色々とスケジュールを立て、施設に閉じ込めているよりも、寒くても外に出て、輪になって、歌ったり、踊ったり、散歩したり、山登りをしたり、魚釣りをしたり、バーベキューをしたり、その方が認知症も引きこもりも、良くなるのではないのでしょうか?東北震災の方々の復古状態から、日本の行く末が見えてくると言われています、そのように思われます。

 

41)人間のこの世に生かされてあるからは、必ず何か人並優れた得意のものを持っていまして

●男は一生涯命をかける自分本来の仕事は、唯一つしかありません。では如何に心がけたら早くそれを自覚する事が出来るかと申しますと、それは自分の守護霊に対し常に素直で有る事であります。即ち類魂の計画通りを直観する事であります。即ち類魂の計画通りを直観する事が自然と出来るのでありまして、従って自分の使命に合った仕事を選べる事によって、その事に興味が沸き自然努力する事に喜びが感じられ、必ず成功致します。

人間のこの世に生かされてあるからは、必ず何か人並優れた得意のものを持っていまして、それをともうします。

尤もそれはその人その人の背後霊関係に因るものであって、その背後霊の御心に従う仕事をする人は、苦労も少なく必ず成功致します。その反対の道を行く時は苦労のみ多く成功はおぼつかなくなります。

将来の子供の職業は、当人に任すのが本来ですが、本人より親の感の方がしばしば当たる様ですので、適当な親の助言が必要と思います。

 

転載者からの一言

自分の使命は何か?を本物の霊能者に尋ねたことがあります。しかし、それは誰にも分かりませんとおっしゃって、教えて呉れませんでした。だから、今でも分かりません。しかし、今更、どうでも良くなりました。

私は、幼い頃から、自分で何になりたいかという夢や希望を思い浮かべる事が出来ませんでした。小学校では将来の夢を書かされましたが、みんながスチュワーデスと書いたので、スチュワーデスと書いた記憶があります。しかし、スチュワーデスという仕事がどんなものなのか、その時には分かりませんでした。いったい、私にできる仕事があるのだろうか、みんながいいと言うのがいいのだと思っていました。みんなが生き生きとして、未来の夢を語るのですが、どうもピンときませんでした。そこで、じっくりと考えました。私にはどんな才能があるのだろうか?考えても、考えても、分かりません。幼い頃の自分には自分の才能など思い浮かべる事ができませんでした。取り敢えず、母親も祖母も助産師なので、それが無難であろうと助産師を目標にしました。あまり勉強もせず、成績も良くなかったのですが、ここぞと言う時にはなぜか勉強に身がはいって、希望の学校に入学することができました。しかし、入学しても勉強に身が入らず、成績が悪かったです。それでもなんとか卒業ができました。しかし、就職してから約3年間、職業を間違えたかなと思って、毎日、毎日、悶々として暮らしていました。しかし、5年目頃から、やっと自分の仕事が板に付いてきました。一緒に就職した友達は、初めっから板についている感じで、うらやましかったです。結婚願望も特に無かったのですが、取り敢えず結婚できました。しかし、子供が生まれてから、気持ちが変わりました。責任感です。無事に成人まで育て上げられるだろうか、と言う責任感です。責任感が変に強くなってしまって、今、振り返って見ると、間違った子育てばかりしていたように思われます。結局、私の場合は責任感が強過ぎると、良くない方向に行くように思われます。奮闘すればするほど、嫌われてしまうのです。リラックスして、ボ―ッとしていた方が、周りから安心される様です。それが、最近、ようやく分かりました。

そこで、自分の使命なのですが、何だったのでしょうか?助産師だったのか、リンパマッサージなのか、はたまた、ネットのブログ書きなのか、取り敢えず、その時その時にやっていることが、自分の使命であるように思われます。自分で選んでいるようで、背後霊のお陰の御力もあるような感じを受けます。我が子達も、何の仕事になりたいか、自分で決められませんでした。そこで、親も一緒に考えて悩みました。ソロバンをやっていた子は数字が好きなので、そちらの学校に勧めました、他の子供は背が低いので、馬鹿にされないようにと保育士を選びました。親に似て根が真面目なので、頑張っています。

人並優れた得意なものは何なのでしょうか?それは毎日の積み重ねによって作り上げる様に思われます。私の場合は読書と音楽が好きでした。初恋の人が難しい本を読んでいたので、それを真似て、訳もわからない外国の小説を沢山読んでいました。だから訳も分からない会議録を読んで見ようと思ったのかも知れません。それからクラシック音楽も好きだったので、訳も分からないクラシック音楽をたくさん聞いていました。音楽を聞きながら、面白くもない小説を読んだり、面白くもない勉強をすると、あまり眠くならないで、はかどります。是非お勧めします。<2013.1.9>

40)私達は眼に見えない世界を中心に生きているのです。眼に見える世界だけで生きている訳ではないのです

●進歩とは取りも直さず叡智が備わる事でありまして、畢竟真理ヒッキョウシンリに対する正しい判断を意味するもので、又叡智は凡ての原動力であります。

人は自己の魂をどんな様に作り上げるか、つまり人生の苦楽に対して如何なる反射作用を起こすかは自由であります。不幸にして逢着して益々奮起するか、又は気力を失うかは全く自由なのであります。

今霊信された方は、年取った白髪の先哲者であります。先哲あるいは前哲者であります。先哲あるいは前哲の人とは、前世からある智徳持って更にこの世に働きかけて居られる、神と人との中継霊でありまして、顕幽両界に亙ワタり心霊の為に働いて居られます。

●こうこうと照る月が海上に見え、下に舟が三つ居られます。

月は高級霊、船は衆生で、一つは南へ一つは北へ、一つは停まっています。

南に行く舟は南に随シタガって来ると思い、北に行く舟は月は北に随って来ると思っているが、停まっている舟は月は移動しないと見ます。

高級霊は誰でもどんな人でも持っており具わっておりまして、月はあまねく照らすけれども、衆生の因縁によって高級霊を身近に感じている人と、低級霊にさえぎられて遠くにある人との不同が見られます。

引用者からの一言

霊信等の見えないものが見える眼、どんな眼なのでしょうか?どうすればそのような眼が得られるのでしょうか?霊能者と称している人、殆どの霊能者は波動の荒い、低い霊しか見えていないとも言われます。高級霊は絶対に姿を現さないそうです。その人の仁徳に応じて、その人の守護霊や指導霊を通じて、閃きで与えているようです。その閃は、ありとあらゆる方法で与えているようです。それをキャッチできるかできないか、その人がいかに自分に素直で、純粋な状態で、受け皿を用意して、叡智が必要だと切に願っていると受け取る事ができるようです。霊能者だけではなくても受け取る事ができるのです。この世は、見える物質の世の中だけから成り立って居ないのだと、実感出来れば、それが出来る様になるようです。

私も、度々、仕事や子育てで失敗したり、ぶつかってしまった時に、神様、助けてください、これ以上、ひどい事にならない様にお願い致します、と心の中で願ったり、つぶやいたり、神社に行ったり、太陽やお月さまや、雨や曇りの時には、雨や雲にも祈っていました。そうすることで、何となく心が軽くなるのです、そして大丈夫と言う声が聞こえて来るように思えるのです。大丈夫と思えるようになったら、もう恐いものなしです。周りの人がわめこうが騒ごうが、攻めようが、そんなことお構いなし、なるようにしかならないと開き直ってしまうのです。

だから、私たちは、眼に見える世界だけで生きている訳ではないのです。むしろ眼に見えない世界を中心に生きているのです。この現世だけで生きている訳ではないのです。あの世とも一緒に生きているのです。御先祖様とも一緒に生きているのです。私たちの眼で見える形で交流は出来ませんけれども、確かに第三の眼、又は全身で叡智を受け取る事が出来ると思います。受け取っただけでは中途半端です。その叡智を現世で活用しないと意味がありません。だから、自分の身体を常に健康にして、行動する事も大事であるように思われます。

雪が積もりましたね、夫と一緒に家の前の雪かきをして、大きな雪の山をつくったら、近所の子供たちが集まって来て、そこに穴を掘って鎌倉を作って遊んでいました。二度目の雪が又凄くて、更に大きな雪山を作りました。そうしたら今度はソリを持って来て、すべって遊んでいました。子供はそのように、直ぐにその場で閃いて行動しますね、楽しく遊んでいました。雪山を作った私達もうれしくなりました。だから、閃きや智慧を受け取って、行動すれば神様やあの世の御先祖様が喜んでくれると思われます。(2014.2.16)

 

 

43)神は悪人をも捨てないが、善人は猶更お捨てになりません。

●世間ではあんな憎まれ者の悪人が、大威張りで、したい放題の楽な生活をしているのに、彼の善人は不幸続きでとうとう死んだそうだが気の毒な事だ、と言う話をよく聞きます。

時に善人と悪人とが前後して夜道を行った時、善人は一足先に行った為、途中賊に逢って金を取られ大怪我をしたが、悪人は一歩遅れて危難を免れたとすれば、これは一体どうしたわけでしょうか?神も仏も無いのか、天道様も聞こえませぬと不思議に思われましょうが、善人だからとて助け、悪人だからとて捨てて顧みないのでは、神でも仏でもありません。

神は悪人をも捨てないが、善人は猶更お捨てになりません。

それは唯その者が守護の霊等と密接であるか否かによるものであって、夜道を先にいって難に逢った先程の善人は、神が先に行かせたのではなく、彼自身が先に歩き難に逢ったのであって、この善人現在は悪人では無いが、過去世の悪行が残っていて、はからずも人の先にたって遭難したのであります。又悪人が善人に遅れ難をのがれたのも過去世の善業の報いと言うものでありましょう。

およそ善悪禍副は、この世一つの事では無いのでありまして、現世に用いてそのまま善悪の応報を受ける場合も無論有りますが、大抵は遠い前世の果報による場合が多い様であります。

心霊家は大難は小難に、小難は無しになると申しますが、つまり前もって所謂何となく虫が知らせたのであって、これが良き背後霊からの霊信であります。この様な霊信がありますよう、常に心のチャンネルを守護の霊に合わせてスイッチを入れておく事です。

さすれば無限の智徳が、その時その時にふさわしい場面をブラウン管に写して呉れ、それは直感とかある時はヒントつまり霊感として受けられます。

これに従って素直に事を運ぶ時は、どんな困難も完全に克服出来る様になると思います。

 

引用者からの一言

大安の日に結婚式、引っ越しも大安に、大切な日は、吉日を選びます。どうでもいいのではないか、そんなことは迷信だと思っても、人間は弱い者です。それに従って行動してしまいます。大安であれば安心してしまいます。暦には宇宙の動きが顕わされています。宇宙の智慧の宝庫なのでしょうか? ついつい毎年買って、自分の運勢だけではなく、社会、政治、経済はどうなのだろうか?ほとんど当たって居る様に思われます。結構、厳しい事が書かれています。私の愛読書です。

直感って、何なのでしょうか?私は感が鈍い方です。私の友達は感が鋭い方です。私は鈍いので、失敗ばかりして、痛い目にあってばかりです。友達は感が働くので、嫌いな人がいると、避けて、無視しています。でも、それが却って損をしているのではないのかなとも思えてなりません。

私は感が鈍いので、意地悪をされていても、馬鹿にされて居ても、自分でそれに気付かないのです。友達に言われてから、あっそうか、意地悪をされていたのだ、馬鹿にされて居たのだと、後で気付く始末です。仕事でのミスのほとんどは私が独占しているのではないのかなと思うほど、たくさんミスをして、上司にしこたま怒られて、上の方にまで問題にされたりして、痛い目に逢って来ました。しかし、私は人を殺した訳ではないし、重篤な状態にさせた訳でもないし、ただ失敗しただけなのです。だから、時間が私の失敗を解決してくれました。時間は神様です。普通の失敗は、時間が忘れさせて呉れます。時間が解決して呉れます。

しかし、時間と共にだんだんと大きくなる問題があります。それは不祥事です。誤魔化しです、その時代の権力者がよくすることです。どんどん明らかにされて、問題になって来るのでしょうね。

30年以上も同じ仕事をして居ると、経験と言う智慧が付いてくれます。

失敗の経験が役に立ちます。どんな時に失敗しやすいのか、だれが失敗したのか、嘘をついているのか、隠しているのか、誤魔化しているのか、が分かるようになるのです。不思議です、感が鋭くなって来るのです。

私に意地悪をしたい方達、好意を持って呉れる方達、親って呉れる方達、その場だけのお付き合いの方達、なんとなく感でわかるようになって来ました。そうしたらまた、上司や医者に嫌われる様になってきました。

人間関係ほど難しい物はありません。馬鹿になっている方が気が楽だと悟りました。(2014.2.17)

44)神が宇宙を創造された際には、想念が一定の形に凝固させる力であります。

●神が宇宙を創造された際には、物質を作る前でありますから、物質資材など何一つ無い訳で、神はかくりみ霊であられますから、霊を素材としてそれを一定の形に変形させる力、即ち霊の波動であります。そしてそれは単なる物理的な波動でなく智的波動、つまり想念でありますネ。この場合霊は素材であり、想念が一定の形に凝固させる力であります。

例えば外科手術で胃の悪い所を取り除いても、又二度悪化して遂に死を招く場合もしばしば見られます。それはたとえ手術して肉体的には一時悪い箇所は無くなっても、胃を患うという先祖から流れて来ている想念を徐霊し浄め、本人も亦胃を悪くするという想念を変えない限り、二度胃は悪化致しましょう。

しかしその想念を徐霊し浄め変える事によっては、子孫の者にも胃を患い手術さす様な悪因霊は流さぬ事になります。〈№257

引用者からの一言

病気の90%以上は、その人のネガティブな心が作っているのだと言われています。心を改めれば、奇跡がおこる、例え末期の病気であっても、直ってしまうと場合もあると、巷で言われています。山登りで癌を克服した人、太陽を眺めて病気を治した人、温泉で静養して治した人、色々とあるようです。私は、それが不思議でした。その理由が判ったのは、安保徹先生の免疫革命でした。結局、細胞の一つ一つに意志(想念)があるのです。だから、想念が元気になれば病気が治る、想念に元気が無ければ病気になるのです。単純なのです。それでは、感染症はどうなるの?と思われますが、60兆個の細胞がチームワークを組んで、毎日、休まずに、感染症だけではなく、ありとあらゆる病気から、私達の身体を常に守ってくれているのです。私達の身体は頭脳よりも優秀なのです。何十億年もかけて、ここまで生きぬいてきた身体なのですから、病気と戦う智慧をたくさん身につけているのです。そのような素晴らしい身体を持っているにもかかわらず、浅はかな西洋医学の知恵を信じているが為に、私達の身体はどんどんと力を失って、病気の治らない身体にしてしまっているのです。

安保先生の文献を少し引用させて下さい

 

動物的感性は学習によって減弱するという特徴があります。頭の良い医師などから、生きる基本がぽっかりと抜け落ちて行くのは、こうした流れで起こっていることです。 

「思い込み」と「受け入れ」の過剰も病気をつくる

アマゾン流域で生活しているインディオの原住民は500人くらいの単位で集団をつくっているそうです。この中には指導的な人とそれに従って生きる人がいます。現代社会でも少し似たような所が残っています。都会では仕事をする集団に社長と社員がいます。地方にゆくと人口の単位までよく似ています。昔ながらの自然村ですと500人位の集落に村長がいます。

6つくらいの集落がさらに集まって3000人位になるとになるでしょう。

ヒトもサルも集団で生きる動物なので、ボスと構成員が出来るような必然性があります。集団をまとめるには相手に対して主張します。これが思い込みの始まりです。その思い込みの中には相手にとって受け入れ難いものもあるでしょう。「思い込み」過剰の発生です。構成員にとっては受け入れ問題があります。相手の主張を受け入れないと社会の中で生きていけなくなります。ここからは「受け入れ」過剰が発生します。

からだの無理も多くの病気をつくる原因になりますが、思い込み過剰や受け入れ過剰が病気をつくるのも人間の特徴になっています。協調性が良過ぎても問題になり、思い込みが強すぎても問題になります。そして、その人と相手側の両方に軋轢が発生します。

人類として進化したことによって困難が発生し、それが病気の原因になっていることを知りましょう。そして、人類進化の過程でいくつかの多様性が生まれて体質や性格の違いが生じ、それぞれの民族特有の問題も発生していることがわかります。

引用者からの一言

人類として進化する事は、健康を蝕ばむ事になるようですね、 500人位の小さなコミュニティーの生活の場が、人間にとって最適な環境のようですね。それよりも大きくても、小さくても、いけないようです。インディオの原住民の智慧ですネ。グローバルな世界の目標を掲げる事は、人類にとっての破滅、危険な事なのではないのでしょうか。(2014.2.18)

45)ぼけると言う事は家の事も国家の事も耳に居れたく無いという、いくじの無い消極的な人や、自分勝手の

●世間では肉体は丈夫でまだ七十にもならぬのに、老人ぼけして家中がこまっていますと言う人が多い様です。普通人が二百人位集まる処では年に十人死亡者が出るという統計となっていますが、この統一会は約六百人位が集まり、早いものでもう十五年経っていますが、その間事故や大怪我した人は皆無で、ただ老衰で死亡した人が片手で数える位しかありません。しかも長く病み苦しむ人の無いのが不思議な位で、その上大抵の人は自分の死を前もって悟り、自若として霊界へ誕生され、まっしぐらに向上の途につかれる様です。

従ってどなたも死に顔からは、何の暗い陰もみえませんし、中には「あんな美しい顔は生前は見た事が無い」と、去年お母様を亡くされた或る方は言って居られました。

さてそれでは人間本来ぼけると言う事は、この世へ魂の修業に来て居る事を忘れ、「自分はもう年取ったから、仕事などしないで気楽に遊んで居たい」と家の事も国家の事も耳に居れたく無いという、いくじの無い消極的な人や、自分勝手の頑固者に多い様で、人世のため働かぬ者つまり智慧を働かせ様と、しない人にあります。

こんな人の魂は、既に霊界入りをし始めるのに肉体は丈夫でまだ生きる力が充分ありますから、因縁ある低級霊に自分の肉体と言う宿を占領され、本来の自分は霞んでしまう、それが老人ぼけであります。

学徒はしっかりと大地に足を踏み締めて、人生のために積極的になり、寿命一杯は痛まずぼけず、守護の霊に導かれて力を尽くして働き続け、この仮の世を後に自若として霊界入りを致しましょう。

 

武田邦彦 (中部大学)

 

年金の完全理解と大改革(5) 甘い汁を吸った人はどうしたか?

http://takedanet.com/2014/02/post_4e7a.html

「自分が若いころ積み立てて、自分が老後に受け取る」ということだった。本当はそんなことは日本社会ではありえないのに、国民はそれを選択した。 

専門家に騙されたともいえるが、民主主義だから決めるのは国民だ。国民は最初から以下のような年金制度を選択したと言える。国民の責任である。 

1)「自分が貯めて自分がもらう」という方が良いような感じがして積み立て型年金を選んだ、
2)そうすると40年後には10分の1になっている(賃金ではベースアップを求めているのだから、インフレを望んでいて、年金はデフレを希望しているので、国民は自分自身の行動が矛盾している)、
3)年間20兆円ほどの年金の規模で、厚労省の幹部1000人が一人2億円をもらっても、合計で2000億円にしかならず、年金支給総額の1%(100分の1)にしかならないので、目立たない。天下り推奨のような制度だ、
4)貸付先は公的機関なので焦げ付くのは決まっている。
 

これらのことはすべて簡単なことなので、国民が理解できないということはない。だから、最初から「国民は欲が出て、損を承知で年金を始めた」ともいえるし、政府の方は「どうせ、国民は未来を考えていないから、積み立て型と言えば年金を開始できるだろう」と考えたと思う。

ここで数回引用した年金課長の談話は、当然のことを言っている。それを「本当の年金」にしなかったのは誰だったのだろうか? 

(平成26218日)

 <引用者からの一言>

「自分はもう年取ったから、仕事などしないで気楽に遊んで居たい」と家の事も国家の事も耳に居れたく無いという、いくじの無い消極的な人や、自分勝手の頑固者に多い様で、人世のため働かぬ者つまり智慧を働かせ様と、しない人にあります。

上記の考えをお持ちの方、ボケになる確率の高い人のようです。

我が夫もそうですが、私と同じ年齢のお友達でさえ、パソコンは私の人生には必要が無いときっぱりと言っています。さらに、パソコンの前にばかり坐っていると馬鹿になるよと注意をうけます。パソコンは検索ができればそれでいいのよ・・・。 ブログなど書いて何が楽しいの・・・。とよく言われています。私の友達は、ボランティア活動に出かけたり、スイミングやお絵描き教室などにいそしんでいます。私が書いているホームページやブログには興味がないようです。たまに眺めているようですが、字ばかり多すぎて読み気にもならないと言われてしまい、がっかりです。

人それぞれの生き方にとやかく言う訳ではありませんが、今の年寄りはパソコンの世界に入れないようですね。私も最初は色んな方と繋がる事に不安がありましたが、欲を出さなければ危険はないと自分を戒めて参加しています。

年金問題もそうですね、国民の欲が年金を破壊させたようです。本来ならば、年金は支え合いの精神なのです。国に積み立てて、40年後の老後に貰おうなんて、そんな事は土台、無理な話だったのです。

地震や津波、原発、更に雪の災害と、色んな災害が有る中で、支え合いの精神の暖かいニュースが飛び込んで来ます。反対に、コンビニの店主が閉めだしたとか、即座にインターネットの世界で流れてしまいます。近所でも、雪かきに外に出て来たのはお年寄りや奥様だけで、御主人や若い人は出て来なかったとか、色んなお話を聞くと面白いですね。そのような事で、否が応でも、眼を覚まされてくれるのでしょうか?

ボケや病気も、結局、欲がそうさせているのかもしれませんネ。自分の生きている世界に責任もって生きる事が大切な様な気がします。

そして、美しい顔で死ねるように、それが究極の生き方なのかもしれません。

46)与えられた任務には細心の注意を払い懸命に働くが、後は信頼して守護の霊に全面的に寄り掛かかって

●「心霊研究する様になって病も気にならなくなったし、財的にも恵まれる様になり、何だかこの頃は天地が開けた様な心で、毎日があり難く、楽しくなった」と言う人があります。

この様な人は心霊研究もイマダ師ですネ。何故ならば、その人は病気が治った時財的に恵まれている時だけ先祖があり難いので、この様な人は病にかかった時、また物が不如意になれば有難く無くなる人だと思います。

本当の心霊家は、病にかかっている時でも物が乏しい時でも、それ自体に心を悩ませる事無く、その中にある有難さを感じ取るのであります。

いわば紙の表面だけを見ていないで裏を知り、積極的に働きかけ、希望の彼岸に到達さす事を知っているのでありますが、イマダ師ははげやすく思う様に行かぬと、僅かの間に折角つかんだものを、放す事になるものであります。

●方位に就いて大変気にしておられる方の為に、今高級霊にお聞きしてみましょう。幽界では家相・方位・墓相・名前とかを研究して、深く障りを恐れている霊団のあるのはたしかです。

本来東西無ク何処ニ南北有リヤと出ました。巡礼の笠に、迷ガ故ニ三界城 悟ガ故ニ十万空と書いてあります。

“三界”とは仏教で過去・現在・未来をさしますが、さて地球はどっちを向いているのか、昔は地球は真平のものと思っていたが、今は丸くそして少し楕円形になって、それが自転しながら公転し、三百六十五日と四年目に一日ずつ閏をまぜてその間ぐるぐる廻ってどちらが東やら西やら、従ってこちらが南であちらが北と言う事は出来ません。

迷うが為に「我はこちら、お前はあちらでなくてはならぬ」とか、己じゃあお前じゃ、だまされはしまいか、やれ親の付けた名が悪い、家相がよくない、墓相が悪い、又移って来た方角が悪かったなど、ヤッサモッサと自分で自分を勝手に縄で苦しんでいる人があります。これではせっかくこの広い世間に生きながら、たかが五、六尺の体と言う狭い城の中に魂を閉じこめていると言う事になりはしませんか。これでは何時までたっても生死の輪廻から解脱する事が出来ない不自由な事であります。

「悟るが故に十万空」とは、大抵の御経の後句に「願わくば我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん事を」とありますが、己と言う“シコリ”が無くなれば他人と思う心も無い。どこにも心のひっかかりを持たなければ、東西・南北・四維どちらを向こうとも十万空で、ひっかかりの相手が無ければ無碍自在ムゲジザイ、伸び伸びと自分の力を発揮出来ます。

時に“親方日の丸”と言う言葉がはやっていますが、これは単に大物に任すという位の意味かと思います。

これを心霊的にみますと、誠に面白い言葉と思います。即ち与えられた任務には細心の注意を払い懸命に働くが、後は信頼して守護の霊に全面的に寄り掛かかっております。そうすれば必ず悪い様にはしないで、悪因縁は見通して自然解消して呉れ、幸せの方向へ導いて呉れる、何と楽しい生き甲斐の有る人生ではないでしょうか。

<引用者からの一言>

物事が旨く行っている時には、有頂天になり、旨く行かない時には馬鹿な自分を責めて、人生が真っ暗闇になる繰り返しの人生を送ってきたように思われます。旨く行かない時には、その原因は何だろうと考えるまでは良いのですが、ついつい、その原因を前世の行いの災いなのでは?とか、厄年だからとか、所詮、親の子、蛙の子は蛙、とびにはなれないとか、自分の欠点を直視しないで、他に原因を求めてしまいがちです。

私の厄年は40歳でした。雨、あられ、土砂降りの連続でした。よくもまあ、こんなに悪い事が続くものだ、人生にはこの様な時もあるものだなと思って、自分でも不思議でなりませんでした。ジタバタすればするほど、事が悪い方へ向かうのです。

結局、自分の欠点が招いていたのです。今まで生きて来た人生で、その自分の欠点が表に出て来なかっただけなのです。それがこの年になって、それを神様は許して呉れなかったのです。空を見上げました。そうしたら、空一面の雲が私をめがけて凄い怒りの顔に見えたのです。神様はすべてお見通しだったのです。ビックリして思わず顔を逸らして、ごめんなさいと頭を下げて恐る恐る顔を上げました。そうしたら先程の神様の顔が横を向いていたのです。また、ある日、同じ事の繰り返しだよと頭の奥から聞こえて来たのです。ソッカ―、同じ失敗を前世でも繰り返していたのだと悟りました。それから、私の欠点を捜しはじめました。そうしたら、出てくるは、出てくるは、欠点だらけなのです。よくもまあこんな私が今まで、仕事ができてきたものだと、あきれかえるばかりなのです。年相応の実力をつけなくてはいけない、今までの人生は甘い汁を吸わしてもらっていたのだ、これからはそうは行かない。

しかし、急に欠点を治す事はできません、だから、謙虚になることから始めました。そして人生修業をやりたくなりました。それがなかなか難しいのです。まず、私は字が下手なので、子供とお習字を習う事にしました。子供が止めても10年以上続きました。文章力が無いので、日記を付け始めました。運動が苦手なので、ヨガに通い始めました。それは6年続きました。今は合気道に挑戦しています。そんなこんなの人生を送る様になってから、人生の難題は苦にならなくなって来ました。と言いたいのですが、その度に、難題は難題です。それこそ、自分の今できる事、自分の頭で考えられることを精一杯やって、あとは野となれ山となれの心境になりました。苦しい事があっても、神様、よろしくお計らいくださいと、頼む事にしました。自分の頭で考えないのです、悩まないのです。成るようにしかならないのです。浅はかなこの私の頭で悩んでも、大して解決になりません。そう思うようになったら、気楽になった感じがします。でも、今でも、しょっちゅう失敗していますので、人間は失敗が付きものだと理解する事も大事です。失敗から学ぶことの方が多いからです。失敗を恐れず、挑戦をすれば、ボケないと思われます。<2014.2.22>
 

 

47)人間の想念は、良くも悪しくも自己の生活を変える魔力を持っています。

●動物園に飼育されて居る動物等は、外敵から守られ食の保証はついておりますが、どんなに野が恋しいでしょう。又野に居る獣は、一瞬と雖も外敵を気にし、やせる程食が見つからぬ。両方かなわぬが修業中の魂なのですね。

●何事をするにも、時をかせぎ事柄をなす事が必要であります。昔から三、二十一日と言って、神仏に祈願して二十一目に奇跡が起こると言う。どんなに腹が立っても、そのうち心が静まり、高い背後霊と直結し、正しい考えが浮かび、また先方も考え直す。鳥も又、二十一日目には必ず親鳥がからをつっつき、中からひな鳥がつっつく。こうして、一人前のひな鳥が誕生します。これを啐啄ソツタクの機と申します。

●世に神通力と言う言葉をつかいます。神通とか神通力とか、本当の言葉は、神境智証通で、これを神通とか神通力と言っています。この意味は困っている人あれば、またたく間にその困っている人の所へ現れ助けてやる。又地にもぐる事も羽根無くして自由に空中を飛ぶ事が出来る。神通はインドバラモンでも同じ様、神通と言う意味の言葉を使っています。心霊研究をしていますと、時間空間を超越して霊が先方に行き、病ある者を治しておられます。

●人間誰しも事にあたり、善悪の心が一家の中で喧嘩している様な者です。

体内に鬼と仏が相撲取り  軍配持ちはおのが心ぞ

●人間は誰でも幸福を求めて暮らして居ると思います。どうある事が幸せかと言う事になると、その人その人異なって居ると思います。或る人は物質的な満足、或る人は健康、又は名誉地位を得る事として居る人もありましょう。でありますから、具体的にこれが幸福であると決められません。只その人の欲望が充足出来て行く事であります。今聴こえました。幸福とは、人間の生命活動の進歩向上と発展伸長が達成されて行く過程に於いて、人々が味わう事のできる満足感だと言われました。即ち、人間の生命がより高度なより偉大な働きをし、そしてそれをより長く持続して行く様になって行く事は、生命全体の目的でありますから、それが出来て行く事は、生きて居る事の喜びであって、それに対する満足感こそが、何人にとっても幸福である事は当然の事であると思います。

●人は死と共に生前の性格が急変して聖者になるものでも無く、又個性が大霊の中に溶け込んでしまうものでもありません。我と思うこの魂は、永遠の修業の途を辿らなければなりません。この長い修業を思う時、人体を持っている間などは、丁度石と石をすり合わせて光りの出る間に過ぎません。

●何時も高度の啓示を受けられるよう、背後霊との間にスイッチを入れるべきです。

●人間の想念は、良くも悪しくも自己の生活を変える魔力を持っています。

〈№260

<引用者からの一言>

サラリーマンの生活は、動物園なのでしょうか?公務員や大企業の動物園は、頑丈な動物園であるのかもしれません。もし、動物園の主が、飼育して居る動物を養う事ができなくなってしまったら、動物園で育った動物はどうなるのでしょうか?急に外の生活に曝されてしまいます。でも、もしかしたら、動物園の中での生活の方が、敵が多くて悲惨な生活だったのではないのかなと感じる事もあります。毎日、毎日、クタクタになるまで働いて、同僚との会話も少なく、人間関係も冷たく、上司からはしこたま怒られて、給料の三分の一は税金で引かれてしまって、その残りの収入は我が子の学費で消えて無くなってしまって、長い老後の生活は年金で夫婦つつましく生活。動物園での生活の方が悲惨のようにも思われます。動物園の外で生きていくのも、どちらも悲惨な世の中なのではないのでしょうか?一握りの人間だけが甘い汁を吸って生活をしているようにも思われます。殆どの国民は動物園の外にいても、中にいても、奴隷です。お金の奴隷です。

定年退職をして、必死に生きる必要がなくなってしまった今は、むしろ、淋しい感じもありますが、人生とは一体、何なのだろうか、もしかして、今までの生活よりも、これからの生活の方が、今までの生活以上に悲惨な生活が待っているのではないのかなと感じる事もあります。その悲惨な生活とは、病気です。決して、死ぬまで、健康な生活ができる保証はありません。近所の高齢者の方をみても、仕事をしていた若い頃の方が生き生きとしていたなと感じます。今では糖尿病に患っていたり、ある日突然脳卒中で倒れて、救急車で入院したり、腰が痛い、膝が痛い、あっちこっちの故障で嘆いている方を多く目にします。よぼよぼした、御老体の方に、お目にかかると、なんと哀れに見えてしまいます。娘や息子が離婚して出戻りしているとか、老体を鞭打って孫の面倒を見るはめになったり、更に、年老いた御両親と同居で、その面倒やら、その生活も大変そうだなと思うし、かと言って我が家の夫だって私だって、いつどうなるのか分かりません。安心できる生活は、この世に生きている限りは、永遠に訪れないのではないのでしょうか、あとは神仏頼みしかないのではないのでしょうか、神仏は頼りになるのでしょうか?必ずしも高級霊と繋がるとも限りません。高級霊と低級霊の見極めはどうすればよいのでしょうか?三日祈願しても高級霊が現れて呉れなければ、二十一日まで待って、それでも顕れて呉れなければ、3年待って、それでも顕れて呉れなければ、次は8年とも言われます、その8年間を待って、それでも顕れてくれなければ、諦めるしかありません。諦めることによって、心が安心するのかもしれません。期待している限りは、諦める事ができません。あの世に行ったら、この世に居た方が楽だったと言うのかもしれません。結局、三日後も、二十一日後も3年後も高級霊が現れるのを期待しても意味が無いように思われます。それよりも、今できる事を、一生懸命に頑張って、あとは野となれ山となれ、三日後に顕れるのか、二十一日後に顕れるのか、3年後なのか、八年後なのか、慌てないで、ジタバタしないで、くよくよしないで、結果を神様にお任せしますと祈願していた方が、高級霊と結びつく、楽な人生であるようにも思われます。今の生活を精一杯生きること、それで良い、あとはくよくよと考えない、そういう結論に辿りつきました。
<2014.3.3> 

48)成るべく自分が無くならなければいけません。

心霊家は、魂の境涯を神界・霊界・幽界の三つに仮に分け、そして又はその界ごとに十段層に分けたり、又十二段に分けたり、又、冥府をおいて見たりして説いています。仏教では人間における類型を十界に分けて説いています。十界とは、人間存在のもろもろの類型でありまして、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十の世界で、地獄は人間存在の最悪の状態、仏はその反対の最善の状態であります。その中には水に住む者、空に住む者とに分けて考えられて居る様です。

これ等は古代の人々の素朴で単純な自然界を示すものであります。近代では自然界を動物、鉱物と分けたり、動物界を哺乳動物や、昆虫、魚類などに分けてます。古代の人はこれらを自分と同じ心を持つ命ある生き物と考えたばかりでなく、海や川の浪や空の雲や風の様なものを、生命ある生き物と感じた事は、歌などからよく見る事が出来ます。人間の智慧は限りなく成長発展して行きますが、人間としての心の有り方暮らし方がおき忘れられて居る事を、霊界では心配して居られます。    <№.261

●昔、道元禅師が支那から帰られた時に、支那に行って何を学んで来たかとこう人が尋ねたら、自分は柔軟心を得た、と言われた事がありますが、この柔らかいとか固いとか言うのは我が心の全体を挙げての働きから言うのでありまして、この柔らかいと言うのは、所謂、受動性の型、心霊の極致と言ってもよいので、柔で無ければ物をいれようとしても入らない。また、固い物をその中に蔵して居ると我が頑張る。そんなに頑張ってしまうと、内外から来るものに対してすぐ反発してしまいます。成るべく自分が無くならなければいけません。

自分と言うものは大いにはっきりしないものだ、と言われるかも知れませんが、何だかそこに頑張るものがあると喧嘩してしまいます。柔軟な心になると、入ったものをすっと包んでしまいます。周囲に起こって来た好ましくない事柄を柔らかく受け、自分の胃袋へ入れ消化して、自分の栄養にする事です。

●万物は悉く流転するものであります。

この世にある物はおよそ悉く流れ転じ、移り変わり行くのでありまして、どの様な物でも不変性、常住性、固定性はありません。同じ所に同じ状態で続いて行くものは何一つも無いという事が真理です。真理は何人も拒む事は出来ません。万物は相互依存でありまして、悉く、相寄り、相関連を持たなければ存在する事は出来ません。でありますから独立性、孤立性の人は自分で世の中を狭く、住みにくくするものであります。万物は価値であります。この世にあらゆるものは凡て、何等かの意味と価値とを持っています。何人とも仲良くせよ、まして親戚においてや

●仏教では魂とか、類魂とか言う言葉は使わぬが、識と言って居るのは、一寸見て認識した最初の一念が識でアラヤ意識とは類魂をさして居る様です。

●あなたの母親がしっかりとあなたを抱きしめて居られる様に背後霊が今具体的にあなたの見て居られると感じなさい。抽象的な観念だけでなく、思えば思わるる法則をしっかり自覚しましょう。

●人は、肉体と魂の二つが持ちつ持たれつ因縁和合して生きているのでありまして、それが不和合して肉体の霊光が薄れて来た時、病におかされる微妙な生き物であります。

●学んで得た智恵だと智恵の邪魔になりがちだが、本質的にそなわるその時、その場に対応して導く内なる高級霊のささやきを受ける心霊家は、智恵負けせぬと同時に容ぼうが何となく和やかになって来ます。

●心貧しくなれば貧しい生涯を送った帰幽霊と波長が合い益々貧しくなる。豊かな心を持つ時は物心共に豊かに暮らした先祖霊と波長が合うので、益々幸せにならざるを得ないのであります<№.262

<引用者からの一言>

地獄、餓鬼、畜生、まではなんとなく理解できるのですが、修羅は最近、理解できるようになりました。たぶん、修業の鬼のことなのではないのかなと思っています。母親が子育てに熱心になり過ぎる余りに、子供の自由を奪ってしまっている姿、健康の事ばかり考えている病人、自分の趣味に自由を奪われている多忙な方、つまり、自分で良いと思い込んで、それに頑張る余りに、それに縛られて自由を奪われている方です。道元禅師が支那から帰られて、柔軟心を得たということがそれなのではないのかなと思われます。次に人間なのですが、それが良く分からなかったのですが、このブログでも一時期書いたのですがクレームが来たので消してしまいましたが、それは「動物」と「人」の間が人間であると言う考えです。動物の心が強い方は、お金等の物質の欲の強い方です。実験結果やデータ―だけしか信じようとしない科学者等、見える物だけを信じる姿が動物の心なのではないのかなと思われます。しかし、世の中には心が大事であると言っている方々も多いです。お金や物質よりも心の方が大事であると思い込んでいる方です。宗教やスピリチャル系の方に多いように思われますが、しかし、我々はまだまだ人間なのです。生きていくためには、どちらも必要なのです。しかし、日本人の文化にはスピリチャルを大事する文化が多いように思われます。

天上、声聞、縁覚、菩薩は、まだまだ、わかりません。きっと、肉体から離れない限り、理解するのは無理なのではないのでしょうか。

政治家が毒まんじゅうと言っている時期がありました。その意味が良く分からなかったのですが、仕事をしていてよくわかりました。つまり、世の中には自分にとって益にならない、かえって害になる方がいるのです。そのような方とは、できるだけ離れて生活をしないと、痛い目に逢います。我慢して働いても良い事ありません。痛い目に逢えばしばらく傷が疼きます。少しは回復をしても、また付き合えば、以前よりも傷が深まります。そう思ったら、自分で期限を決めてできるだけ離れた方が良いように思われます。自分の胃袋へ入れ消化して、自分の栄養にする事、何人とも仲良くせよ、まして親戚においてや。この言葉は今の私の力量では無理です。

今の世の中は、至る所に、毒まんじゅうが蒔かれています。そして、知らない内に病気になったり、殺されるに繋がる様に思われます。なんとひどい世の中なのでしょうか…。天上界の人々が心配されているのではないのでしょうか、聞こえなくても、耳を傾けると聴こえて来るようにも思われます。それが、天上、声聞、縁覚、として感じて、人々が菩薩にならない限り、平和が訪れない様に思われます。平和な世の中になるのは、まだまだ無理のようですね。<2014.3.4>

49)直観とは、五官を経由する事なく、思惟作用を加える事なく、端的に対象の観念を得る知的作用を言う

●心霊をはなれた人生などあろうはずが無いのに、はなして考えるから分からなくなる。悪いやつがいばってはでな生活をしているかと思うと、善人が運が悪い、とうとう破産しそうなとネ。

●汝の名は女なり。女としての統一、男としての統一があります。女はどこまでも無邪気、静、女らしく、男はシャンと一本筋金が通った姿勢でいたしましょう。

●心霊研究をしてますと、直感力が正確に働く様になります。この直感こそ、心霊研究に於ける重要な対象であります。直観とは、五官を経由する事なく、別段推理の思惟シイ作用を加える事なくして、端的に対象の観念を得る知的作用を言うのであります。いわゆる霊視・霊聴・思念伝達・予知・心霊診断等の霊感は即ち直感であります。

この直感の根本的特徴は、その無意識性にあるのでありまして、それはその直感者が知っているのはその直感の内容だけであって、観念がいかにして得られたかについては何もしっていない事を意味するのであります。

この直感の根本的特徴は、その無意識性にあるのでありまして、それはその直感者が知っているのはその直感の内容だけであって、観念がいかにして得られたかについては何も知っていない事を意味するのであります。又その直感内容が若し高い学的知識をもつのでなければ得る事が出来ない様な高度の知的成果を含むものであっても、直感者にはその知識を必要としないのであります。

例えば有る婦人が、医師に子宮癌と診断されても、直感者にはそれは子宮内の汚物であるとか、また胃腸が悪いと診断されても、直感者には医学の知識がなくとも盲腸から来ている障害だと直感出来るのであります。

ではいったい誰が直感さすのかと言う事になりますと、それはこの協会の心霊普及のため働かれる心霊治療集団の高度の霊からの霊信に外ならないのであります。

●醴レイ水の交わり

醴は甘酒でありまして、一宿にして成る者なり、濃厚なれども飽きやすし。君子の交わりは水の如く淡けれども、久しく変わる事なきに喩えます。即ち、近所隣り余り女同士親しく、一日中行き来して居りますと必ず何か不足が出て、ついに争う事にもなりがちなものです。

相手の立場になって一つの垣根おかさず、親切に交わる事が長く親しくおつき合い出来る様です。人間十善の者はこの世に居りません。なくて七くせ、あって四十八くせとか申します。心すべきだと思います。

●現代人の誰も彼も皆、社会の要求する一定の規格に合格する様に行動して居る。型破りでは生活出来ぬ仕組になって居る。昔も破格調の行動すれば、たちまち生活困難を伴わざるを得ない枠にはまった人間の心の持ち方であります。

●「見れば現れる」と言う法則があります。「心ここに有らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず」と言う言葉に対応する言葉であります。

そこに何が有りましても、心がそれを感受する準備が出来なかったら、有ると感じられないのです。

又高級霊がおわしても、それに波長を合わせなければ、それを受けられません。心霊学徒よ!常に背後霊のおわす事を、忘れ給うな。

●言霊とは、進化の過程を辿る心的統一体であると言う事は、皆様良く御承知の事と思います。

生物が進化するものである事は、多くの実証に支えられて、進化論として今日では、一般的に、認められて居る様でありますが、それには、霊魂の進化は含まれていない、つまり見落とされて居るのでありまして、進化論における進化は生物が外界の影響と、肉体の発展とによって簡単なものから複雑なものに、同種から異種に進められて行く事を言うのであります。それは、生物の生命現象なのでありますから、霊魂の対象にはされて居ないのであります。

霊魂の進化とは、霊魂の内容そのもの、すなわち心的内容の進化を言うのであります。そして、霊魂についてかねがね話しました様に、霊魂の進化とは、智・情・意における進化でなければなりません。すなわち、霊魂の進化とは知性の深化拡大、意念の強化、惰性の純化によって、心的内容の調和が高まりつつ、聖化に至る過程を言うのであります。

<引用者からの一言>

直感は根拠がないので、頭によぎっても、打ち消してしまう事が多いように思われます。良くても悪くても、直感でアイデアを思い付いたら、その根拠を自然に捜しています。そして、根拠が無いと思えば、それは意味が無いと判断して自分の心から、そのアイデアを消してしまいます。

しかし、定年して、毎日が暇なので、毎朝、屋上で太陽礼拝をしながら瞑想をしていると、何故、そんな直感が頭によぎったのだろうか?どうしてそんな考えをしたのだろうか?どうしてそんな事を思いついたのだろうか、と、あたまによぎって来て、深く、深くその理由を考えるようになりました。そうしたら、その思いつきに思い当たる節がどんどん出て来るようになりました。自分でもビックリしてしまいます。

そうだ、幼い頃に自分が考えていたことだったと気付いたり、自分が自分の心に約束をしていたことだったり、亡くなった祖母達の会話だったり、悲しみや、悔しかった出来事であれば、涙が出て来たり、すっかり、忘れていた自分の思い出が多いのです。さらに、今の自分のいたらなさに気付き、深く反省して、心を入れ替える努力をするようになったりします。

瞑想は過去の自分との対話だったのですね。そして直感は現世の経験だけでなく、前世の自分の魂の経験も関わっているのではないかと思われるようになりました。決して他人の霊魂のアイデアを頂いているとは思われません。自分の霊魂からだけしか思いつきが与えられないように思われます。高級霊や背後霊や指導霊は誰なのでしょうか?それは自分の霊魂だと思います。他人の霊魂では決してないと思われます。自分の霊魂なのです。自分の霊魂は、失われたムーやアトランシス時代に生まれた時もあるし、シュメールやメソポタミア時代にも生まれた事も有るかもしれないし、平安時代や江戸時代に生まれた時も有るかもしれないし、その時代その時代の自分の肉体の魂が背後霊や指導霊になっているように思われます。高級霊はその中でも一番優れている霊魂なのではないのでしょうか?その自分の霊魂が、今、こうして生きている私の肉体の霊魂に気づきを与えて呉れている様に思われます。私はそう思います。だから、悪い時代に生まれたとしても、悪い事をしない様に気を付けた方がよいと思います。悪い時代に生まれてしまって、悪い事をしてしまって死んだら悪い背後霊が付きやすいように思われます。自分の魂を悪い事に染まらない様に気を付けないといけないように思われます。根拠は有りませんが…。
<2014.3.7>

50)病をおそれ、死をおそれる人はさながら、犬は猛り追いかけ、ついにかみつくのであります。霊談集から

●老子の打坐、儒者の静坐、神道の静心、西洋の瞑想、仏教の坐禅も皆これ心霊統一中に含まれて居る。彼の道元禅師が、焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐せよ、つまり無の境地になって、只管坐れと言われてますが、心霊研究してますと、その意味が誠に良く分かるのであります。即ち、ここで高級霊にかこまれ統一される事は、顕幽両界中の高級霊と直結するを、行じて居るのだと言う事は、皆様良く御承知と思います。その高級霊はすでに、線香の功徳も、礼拝の功徳も、念仏の功徳も、修懺、即ち懺悔するの法も、看経の功徳も、とうの昔に含蓄して居られるのですから、その高級霊と直結する事は、即ち、労せずして、その努力精心の徳を、頂けるわけです。従ってこの世を楽に過ごせるわけです。

人その運命の黒点に逢わば、先分別智つまり人間知を坐断し、善悪一切を御祖に一任し、暫く時を稼ぐ事によって、無作の妙用を得て、希望の彼岸に到達する事が出来ます。<№.263

●今日、知識層において、心霊研究者が日に次多くなって来たということは、よろこばしいことであります。多くの人は何時かこの世を去る死期に直面しなければならぬ基盤の上に坐して居る。本当に安心など得られる道理がない。この死ぬ基盤から死なぬ基盤に心が移動せぬ限り、いくら倫理・道徳・精進せよと聞かされても、おそらく不安は解消しないのであります。

所が心霊研究家は人間死んでも死なぬ。物質肉体は老衰しても消滅しても、今迄私と思う私の心、つまり魂は死なぬ、死とは次なる先祖等の居らるる次元の世界に移住し、次なる輝かしい働きが待って居ると、積極的な若々しい気分で居られるから明るく寿命一杯、老人になる迄世のため働く元気を失わないのであります。病をおそれ、死をおそれる人はさながら、犬の吠ゆる恐れ逃げあわてる時ますます犬は猛り追いかけ、ついにかみつくのであります。この理屈は死を恐れ、病を恐れ、今の立場がくずれるのではないかの迷いから来るものでありましょう。

●心霊家は、悪霊、邪霊の低級霊の玩具とならぬ様努力すべきであります。今もなお、徐霊についての迷信は、依然として横行し、世に害悪を流し、正しい心霊普及を妨げて居る様であります。併しそれは、徐霊についての明確なる知識を欠く事に由来するのであります。憑依とは、或る悪魂が、その意識の焦点を他の霊魂の上におくのであります。

憑依霊には、善悪共にあり、他界の広義の幽界、或いは霊界に生活しつつある霊魂ばかりでなく、地上生活して居る霊魂、即ち生霊のある事は、世間で昔から言われて居る通りであります。そしてその憑依霊には、人間その他、所謂動物霊、自然霊、多種多様の霊魂があります。昔から言われて居る、生きて居る狐狸などの動物にだまされる場合があるとすれば、それは、地上の動物の生霊が、人間に憑依したのであります。

兎も角、生霊から善き感謝の念を送られる場合は、受けた人はますます善い事が起こり、幸せになって行き、その反対に、生霊から恨み、嫉妬を受ける人の場合は、ますます不幸の途をたどる事になります。

<引用者からの一言>

自分一人で、坐って、静かにして、ジッとして、瞑想の境地に至るのはなかなか難しいです。私はじっと坐っていると、直ぐに眠ってしまいます。掃除機をガーガーとかけている時にふっと無になっていたり、台所に立って、鍋をじっと眺めていたら無になっていたり、立ったり、坐ったり、太陽礼拝をしていると無になっていることが多いです。お客様のお身体のリンパマッサージをしている時にも、同じ事を繰りかえしていて、無になって、困る事もよくあります。パソコンの立ち上がりが悪くて、ボーっとして無になっているときもあります。

自分で、無になったと思う瞬間はどのような時かと言うと、身体が眠っていても頭が冴えている時もあるし、身体が起きていて、頭が眠っている時もあるし、自分の頭が起きていて、身体が眠っている時もあるし、頭が冴えているのに、自分の肉体が眠っていると自覚できるときもあるし、これはボケとも違うと思います。肉体の脳と魂の脳が別々に動いているようにも思われます。幽体離脱はしたことが無いのですが、魂の脳と肉体の脳が離れてしまうのではないのでしょうか。

ソクラテスは歩きながら、考え事をしていたと聞きます。私も歩いていると色んな事が頭に浮かんで来ます。歩く事は脳を活性化させます。山登りは歩きます。山登りをしたあとは、身体が疲れていても、頭がスッキリします。生きる活力が沸いてきます。肉体が疲れていても心が活性化します。口を動かしている時も、頭が冴えます。ガムを噛んだり、リンゴやお煎餅、漬物をポリポリとかじったり、お茶、コーヒーも飲みながら、口を動かしたり、歌を歌って声を出したり、身体を動かす事で、脳が活性化して、色んな事が頭に閃きとして沸いてきます。集中してくると時間が経っているのも忘れています。更に身体が疲れてきていても、頭だけがどんどん冴えてしまいます。そのときに無理をしてしまうと、肉体に病気を作るのではないかと思われます。自分で自分の肉体をコントロールしないと、身体を休ませてあげないと病気になってしまうのではないのかなと思われます。

肉体が弱くなると脳が活性化するそうです。修業で滝に打たれたり、冷たい水をかぶったり、何日も食事をしないで瞑想したり等の修業は肉体を弱らせて精神を活性化するためでもあるようです。交通事故にあって、幽体離脱した体験者が現実にいます。肉体が弱くなる幽体離脱をする場合があるようです。植物人間は身体が死んでいても脳の深い所は目覚めているようです。手術中に全身麻酔で眠っていた患者さんが、お医者さんや看護師さんのお話が全部聞こえていたとおっしゃられる方もいます。脳死は果たして死んでいるのでしょうか?腸の死が本当の死だとおっしゃる方もいます。だから、武士は切腹をしたのだとも。

原始動物は皮膚が先に作られて、進化の発達段階で口や腸、肛門が作られて、脳が一番最後に作られたので、皮膚や腸が生きている限り、死んでいないと、腸が生きている限り、脳が修復されることもあり得るとも聞きます。リンパマッサージは皮膚のセンサーを刺激するので、腸や脳にも良い刺激になるようです。

とりとめなくなりましたが、じっと静かに坐っている瞑想は難しいです。ソクラテスの様に歩くのが健康的だと思われます。手を大きく降って、足を高く上げて、やや前かがみで歩く、足の裏の前1/3湧腺に重心を置くと腰が痛くならない歩き方のようです。リュックサックを背負った格好になります。リュックサックを背負って、野山をどんどん歩きましょう。<2014.3.8>

51)朝から晩まで、煩悩の流れの中に流転、この心は何の役にも立ちません。物事を破るという原理を持つ

●悟った、知って居るなどと言うものに、えてして心霊を悟らぬ人が多く、何でもかんでも、秤ハカリの無駄目の星の所へ、分銅をやって居る人が居ります。そんなのは少しでも融通のきかぬ死に心霊家であって、火事でもあったら、よう逃げないで、焼きくずれてしまう底の人間でありましょう。本当の心霊家なら、その水平を見る為に、定盤星を省みて、平衡を取る事を忘れ無いでしょうが、常に時に随シタガい、場所に随い、人に随い、分銅を自由自在の所へおいて、よろしく三要因に相対せしめる事でありましょう。

●老人立って曰く、百尺竿頭一歩進めて己というものを捨て切って世に飛び出したら、もう恐れるものとて無くなる。処々、真々、塵々チリヂリ、ことごとくこの本来の我、何処へ行っても何になっても、つまり六道四生、何処へ向かって去っても、遊戯三昧、しこりの取れた無碍ムゲ酒脱、障りが無くなり、人となりの安らかな生活が出来ます。先ず色眼鏡はずす事です。

●心霊家は水の如くすみずみ迄心が行きとどく人でなければなりません。何をさせても人以上にやりぬく人でなければ、このけわしい世間を乗り越えられません。

●凡そ、人生、生活にとって、何が基盤になるかと、端的に言ったら、それは人とは何ぞやの、自覚でありましょう。自覚の目、智恵の目が開いていないから、いろいろの禍ワザワイ、病気等が起こるのであります。

統一中に、その眠っている眼を、開かせ、奥にある智恵を引き出させ、かく、度重なる内、両眼の上に今一つ霊的の目がつきます。それは、守護の霊の目、つまり目が、三つになるわけであります。かくなれば顕幽両界、見通しになり、過去、現在、未来を通じ、最も良き壺所にはまる、すきのない仕事が出来ます。

●椅子にドッカと社長タイプに腰をおろす人に発言さすなとは、西洋の諺であります。お茶席に坐る時も、足と腰の間に紙一重をおき、すぐ次なる用のできる状態にして居るのもこのへんを物語るものでありましょう。

●昔は肝キモより一切の心が浮かび、丹田に伝達されると思って居た様で、昔も今も、あの人は肝が据わっているとか、腹ができていると言うけれど、頭が坐っているとは申しません。

肝が坐るとは、高級霊のつながりある人を申します。

朝から晩まで、煩悩の流れの中に流転していては、次の世が案じられます。それは、人間の持つ一つの癖として、あせり憂うる。然し、この心は何の役にも立ちません。それどころか、物事を破るという原理を持つもので、自分の地位を誰かに蹴落とされはせぬか、自分の商売がだんだん衰退するのではなかろうか、熱が出た、肺炎になりはせぬか、胃腸が痛む、ガンになるのではなかろうか。いまだ現前せぬ内から心配する。これに乗じて、同じ流れのその病で死んだ、言わば死んでもなおそう思って悩んでいる浄化しない低級な霊と交流する事になり、自分が心配していた通りの事情になるものであります。どうせ人生に竿さした以上、風の吹く日も、雨の日も、また、暗礁に乗り上げる時もありましょう。然し心霊学徒は常に守護霊という大船に乗り合わせ、その道の熟練者、即ち、指導霊のさしずのまま竿さし塵芥ジンカイに近付かず、目的に到達できるのであります。この場合、最も大切な事は背後霊守らすの信念を持つ事であります。

●人間における日常生活が孤立したものでは無くて、無数の人々との、複雑な問題の内に、相影響しつつ、営まれているものである事は、多くの人々の知る所であります。ところが、人間の運命が見えない世界、即ち、この地上の物質界とは次元を異にする魂の世界に住む魂等によって、深浅様々な影響を絶えず受けているという、人間にとって極めて大切な、この事実を知っているものは、少ないのであります。では何故、この大切な事実を知る者が少ないかと言いますと、多くの人が偏見にとらわれて、人間を全的に見る目を無くし、肉体だけが人間だと思い、自分とは物質で出来ている肉体そのものと、不幸な考え方をしているからであります。人間とは即ち、顕幽両界に亙ワタる生活、即ち、地上の物質界と、魂の世界との、両面の生活を常に営んでいるものであります。

●済むとか、済まぬとか、良いとか、悪いとか、くしゃくしゃさわいでいても、なる事はなる。ならぬ事はならぬ。出来る事は出来る。出来ない事は出来ない。それには、ちゃんと道理がある。それをすべき事をせずにほっていて、道理が分からぬと言う。秩序よく種を蒔き、肥料を選び、草を刈り、愛念で耕していれば、秋の実りが自然に出来ざるを得ない。それまでには時間がかかる。それをよう待たず、ただ稲を早く引き抜くような事をするから、失敗というような事になる。

<引用者からの一言>

私は冬のソナタの韓琉ドラマのDVDを借りて見た事があります。医者達の中でも流行していて、みんなで廻し見をしていました。私はそのDVDを早送りをして見ました。見ていたら、イライラしてきてしまって、結果が分かれば良い、途中経過はどうでもよくなりました。それを次の方に言ったら、それは言ってはいけない、ハマっている人の心を傷付けるからと言われてしまいました。

我が家の夫はサスペンスドラマが大好きです。私は大嫌いです。人間の恨み、つらみ、憎しみ、の渦が見えてきて、どんどん悪い方へ心を誘導させて居るからです。

私の母親は大奥のドラマが大好きでした。私は幼なかったこともあり、大嫌いでした。男と女はどうしてこんなことしか毎日考えないのだろうかとおもっていました。

私は演歌が嫌いです。好きだ、嫌いだと、どうでも良い事を歌っている歌がきらいなのです。

結局、韓琉ドラマも、サスペンスも、大奥のドラマも、演歌も、煩悩の渦の世界の中で苦しみ悶えている人間の姿なのではないでしょうか?

四苦八苦の世界で苦しんでいる人間の姿なのではないのでしょうか?

最近、我が家のリンパのお客様が、お亡くなりになりました。とても性格が明るくて、自分の事よりも他人の気付かいをする、誰からも慕われる性格の持ち主でした。最後の最後まで抗がん剤の治療をしていました。ある日から、お腹の腹水が出て、胃腸の調子が悪くなり、急にガリガリと痩せて来ました。それでも抗がん剤をすると聞いた時に、殺されるよ、止めなさいと忠告をしました。でも、今度の抗がん剤は副作用の少ないのをする予定だと言われ、医師の言われるままにしてしまったようです。確かに副作用は少なかったようですが、それからは、我が家までも来れる状態ではなくなり、二回ほど自宅に行ってケアをしました。しかし、リンパマッサージをすると、痛みが強くなってしまって、むしろ仇になってしまいました。後で考えてみたら、リンパマッサージはリラックスマッサージなので、副交感神経を刺激してしまい、むしろ、痛みが増強してしまったようです。難しいですね。その方のケアをしてから私の体の調子が悪くなりました。かなり悪い状態でケアをした夜に、私の息が苦しくなって、寝苦しくて、一晩に三回も四回も目が覚めてしまいました。三回目に目が覚めた時、4時頃です。自分の悪い気を追い出そうと思って、自分流の徐霊を始めました。塩にエタノールを入れて火を付けて炎を眺めながら、瞑想をして、その方の病気が良くなるようにお祈りをしました。チベットの浄化のお香も焚きました。そして炎が消えて、その焼き塩で手と足を洗って清めました。その後は朝まで気持ちよく眠る事が出来ました。しかし、風邪を引いてしまいました。鼻水やくしゃみが凄くて、熱は出なかったのですが、一週間以上も身体の調子が悪かったです。病気の人のパワーは強いですね。

天気でも、高気圧よりも低気圧の方が、雨が降ったり、風が強かったりします。それと同じように、気の低い人は、気の高い健康な人に影響を及ぼしてしまうことになるのではないでしょうか

健康な人の家庭生活は乱れませんが、病気の人が一人でもいると、その方一人のために、家庭の中の健康な人の生活までもが乱れてしまいます。

戦争も同じです。平和な国が多くても、戦争をしている国が一つでもあれば、その戦争をしている1つの国によって、多くの平和の国に迄、影響が及びます。

水は高い所から低い所に流れているように見えますが、それは反対で、低いエネルギーは高いエネルギーからエネルギーを吸い取っているとも言われます。だから低いエネルギーのパワーの方が強いのです。

一部の金持ちの資本家が裕福な生活を送って居る様ですが、貧乏人のパワーの方が強いともいわれます。宇宙のエネルギーは流れていますので、いつまでも金持ちは金持ちで有る筈もありません。

霊の世界を私達は学ぶ時代に入ったのではないのでしょうか?それを教えてくれるのが、この霊談集で有ったり、出口王仁三郎であったり、日月神事であったりするように思われます。<2014.3.9>

52)神仏の理念と一つに、随伴霊とは、自分が向上進化さす義務のある霊魂であります。

●矢、始め当たらずと雖も度重なる内、遂に的はずす事無し。統一とは、字の如く、すべて一つに続き渡るという意味でありまして、自分一個人が統一しているのだと思ったら、真の心霊統一から離れる事、一千里であります。それは、自分の守護の背後霊を通し、次から次へと高級霊の仲立ちを経て、神仏の理念と一つになるの、言わば厳かな行事であります。ここで統一をする事は自己の随伴霊を向上させる事になります。

随伴霊とは、自分が向上進化さす義務のある霊魂であります。そして、先祖から流れて来ている低級の悪因縁霊、又、自分が作った悪念のすべてが一つになり、ひたすら神仏の理念に近付くを、正しい心霊統一と申します。

●物事を苦にすればする程、悩みが悩みを生む。

仏教で、心の向上は一方では布施だと言い、一方では知恵だと言う。心霊的に見れば、知恵と布施は二つにして、裏表で、知恵無くして布施心は起こりません。

●眼は色をもって食となし、耳は声をもって食となすという古語があります。眼の食物は美しい良いものを、耳は楽しい言葉を聞きたいと思うのが、本来の生きがいです。仏教では香を手向けます。これは、中有中陰の衆生は、香をもって食となすと言うところから来ているもので、食物は只、口だけに必要なものではありません。良きものを食としたいのは、目も耳も鼻も皆、食即ち、良き食物が必要であります。

中有中陰とは仏教の通俗的学説で、生類の存在を四つに分け、生有、本有、死有、中有で、人間がこの世に生まれ出る最初の存在を生有。生まれてから死ぬ迄の生涯を本有。死の刹那を死有。死んでから次の世に生まれ変わるまでの生涯を中有。中有の存在は一週間、乃至、最長七週間、その間に次生が決定すると言われてます。故に死者がなるべく幸福な良き所へ次生するため、七週間、その死者の冥福を祈り、読経する風習が生じたわけです。四十九日を満中陰と言うのは、七週間たち、中陰が満期となる事を意味します。四十九日たっても次生が決定しない事を、中有に迷う、つまり世間で言う、この世に魂が迷うと言う事ですね。然しこれは、仏教的なある解釈で決して心霊的に言うのではない事を申し上げておきます。

●何も彼もつつみなくさらけ出す人は、何時もさばさばなるのがあたり前で、無碍自在、必要なだけのものは霊界で、何者かの手をへて、偶然に来たかの様に入ってまいります。

●多くの青年は、自分の天分はこれでないかも知れぬと思って、躊躇し逡巡し、そのために何事も真剣になれず、時間を浪費し、精力を労し、ついに老年に至り、偉大なる事蹟を残す事なく、この世を去って行く人が多いのであります。人にはその割り当てられた天分があるのであって、その天分を発揮できないと言う様なものではないのであります。杉の木は杉の木として、亭亭と伸びているのは、杉の木ならんとして努力しているのではなく、只、生命の営みとして、そのまま与えられた通りに一日も休む暇なく続けているのであります。只、営む、休む事無くと言う事が大切でありまして、それ、まこといかんによって、その仕事に卓越した背後霊がつき、その道の大家となれるのであります。この事は又、自己に因縁を持つ魂に、その道の天才者を作る事にもなるのであります。

●分に安じて、懸命に努力せよ。蒔いただけのものは必ず刈り取れる世の中だ。

●事業の繁栄は、夫婦の間がいかに調和して居るかの愛情の湧出量によって定まるもので、この事は大は国家、社会一家ことごとくこの和の程度に依るものであります。人には誰しも良き面と悪い面の両方あります。夫婦もその通り、然し相手の優れた良き面のみ見つめて居れば、三十年、五十年は、またたく間、夢の間に経って仕舞います。<№.269

<引用者からの一言>

一度、怠け心に傾いてしまうと、どんどん深みにはまってしまいます。そしてどんどん悪い事が起こります。学校に通っていれば、成績が悪くなります。学校をサボりたくなります。先生に嫌われます、友達も離れて行きます、一人ぼっちになります。孤独になります。部屋が汚れます。自分の身なりも汚れます。何かに救いを求めたくなります。

そこから脱出するにはどうしたらよいのでしょうか?人によって、色々と有るのでしょうが、私の場合は読書が好きだったので、色々な本を読みました。レ.ミゼラブル、トルストイの戦争と平和、太宰治の人間失格、夏目漱石、そこで分かりました。みんな同じなのです。みんなが悩んでいるのです。私だけではない、みんな同じなのです。どんなに偉い人でもそれぞれに悩みが有るのです。だから、悩んでも良いのです。只、そこから脱出するのは難しいです。自分の怠け心と戦わなくてはいけないのです。それが低級の悪因縁霊、又、自分が作った悪念なのでしょうね。自分の悪い癖、自分の欠点は両親の性格でもあります。父親が短気で怒りっぽかったので、私もそれに似て、短気で怒りっぽいです。我慢が足りません。かといって自己主張が強い割には、自己嫌悪に陥りやすいです。母親の様に負けず嫌いでもあります。両親よりも少しは成長しないと、この世に生まれてきた意味が無いと思い、少しでも欠点を治そうと努力をすることが随伴霊、自分が向上進化さす義務のある霊魂なのでしょうね。

両親が亡くなった時のお葬式は、勿論お寺でやりましたが、初七日の法要、四十九日、全部一緒に終わらせてしまいました。次は一周忌と三周期に集まれば良いようになっていました。昔であれば、亡くなったら何度も親戚が集まって法要をしていたのでしょうが、現代は親戚達の仕事がそれぞれに忙しいので、一度で終わらせてしまうようです。お葬式も、時代に合わせて、適当なものであるなと感じました。この仏教的なお葬式の解釈は、心霊的には意味が無いようですね。

本来は表と裏で一つ、分ける事が出来ない。しかし、表にいる人は裏が見えない、裏にいる人は表が見えない、西洋医学と東洋医学で一つの医学、法律と道理で一つの国、男と女で一つの人間、現実の世界と霊の世界で一つの世の中、手を眺めても表と裏で一つ、切っても切れない存在です。自分で見えないから、存在しないと思うのは片手落ちのようです。見えない世界の存在を意識することは大切なようですね。かといって、それぞれが全く異なった世界なので、それぞれの生活があり、尊重する必要があります。

生まれてきたら、人間と言う時間がスタートします。そして死ぬまで生きます。定年したら、60年間は瞬く間に過ぎてしまいました。過去は夢の様ですが、自分の子供が母親になって、孫を育てているので、自分の存在は夢ではなかったのは確かです。これが、もし独身でいたら、自分の存在は何処に残すのでしょうか?でも、裏の魂の世界は育っているのですよね。

53)低級霊ほど恥をかこうが義理をかこうが、欲をかく。高級霊ほどより協力し、より一つになる事を目的に

現世に於いて、三角定規を使って、こちらで苦しんでいる帰幽霊。欲をかく、恥をかく、義理をかく事を平気な人を言います。高級霊ほど義理固く筋を通します。低級霊ほど、恥をかこうが、義理をかこうが、欲をかく。とにかく、人はどうでも自分さえと思うものであります。高級霊ほど、より協力し、より一つになる事を、目的としていられます。

●思えば思わるる。人をさばく権利は人にはありません。それは、神仏の罰があたるのではなく、人の道を踏みはずしただけ、不幸になる生まれつきであります。

正しい統一をしている間に、人格が変わってきます。人の事も気にならないし、高下駄はいても苦労して見せる気持ちもなくなります。人は人、先ず自分から。内ととのえば、外、自ずからととのう。

人生とは、他人の姿を見ず、自分を見よ。自分に厳しく、人に軟。

●人間の眼をマナコと申します。まなことは真中を取る義でありまして、一方だけ見て他の一方を見ないのでは、マナコとは言えません。つまり現象だけを見て、そうあらしめている奥の霊的なものを知らぬを、皮相の見と申します。金さえあればと言う人もありますが、金がものを言わぬ霊的な働きかけを知らないと、今いかに金があっても、ついに消散するか、あるいは又、金で解決出来ぬ不幸が有る事もしらなければなりません。

●我々は瞬間々々に、自己の性格を形づくり、自己の運命を形づくりつつあるものであります。

物事を成し遂げるには、その必要な努力をつづけて行く根性玉が坐って居ないと、途中で挫折し、せっかくのチャンスと幸せを自ら取り逃がして、日の目を見ず不幸な生涯を送り、子孫迄不幸な途をとらす事になります。

●ここに出て来られた霊は、この方の先祖が脂と汗で築き上げた財の上にあぐらをかき、人生とは何をする場かを知らず、ぶらぶら遊び暮らし帰幽した人でありましょう。

霊曰く、この世にある間だけ預かった財を生かして働かしてこそ、先祖も財も共によろこびとされるものを無視し、自ら一人のものの様な気持で、布施心など思った事もなく、我が儘な一生を送り、只胃袋を働かしていたという。六十年間、今更悔やんでも仕方なき事ながら、後悔先にたたずとは、この事を申すのでしょうと思います。自身の罪を悟らず、同種類の境地の魂の群中にあって、徒らに現世生活中の者に憑き、享楽に日夜引きいれる事を、空恐ろしい事と思います。

●人生とは舞台の上で芝居をして居る様なもので、波がいくら起こっても、水と言う正体が減るものでも、又増すものでもありません。類魂から見れば皆同じ並の魂で、只その役割が各々異なって生活して居るので、役割に貴賤は無く、あたえられた役割を、いかに正直にはたして居るかに依って、魂の貴賤があるわけであります。

<引用者からの一言>

私は財布の中に千円以上は入れない事にしています。更に、出来るだけ買い物をしない事にしました。きっかけは、定年前の一年前に、予定もしない退職を迫られたからです。リンパマッサージが原因のようですが、病院という組織が認めていないリンパマッサージを医者の許可なしに、病院ではやってはいけないのです。私のリンパマッサージよりも、医者達の診療だって間違っているのが多いのではと首を傾げたくなる事もありますが、それはそれ、私は、私の筋を通す方を選択しました。何となく、薄々感じていたのですが、止めるきっかけが向こうから、急に眼の前にやってきてしまいました。

私は退職の準備をしていなかったので、退職の直前に、留め袖の着物を買ったり、黒ダイヤのネックレスや、真珠のネックレスを買ったりして、高価な買い物をしてしまいました。その借金と、多額の税金の催促に奮闘することになりました。そこで考えたのが、出来るだけ出費を抑える事でした。どのように抑えようとしたかと言うと、出来るだけ手造りをする事にしようと心に決めました。味噌作りは成功しました。でも、納豆はどうもうまくいきません。豆腐はうまくできましたが、却って費用がかかったように思われます。手造りは難しいですね、しかしめげずに頑張っています。豆乳ヨーグルトと甘酒は毎日作って、朝食にしています。

買えば、私が作った以上に、もっと美味しいとは思いますが、手造りは、お金では買えないし、心が豊かになります。更に、今迄、離れていた姉妹愛が芽生えました。姉達が心配してくれて、助けてくれました。交流が深まりました。

職場の圧迫感から離れたら、不思議に閃きが、どんどんやってきました。私はそれを素直に受け止める事にしました。やるしかないと心にきめていたので、迷いがありませんでした。失敗は相変わらずあります、それもこれも、私だけの原因なので、素直に改めるように心掛けています。

考えてみると、この年齢になって、欲しい物が有るのだろうか?洋服はこれ以上要らないし、家具だって家だってあるし、美味しい物を食べたい欲求もそんなに無くなっているし、むしろ、ご飯やみそ汁、梅干やタクアンがこんなにおいしかったのかと改めて感じるこの頃なのです。夫婦二人の生活だから、食事にお金がかからないし、電気代もガス代も電話代も子供たちがいなくなった分だけかからなくなっているし、むしろ、不要な物をかたづけておくようにしておかないと、いつ、あの世からお迎えが来るかも知れないし、あの世に行ってから、子供たちから、お母さんが遺したかたづけがいっぱいあって、大変だなと思われない様にしておかなくてはいけないのではないのかなと思う様になりました。しかし、今更ではないけれども、今迄、不要な物を買わなければ良かっただけだったのに、それを欲しがっていた自分がいて、自分に不相応な物を購入していたがために、不要なものが増えてしまっているようにも思われます。欲が有り過ぎたのです。欲が少なければ、シンプルな生活ができていたはずなのです。過去を振り返ってみると、無駄の多い生活をばかりしていたことに気づきます。

この世を作った神様は、人間が豊かに生活ができるように、全ての物を与えているとも聞きます。その仕組みを壊しているのが、人間の欲であると言われます。私達は自分に相応の生活をすればよいだけなのです。マスコミに踊らされ過ぎて、あれが欲しい、これが欲しい、あのような生活をしたい、この様な生活をしたい、毎日毎日、人間の欲をそそのかすスピーカーが溢れています。もっと、自分に素直に生きていれば、そんなに、お金のかからない生活ができる様にも思われます。でも、自分に素直になるのが一番難しいですね。<2014.3.14>

54)金ほど人の心を冷たくし、争いの種となるものはありません

●何気なしに人に、貴方は強情ですねと言われた時、

一、ハッとひれ伏す様な気持ちの人は、先祖の高級霊と、つながりのついている人。

二、どこが強情だろうかと思いめぐらす人は、修養している人

三、何故強情だろうかと因縁を考える人は、人生の学問をしている人

四、自分は強情で無いと思う人は、強情のかたまり。人生の分かりにくい人。

五、強情であるにはあるが、血の通っている人間なら誰でもあると思う人は、少し知っているが、自分を置き忘れ、言い分けをしている間に、何か大事なものを逃がしている人

●気力を失うと、貧乏神におそわれます。息のある間は、人間積極性を失ってはいけませんネ。

●無常と言う言葉は、何となく淋しく感じられます。然し、無常がなる故に、ファイトが燃えるのではないでしょうか。我々一生、意義あらしめようと思うなら、無常を感じなければ、馬鹿馬鹿しくて、生きる張り合いが無くなるのではないでしょうか。

例えば貧乏人の子は、いくら徳を積んでも、一生懸命働いても、少しも生活状態が動かず、やはり貧しい生活をするより外無いなら、こんな不合理は、神仏の掟ではありませんね。心の持ち方で、物事が変わっていく、ここに生きがいがあり、楽しさがある。

昨日は今日でない、新しい今日、今日新しく生まれた今日、輝かしい今日。光明と輝く、自分の霊光の迫力で、悪は善に、善はより太く長く、次の世代に続けてやる。これ即ち、世は無常なるが故に楽しいのであります。

●昔から、下世話に、金の無いのが縁の切れ目と言う言葉があります。事実、始めは金など一文も無くとも、恋を実らせ様と、気負って夫婦になったが、金が不如意のため、さしもの恋の熱もさめ、子供がありながら別れた人もあります。又、兄弟が一文無しから力を合わせ、わずかの食も分けあい、一生懸命働いて、ざくざく金が入る様になった。そうなると、思いもしなかった金の分け前で、日夜争い、とうとう血で血を洗うを見たと言う人もあります。

金ほど人の心を冷たくし、争いの種となるものはありません。親子でも金は他人だとか申しますが、金のため、いろいろな感情になる人の愚かさを、つくづく思います。金を使う時は、良き下僕でありますが、使われる時は、非常に暴君であります。金は使うもので使われるものではありません。

<引用者からの一言>

お金に使われる、とはどういうことなのでしょうか?

お金に余裕が有れば、毎月支払うローン、子供の学費、電気ガス代等、それから税金の支払いが苦にはなりませんが、余裕が無くなると、苦になります。心がイライラして来ます、家族内の人間関係がギスギスしてきます。ちょっとした事で八つ当たりをします。怒りたくなります。

反対に、お金に余裕があれば、欲しい物を買いたくなります。お金が無ければ無いなりの生活をすれば良いし、お金があれば有るなりの生活をすれば良いのですが、しかし、心が強くなければ、お金に振り回されてしまいます。

老後、死ぬまでの生活の安心のために、生命保険をかけて、貯蓄もあって、年金があれば、それなりに生活が安心します。その生活のパターンが普通の国民です。

しかし、お金には魔が潜んでいます。その魔のお金を手にしてしまったら、死ぬまでお金に振り回されるのではないのかなと、感じています。

どうして、政治家や大企業や芸能人がヤクザと言われる人と手をつないでしまうのか、不正なお金を手にしたからなのではないのでしょうか?不正なお金には必ず、魔が潜んでいるのです。

私が乳幼児のリンパマッサージの特許をとって、ホームページを作って、ブログも書いて、間もなく、或る占いの有名人の名前で、三百万円のお金を上げますと、メールが入りました。また、別の方から、一千万円以上のお金を渡します、受け取って下さい、受け取ってくれれば娘の病気が治る、どうしても受け取ってくださいとメールが来ました。私が断りの返事をした途端、メールの嵐が毎日入りました。プロバイダーに相談して拒否をしましたが、それでもだめでした。無視を続けて、半年くらいかかりましたが、やっと来なくなりました。その有名な占いの身辺をネットで検索をしたら、ヤクザと繋がって居て、テレビから降ろされたと書かれていました。

そこで、やっとわかりました。不正なお金を手にしてしまったら、死ぬまで働かされるのです。もし、不正なお金を受け取ってしまっていたら、今考えるだけでも空恐ろしくなってきました。オレオレ詐欺死にお金を取られてしまう老人が多いのですが、むしろ、騙された方がまだましかも知れません。只ほど高いものは無いと言われます。お金は恐いです。真面目に働いたお金は安心します。<2014.3.15>

55)理屈ばかり言って居る人は、絶縁体をがっちり作って、苦労する

●神仏の慈愛は、人間の想像以上のもので、衆生を生かし育て、現象界をこの世ながらの極楽浄土になさんと常に働きかけて居られます。併し神仏の持たれる波動を直接うけたら、おそらくうかがい知れぬ強力な光と熱と振動によって、人間の体は、木端微塵に砕け散る事になりましょう。

そこで、神仏と人間との中間霊として、霊波の調節を計られ、境地の高い守護霊、指導霊を与えられて居るのであります。

従って、神仏の慈愛を受けられず、苦難の途のみたどる人は、守護の霊の慈愛をさえぎる、電気で申しますと、自分自身が絶縁体を作って苦労して居ると同様であります。素直な人は、神仏の理念を静かに通す事になりますし、理屈ばかり言って居る人は、絶縁体をがっちり作って、苦労する事になります。

●あなたが、一心不乱で仕事したり、一つ事を考えて居られる時は、それは一種の統一状態であります。人はその統一状態に置いてのみ、高級背後霊が一緒に仕事を手伝い、そして最も良い考えを与えて下さるものであります。

然しその時の第一条件は、仕事に対し、あるいは考える時、愛念の無き時は低級霊と一緒に事を考え、結果は良くありません。ここで統一の修練をして居りますと、いかなる時でも霊光が輝き、低級霊が憑かぬ様になり、何時もその時その場のふさわしい高級霊の指示が受けられます。

●なまじ宗教かぶれすると、自分の肉体を粗末にし、とかく医者を嫌い、その結果身内の者をして、後々迄悔いを残す事をよくききます。万一、医者を必要とする時は、あなたの背後霊は、先方の医者の背後霊と協力され、害毒にならぬ様、適切な処置をして下さると思います。

大切な事は、医者にかかった以上、その医者を信頼する事です。それが、早く治るコツと思います。然し、どうしても信頼できねば他へ変わる事です。<№、271

●人は、自分の欲している善はしないで、欲していない悪を行っている。

●真の統一は、眠っていたかどうかよく分からぬ、時間の観念の無いものであるが、眠り統一であってはならぬ。

●財は、先祖の因縁により、この世限りの預かりものであります。あの世迄持って行けぬのに、人はその為、死後争いのもとを作る。生きている内、後々子孫に迷惑かけぬよう心掛くべし。

●人は、ニコニコしている時は、善霊と直結している時で、妬み、憂い、悲しんでいる時は、必ず低い境地の霊と交流している。

<引用者からのひと言>

宇宙全体を動かしているエネルギー、それを、まともにくらったら、一瞬にして消滅されてしまいます。それだけのエネルギーが宇宙には存在しているようです。そのエネルギーを調節してくれているのが、人間であれば蝶形骨と仙骨であると言われています。人間の体の中にある磁場と宇宙の磁場を調節してくれているのが霊波であり、守護霊や指導霊である様です。

最近は、振動で病気を治すという考え方、それが原子やDNAまでも修復する生先端の原因医療といわれています。西洋医学は結果の医療なので、病気の原因は治せないようです。一秒間に528回振動のサイクルの振動数、この癒やしの振動は、人間の手掌からも出ているようです。おにぎりが美味しくなる理由もそれで理解ができます。手でこねたパンがおいしいのもその理由です。機械で作ったおにぎりや、パンやうどん、そば等よりも、手造りでつくったおにぎり、パン、うどん、蕎麦の方が美味しいです。人間の体は常に振動しています。最近は悪い振動の電磁波という人工的な振動、テレビ、インターネット、携帯電話、等から発せられ、生活の周りに溢れています。脳が一番打撃を受けているようです。

太陽のエネルギーには癒しのエネルギーが多いようです。それから、森林の植物のエネルギー、土のエネルギー、自然界のエネルギーが癒やしのエネルギーが多いようです。528サイクルだけではなく、美のエネルギーサイクルなど、色々あるようです。カラーセラピーもその仲間なのでしょう。アロマや、ハーブ、漢方薬などは植物のエネルギーの塊です。

音楽ではモーツアルトの曲にはこのサイクルが多いといわれています。そこで、最近は528サイクルの音楽が流行しています。しかし、CDや機械から出て来る人工的なものでは無理の様です。デジタルではなく、モノラルでないと、無理のようです。

マッサージも、機械のマッサージでは癒されません。人間の手のマッサージの方が機械のマッサージよりも気持ちが良いです。

光線療法という治療は電気ではありません。電気では癒しの波動が出ないようです。カーボンという炭を使って治療する方法が戦時中から、日本とドイツだけに存在しているようです。

今、地球も宇宙もサイクルが変化しているといわれています。地球や宇宙の振動が高くなっている様です。だから低い意識の持ち主は生きるのが難しくなっているようです。低い意識とはどんな意識かと言うと、「パワーか、フォースか」というデヴイット・R・ホーキンズの著に書かれていました。この本に詳しく書かれています。日本人の意識は高いようです。しかし、一瞬で壊す振動数もあるようですので、恐いです。

私の祖母がお産婆になろうとしたときに、前日に自分の背護霊がその学校に行って挨拶をされたようです。あなた、昨日、ここに来たでしょう。どこに行ったの?と聞かれたそうです。でも、自分は今日、始めて、ここに到着したそうです。

私が悩みがあって、知り合いから教えて頂いた霊能者を訪れた時に、何故か分からなかったけれど、あなたに会って納得したわ、と、朝から頭が痛かった原因が理解できたとおっしゃっていました。私の背護霊が、私が行くのでよろしくとあいさつに行ったようなのです。

一瞬一秒たりとも、私達の背護霊様が私達のためにお働き下さっているのです。はっきりと自覚は出来ませんが、なんとなく、最近の生活の中で感じられる様になりました。<2014.3.16>

 

56)生物の凡ては、労せずして何物も得る事は出来ぬ仕組みになっています。

●我々が生かされ、生きている事実は、何か自分でなければ出来ぬ仕事があるからです。長生きして、この世で心行く迄人の役に立ちましょう。

●過去と未来をつなぐ現在。せっかく生まれて来たのだから、広く、深く知識を付け、迷いの無い境地を心掛けましょう。

生物の凡ては、労せずして何物も得る事は出来ぬ仕組みになっています。先祖の徳を食いつぶさぬように。

●白か黒か取る手を決めたら、結果は守護霊にまかせ。只、懸命にその努力をする事。

●生きものの中、人間程淋しがりやはありません。然し、心霊家は常に守護霊と一双眼で物を見、一音にものを聞く。又楽しからずや。

●他人の不足を思っても、自分の魂の向上を妨げるにすぎぬ。

●失敗した事を悔やむより、それをどう生かすか、静かに考える時、必ず、守護霊は、教えて下さいます。

●幸せは、戦い取るものではない。相手にも守護霊はおられる。

●取る事ばかり考え、与える事を知らない人は、最低の、人でなしで、末には必ずおちぶれる。

●心霊家は、水の如く、細かい所にも行きとどく心を持ち、そして、人を咎トガめぬ。

●家庭の不和は、交通事故に会いやすい。

●自分だけの幸せを勝ち取ろうと思う人は、当然、頂ける幸せも逃す。

<№.272

●心ここにあらざれば、視て見えず、聞いて聞こえずと言う言葉があります。

この事は学的説明は難解なのでありまして、意識とは単に物質から独立しているばかりでなく、脳髄の生理過程からも独立しているものであります。そしてその事は、一般的に誰しも経験するところであります。

例えば、医療的手術の場合に、麻酔剤に代えて催眠術がかけられたり、精神統一、坐禅などが行われたりした場合が伝えられているのでありますが、その事の意味は、脳髄の生理過程と意識過程とが、別個の過程である事が前提されるのでなければ、理解する事が出来ないでありましょう。我々は意識過程と脳髄の生理過程とが、異なる過程である事を教えてくれる様な事実を、もっと手近なところにおいて、手軽に経験している筈であります。

我々の網膜に映った映像は、自律神経興奮伝導に依り、後頭葉の視覚中枢へ運ばれるのであります。これは必然的な生理過程であります。ところがその場合、その人がぼんやりしていて、意識がうつろになっているか、又何か外に考え事でもしていれば、その網膜の映像は視覚にはおそらくならないでありましょう。これ等は、肉体は心の道具であって、そして意識の良き下僕たる事をも語るものであります。

心貧しければ、容姿迄貧しくさせ、感謝の心深くなるにつれ容姿柔らかく、年に関係なく顔つやつやしくなるものでありまして、四十過ぎのその人の容姿は、親の責任ではなく、その本人の善くも悪くも作り上げたものと言えましょう。

●人の美しさは、生まれ付きの顔形でない。そこから出る知性と、素直さが物言う。それがいかなる霊と結んで居るかで定まる。

●行く末と奥見るを願わず、我弱き足に、路、示し給えと守護霊に頼むべし。

●悪業の種が縁にふれ発芽し、今、苦難の花が咲いたと言う事は、遠からず消散すると言う前提の元に今咲いている。とらわなければ、早く散り、おさえると散りにくい

●この霊は振動と光と色の三位調和した霊、すなわち境地の高い霊で皆様を幸せの路に、水路付けようと慈愛のこもった目つまり青眼の祖であります。

心霊学もさる事ながら、正しい統一中、真理が自ずと皮に浸み、肉に伝わり、骨に滲み込む。

●人は路をはずした生活をしている時は、心がいらいらして侘しいものですが、人としての正しい路を踏んでいる時は、心晴れやかで楽しいものです。

●右転左転進退両難本来無 葉落花開自有時

直感はひらめく智恵の霊信であって、小才や才覚の人間智ではありません。

●職業には貴賎は無いが、働く気持ちには貴賎が有って、働く事に幸せを見出さぬ人は、一生不幸に終わる人生を送ります。無理せず自分の仕事にほれ込む人に、不幸になる人はありません。

今日一日の人生と観ずれば、今の働きに全力が尽くせるはずであります。<№.273

慈悲と愛、大と小、自と他、行と道徳。慈悲と愛とは、人情的意味の語として、ほぼ同じ様に使われている様ですが、内容は大変異なるのであります。慈悲の慈と悲とを分けてみますと、“慈”とは、他の一切の苦を除く、いわゆる抜苦を指し、“悲”とは他にあらゆる楽を与える、いわゆる与薬を指すのであります。

これに反し、愛の方は貪愛愛欲、すなわち煩悩を指し、愛しているから愛しそうなものだという裏付けのあるのが愛で、慈悲の無償の愛とは大分隔たりがあります。ここで申します高級霊とは、無償の愛で働かれる心霊であります。

●魂の幼い人は、守護霊の計画の中から脱線する事が多い。正しきものを生みだすのに、苦しみが伴います。

●知性は直感に、教説は経験に外形的表現は内的自覚の下に置かれるのであります。心霊学は抽象観念の承諾でも、祭儀を行おうとするものでもありません。

これは一種の生活であり経験でありまして、即ち、心霊は実在の本性の達観であり、霊的実在の体験をしているのであります。

●心霊学徒は苦があればあるでよし、あえていとわぬ。又、楽あればあるでよし、あえて愛着しない。現前する事柄を誠心誠意、体当たりしてさらりとほどき、又ほどいては新しく進む。問題はほどいて進む所に人生の意義があり、又何時迄も老けない若さを持続できるのである。

<引用者からの一言>

今、いろんな悪行の花が咲いて、そろそろ、ちりばめられる時期になっているのではないのでしょうか。今の時代の私達は、その花を眺めながら、こちらの花、あちらの花、と、花見見物をしているのではないのでしょうか?

いつの時代に、その悪行の種が、どんな縁にふれて、発芽して、今にいたったのでしょうか?私達はその原因を知りたくて、興味を抱いてしまいます。その原因をムーやアトランティス時代まで遡るのか、飛鳥時代なのか、ローマ時代なのか、産業革命時代なのか、戦前から戦後なのか、

過去も、現在も、未来も、全てが今の一点から始まると言われています。始まりも、終わりもない、今が有るだけである。過去も未来もない、今の現在があるだけなのです。過去や未来を愁えても意味が無いように思われます。今をどう生きるかが大切であると思われます。それが、過去や未来にとらわれない生き方、過ぎ去った過去や、未だ来ぬ未来を憂えても意味がないのです。今、咲いている花を早く消散させるためには、とらわれなければ早く散ってくれるようです。早く、悪行の花が散ってくれる様、あまりとらわれないようにして、今、何が出来るか、一点集中して生きるように努力しましょう。<
<2014.3.17> 

57)心配し、陰気になったり、腹をたてたり、人を嫉んだりいたしますと、苦を長く引きのばす事になります

●「無作之妙用」

人は中年迄生きて、過去を顧みる時、自分の踏んで来た道が、淡々とした楽しいばかりの道でないと、誰しも思うでありましょう。ある時は、人知れず寝もやらず泣き、ある時は如何に努力しても、尽くしても、やればやる程深みに落ち込み、やけ半分になる事もあるでしょう。又残念だが、今度は娑婆と御別れしなければならぬかと思う程の身の危険に遭遇する、言わば人生中の黒点が一つや二つ誰しもあったと思います。

これらの苦難から早く逃れるには、先ず、自己の人間智慧を坐断して、その事に付き、善悪を思わず一切を守護霊に委ね時をかせぐ事であります。何故時をかせぐ事が大切かと申しますと、人間の浅智慧で心配し、陰気になったり、腹をたてたり、人を嫉んだりいたしますと、それだけ業をまわすに手間どり、苦を長く引きのばす事になります。

●一得一矢が世のならいと、昔の詞にある。それなのに、ここを逃げてあちらへ場所を移してみても、来た所がまた住みにくい。人間は幸せになろうと鬼ごっこをしている様なものだ。

では、どちらへ行ったら、住み良い幸せの場所があるか。それはないのであります。何故なら、その根本精神が変わらぬ以上、いや、その因縁が解消されぬ以上、どう転んでも同じ苦労は付いて廻る。金さえあればと思っても、金が出来ればこんどは金では解決する事も出来ぬ不幸が、口を開けて待っている。いっそあんな夫と別れようか、それでさっぱり幸せになれるのか、そんなものではない。その代わりの不幸が付いて廻る。大した事ではない。只、持ち替えるだけの事です。そうと分かったら、その与えられた境遇を心の糧として、その境遇の中での優等生になる様努力し、悪い因縁を後に残さず、その事について卒業する事、それより他、幸せになる道はない。愚痴と言う字の愚はおろか、痴はヤマイダレ、つまり知が病にかかってうろうろしていて幸せになる道を塞いでいると言う事です。

●皆様に、今日は大変気が良いとか、或いは気が悪いとか申します。気とはケと同音で、寒気、吐き気などと申します。又、陽気、天気、無邪気等表現語として使います。又、悪気、邪気、怪気、妖気等良くない語もあります。気とは幽体であります。肉体を操っている主人公、それをと言っても、と言っても意志と言っても同じ事ですが、その主人公が、自身を表現する時、その作用に対して、無選択に、必然的に反映するところのを媒体とします。は肉体からはみ出て視える霊的なもので、仏像にある光景と思ったら、分かりやすいかと思います。そのは、本人の守護霊指導霊、これらの善霊をはじめ、祖神によって進化を目的として地上の経験を共にする為、結び付けられた先祖からの悪因縁霊等を含め、又しばしば侵入霊もあり、従って常にこのなるものを清浄にして、善霊のみを媒体とする様心掛ける事です。

●“正直”という字が視えます。正直とは、人の物を取らぬとか、又、嘘を言ってごまかさぬと言うだけの事ではありません。真理をわき見せず生活すると言う事です。

●高級霊の智慧を受けんと欲するには、先ず、自分がからっぽにならなければなりません。キリストは、およそ神の国に入る者は、幼児の如くならざるべからず、と教えています。人間智慧が行き詰まって、もうどうにもならなくなった時、忽然として背後の導きがあるのもそのためです。自分が自分が、と自己慢心的な考えは、時として自殺的な結果を惹起ジャッキさせます。自分がという力みが守護霊の守りの流れを妨げることになるのであります。この種の気を持つ人は大変多い。そして不幸になって行くのであります。

<引用者からの一言>

私の瞑想は太陽礼拝です。その瞑想法をヨガ教室で教えてもらいました。同じように、自宅でやろうとしましたが、初めは、なかなか最後まで終わることができませんでした。自宅の場合は、気分が散乱してしまって、落ち着いて出来ないのです。瞑想をやり始めると、色んな事が頭の中によぎって来て、それが頭にこびりついてしまって、イライラして落ち着かなくなって、瞑想ができなくなるのです。それを払わない限り、瞑想は自宅では無理だと悟りました。ヨガのスタジオでは、2030分、1時間と、スムーズにできるのですが、自宅でやるとそうは行きません。色んな事が頭によぎって来てしまうのです。瞑想は自宅で、一人ではなかなか簡単に出来るものでは有りませんでした。そこで、私は頭によぎって来た事を一つ一つ解決してみようと思い付きました。

玄関が汚れていると頭によぎったら、瞑想を止めて玄関掃除をやりはじめました。食器棚が汚れていると頭によぎってきたら、食器棚を掃除し始めました。冷蔵庫が汚れていると思ったら冷蔵庫掃除を始めました。トイレが汚れていると思ったらトイレ掃除を始めました。ほとんどが家の中の掃除でした。更に、あの人に言うのを忘れていたと気付き、電話をしたり、親戚に御無沙汰しているなと気付き、御無沙汰していたお中元やお歳暮を贈り始めて、喜ばれることになったり、自分のいたならさが、頭にどんどんよぎってきて、反省する事ばかりでした。仕事で悩みが多い時には、少しでも瞑想をすると、気分が落ち着いて来るので、だんだんとハマってきました。始めは子供たちや夫が、私が部屋で太陽礼拝をしていると、また、お母さんが変な事を始めたと見ていましたが、その内に見なれて来たようでした。その内に、瞑想をすると、仕事や生活の心の整理ができるようになってきました。更に、気付きも出てくるようになりました。瞑想中だけではなく、お客様の会話の中からヒントを戴いたり、気付きが以前よりも多くなって来たように思われます。そして、御縁を大事にしなくてはと思う様になり、更に、くよくよと悩まない事にしました。結果は守護霊様が良きに計らってくれるから、私のちっぽけな頭で心配する事は止めようと、愚かな自分の頭で考えるのを止めました。最近では、瞑想を最後まで落ち着いてやれるようになって来ました。ここまで来るのに、五、六年間かかりました。

このように振り返ってみたら、瞑想をすることによって、先祖から流れている、悪因縁の解消にもなっていて、自分の心を浄化していたのではないのだろうか?瞑想をすることは大切であると思う様になりました。
<2014.3.19>

58)自由には責任と言う裏書、 責任には反省と言う裏書、反省時には必ず、高級霊との直結の場が出来て居

高級背後霊とは何をされるか。高級霊、つまり人間の迷いに引きずられぬ、力量の境地にあって、神仏と我々との間に立って、日夜人間を通して、種々の仕事学問を研究して、人間を守り導く霊魂であります。

肉体を持っている者よりは、遥か慈悲心厚く、思慮深く先の先迄見通しのきく霊魂であります。

終には宇宙の大霊の中に滲透するを目的とされる修業霊で、仏教的に言うなら真如、つまり本当の仏になる、修業霊であります。これらの守護出来る霊魂を沢山に持たれる方は、より幸せになります。素直な人ほど、背後霊に良く守られる事になります。

●人間の動物と違う事は、自由意志を多分に持たせられています。自由には、責任と言う裏書があります。

責任には反省と言う裏書がついていますし、反省時には必ず、高級霊との直結の場が出来て居るのであります。

●我が強い方は、守護霊が助け働きかけ様にも、波長が合わず、働きかける場がないから、守られません。

高級霊に守られる場は、自分自身が作らなければなりません。故に一時、何も考えず、守護霊に全託いたしますと、例えばこの事があったため、思わぬ良い仕事が出て来たり、又その病気が治ると同時に、今迄の持病が治ってしまうという、無作の妙用を得て、希望の彼岸に早く、しかも楽に着く事が出来ます。

人間知恵でどうにもならぬ時、六蔵(つまり亀の事)の様に、己と言う手足を甲羅に納め、敵の行き過ぎるを待つ事です。

●どうしたら、生活に役立つ正しい直感を受けられるか。それは、本人の自我を一寸ずらし、間を合わす技術を自得する事です。さすればいともやさしく、目をあけて霊視でき、耳、そのままで聴こえ、必要に応じて話しかけられ、教えを受けられます。こうなるには、生まれつき霊能が上っ面に出ている者と出ていない者がありますが、人間本来、誰しも霊感はそなえていますから、努力いかんで指導霊はつき、働きかけてくれます。霊は努力と日常の心境によって、それぞれ霊格の違う霊が働く事になり、祖霊中の帰幽霊とばかりにかぎりません。

●庭の珍木を立派に育て、良き花を見んには、下草を常に刈り取り、肥料を与え、日当たりの良き所にて置く。

私は先日、シャクヤクの下の雑草取りをして、ふと思いました。抜いた雑草もこれ又神仏の子である。生物である限り一生懸命芽を出そうと、日夜営みを重ねて来たであろうにと、ふと、割り切れぬ気持ちがする。

只ところ得ずにいるだけ、野山に有れば、牛馬の餌として貢献出来るものを、惜しい事だと言い聞かせました。

然し、大を生かさんには小を殺す。魂とは、意識の集合体だ。本来の魂を生かすには、小は殺すべしと、思い切ってそばに生えている雑草をぬく。そして良花を咲かす事にした。人間程残虐きわまりなき動物はない。おそらく、生きもののうち一番獰猛だろう。その獰猛な動物、人間が一番幅をきかしているとは。

●現実、惜しい人が早死にしたり、又、役にも立たず、只胃袋だけ働かせて床に就いたまま何十年も生きて居る老人もあります。どっち道人間は、生まれたり死んだり、喜んだり悲しんだり、その激しい波濤に耐えられ無くなると、早くあの世からのお迎えが欲しいと思う老人もままあります。

いくらこの世がいやになっても、寿命が尽きぬ限り、つまり、何も仕事がする気力が無くとも、それはそれで、周囲の為に何か悟らす糧として、生かされて居る場合がたくさんあります。

この世は、無駄物は一つも存在して居りません。与えられた境遇を、懸命に、より良き因縁を作って行く。それより外、人間の生き方はありません。

<引用者からの一言>

自分の行った行為に対して、反省する事よりも、先ず、自分のやった行為の言い訳を、ついつい、先に口からでてしまいます。

我が夫は、いつも屁理屈が先に口から出るので、それに対して、私は、イライラしてしまう毎日なのです。

雪かきの時です。夫は、雪を道路の端まで運ぼうとしないで、道路の中に積み上げて居たのです。私はそれを見て、二度手間になるから、そんなところに雪を盛り上げないで、端まで雪を運ばないとダメだよと注意したのです。そうしたら、俺が先に置いたのではない、先に隣の人が、そこに雪を置いたから、と言ったのです。

雨が降って来て洗濯物が濡れてしまいました。どうして早く気付かなかったのよと私が責めます。そうしたら、さっきまでは雨が降って居なかったと言うのです。

お茶碗を洗って貰いました。汚れが落ちていません。汚れが落ちていないよとお茶碗を見せたとしても、おかしいな、ちゃんと洗った筈だと頭をかしげています。

反省の色が伺えないのです。あきれはてて、怒る気にもなりません。それでいて、ニュースの事件とかには立派な御批判をされるのです。

何となく、今の世の中を反映して居る様にも思われます。<2014.3.19>

 

59)河上の流れはきれいであるが、下流は濁って汚ない、上流の水も下流の水も同一の河であります。

●家代々の商売を、よすによされず。さりとてこのままでは、家族が生きて行けぬという相談を受けていますが、口に樹脂を含み、手、枝によじらず、脚、樹を踏まず。樹下に人在って、西来、意を問わん。対えずんば、即ち禅家の礼を破る。若し口を開けば、身は千仭センジンの谷底に墜落して、木端微塵となって命を失う。正しく、これと同じ状態と思います。

要するに、人間の不自由は、勝手に手で枝を握らず、脚で樹を踏まず、口で枝にしがみついているような、自己限定から来るのであります。つまり恐れです。その恐れが、一切所に眼をつけるのをくらましているからです。外聞を憚ハバリり、手足を限した状態にしばられ、身動きできないと決めて、今までの自分を自分で縛って、どうにもならぬと思っているにすぎません。

万一背後霊と直結している人なら、先ず枝まで手を伸ばし、足を樹にかけ、おもむろに用をたし、力一杯大声で答え、目的を達するでありましょう。●宿命、つまり、個人の運命は、その人の意志で動かす事の出来ぬ神の摂理、仏の因縁がこれを左右すると考えられているが、即ち鋳型イガタ通りにのみ人間の運命が展開して行くものであるなら、昔から、昔から道徳も修業も必要はない事になると話をいたしました。

人間に、自己というものが出来る前からその人に働きかけている運命を先天的運命と申します。即ち、その自己が出来るのも、先天的運命のなす業であります。ところが、一旦自己が形成されると、先天的運命が働いている以外に、その自己によって造り出される運命があります。それを後天的運命と申します。

しからば、先天的運命後天的運命とは胡麻のような別々であるように、また全く別々にあるかと言うとそうではないのでありまして、河上の流れはきれいであるが、下流は濁って汚ない、と言って上流と下流とは別の河ではない。上流の水も下流の水も同一の河であります。それと同じく、先天的運命後天的運命同一の河であって、人生七十年間には後天的運命先天的運命もそのまま引き続いて働いているのであります。後天的運命は、自己が造ると言ってその全部を造ろうと思えば造れぬ事はないと言う意味を申したつもりです。

●悪行を消散さす良法は、陰徳即ち報酬を望まぬ布施だと言う。もし布施をなすため何物も無い、あるいは事情が許さぬ場合には他人の施しをなすを見て、随喜せよ。随喜とは、人が彼に対して良い事をなさると随順して、心から喜ぶ事である。その随喜の功徳は布施の功徳に勝れりと、古い教本に説かれています。

布施の功徳は長者の万灯より、貧者の一灯の因縁の如くで、布施の種類や多少によるものでなく、布施にこもる誠意に存する事を言うもので、見栄や義理やでもてなす山海の珍味より誠こめた番茶一杯に、どれだけ有難味を感じる事でしょう。

良い話しを聞いた。一挙両得これからは番茶主義に転向しようと思う人があったら、それは大変な誤った考えで、番茶一杯に誠意をそそぐ事の出来る人ならその時その場、事情に応じて出来うる事は、せねばやまぬ布施心の厚い暖かい人でありましょう。

身の病と心の病

いったい、人間と言うものは大変身勝手なもので、自分の肉体の病気は大変気にいたしますが、心の病気は余り気にしません。人間は自分の指が一本でも曲がって自由をかくと、誰でも直ちに千里の道もいとわずに治療に出かける。然し、かりに心が曲がっていても一向にそれを治療しようとしない。他人に注意する場合でも、御顔に墨が付いていますよと言うと、有難うと御礼申します。ゴミが付いていますよ、と言っても大変喜びます。然し万一貴君の心が曲がっている、自分の事には大層金を使うが他の方面にはけちるも良い所ですねと言ったら、それこそ余計な事と恨まれます。まして、妻ある人に今あなた愛人がありますね、その愛人にあなたは騙されておりますね、とでも言うなら金輪際統一会に顔を見せぬ、いと難しい生き物は人間なりけりでありますね。本人の心のあり方は、その方の背後霊は毛一本落ちても百も承知で常に正しく導こうと、あの手この手で苦労しておられます。

●守護霊は、変わる事なき不生不滅、不増不滅、本智本能であります。指導の霊は、その者の仕事興味とに応じ、そして努力に対応して補助する霊で、言わば、染め付け焼き付けみたいなものでいくらでも善霊悪霊の数を増す。人盗みに励めば益々盗みに興味を覚え、神技とまで行く。正しい心霊統一によれば、誰でもが直感力が正しく付く。本地は。協会霊団に属する個々の霊であります。仕事の数が多ければ多い程興味が多く、指導霊の人数は増加する。然し、その仕事に興味をもたなくなれば、自然に離れるのが指導霊であります。<No.277

<引用者からの一言>

私は、一時期、色々なセミナーに通いました。今度こそ、このセミナーを受けたら、きっと、自分が変わるのではないのかなと、いつも期待して行くのですが、毎回、殆どが期待外れで終わっていました。更に、仕事で疲れている身で通っていたので、半分以上は眠ってしまい、殆ど耳に入っていません。お金の無駄になるばかりでした。

単発的に色んな種類のセミナーをたくさん受講しても、自分の身になるものではないと気付き、セミナー通いを止めました。そこで、何か、じっくりと習得できるものはないかなと捜しました。あるセミナーに行った時、ある武道に心が引かれました。よし、この武道を習おうと思って、行きました。行ってみたら、ちょっと思っていたのと違っていましたが、ま、いいかと思って、取り敢えず一年間続くか、不安がありましたが、通う事にしました。

そうしたら、自分の身体が凄く曲がっていました。これでは、この身体の曲がりを正すのには3年間はかかると自分で悟って、三年分の費用を払って、取り敢えず、自分の体の補正を始めて見ようと思いました。通っているとその他にも、自分発見ができました。私の声は大きいと気付きました。そういえば小学校の時の音楽の時間の合唱の時に、もう少し声を抑えなさいと音楽の先生から注意を受けていたなと思い出しました。それ以降、私はもしかしたら、声を小さく出す癖がついたのではないのかなと、発見しました。また、私の体力は人一倍あるんだと気付きました。そういえば、マラソンは上位だったけれども、運動会の短距離がいつもビリだったので、自分で走るのは苦手だと思い込んでいました。そんなこんなで、その道場に通っていたら、少しずつ自分の心が解放されてきました。随分と長い間自分で自分の心を抑えていたんだなと気付きました。声が嗄れる迄、声を出すこと、クタクタになるほど全身を動かすこと、じっと無言で坐っていること、そんな経験は今まで全くありませんでした。しかし、それが生きて行くには非常に大事であると悟りました。子供時代には出来ますが、大人になってからはありません。今の時代は、運動よりも塾通い、受験勉強が大事、子供たちの外での遊びが少なくなって、会社に就職しからはなおさらできません。心の病気になるのがあたり前です。自分の五感を全て総動員して、自分で自分の健康を心掛けて、自分で努力をしない限り、今の時代の心の病気を乗り越える事ができないと思われます。

60)一瞬と雖も自己の心の中に、虚弱感や劣等感、憂鬱感や老衰感を滞らせてはなりません。

●私等がものを見る場合、見、観、視、察、と言う四つの見方があります。ところで、この中で見ると言う字は肉眼でものを見る事、観と言う字は観音さまの観の字で、心眼つまりそのものの奥の霊的にものを観る事です。従って観察すると言う事は、守護の霊の助けを得て静かによく観る事です。霊的の助けなくして見る場合は、往々にして上っ面だけ見て、かくあらしめて居る本物を見逃す事になります。その昔、宮本武蔵は五輪書と言う本の中で「見の目と観の眼」と言って居りますが、武蔵によれば、観の眼によってのみ、剣道の極意に達する事が出来ると言って居ります。彼は観の眼、即ち心の眼の修養が一番大切だと書いています。これは単に剣道のみではありません。どの商売でも学問でも何につけても一番大切なのは、この観の眼を速やかに働かす事です。その鍵は、正しい心霊研究する外ありません。

一日暮らしのこと

正受老人は一日暮らしをせよ、と常に人に申されたと言う事は、いか程の苦しみにても一日と思えば堪え易し。楽しみもまた一日と思えばふける事もあるまじ。親に孝行せぬも、長いと思う故なり。一日一日と思えば理屈あるまじ。一日一日とつもれば百年も千年も務め易し一生と思うから大そうなり。一生とは長い事と思えども肉体を道具として居る間は限りあり。そは魂の一休みなり、死を限りと思えば果たされ易し。一大事と申すは、今日只今の心なり。それをおろそかにして翌日ある事なし、肉体はいつか滅ぶ、おろそかに思わずてきめんの今を失うべからず。今日の一日を永遠に消滅しない、我が魂の一日として観る人こそ真に今日を知れる人なり。真に未来を生かす人なり。真の心霊家なり。

一瞬と雖も自己の心の中に、虚弱感劣等感憂鬱感老衰感を滞らせてはなりません。かかる思いが心の中をかすめた時、これは低級霊の念に同調しかけたなあと思って間違いありません。人間は自己を勝利者たらしめ、積極的に幸せになる道に導いてくれる高級霊に同調する事も出来る自由性を持って生活して居るのであります。故に自分の義務に面して尻込みしては」なりません。若し、自己の面する責任や仕事、学科に対して逃避したい様な感情が沸いて来るならば、決然たって守護の霊おわすと幾度も自分に言い聞かすべきです。

高級霊とは、観音様の様な気持を持って居られます。観音様と言うのは、誠に日本上下古今に親しみのある菩薩であります。取りわけ人間には、あの千手観音がたまらなく嬉しい存在です。千手観音手を千持った菩薩――考えようによってはきわめてグロテスクな存在ですが、私共に慕われるのは、あの気持ちです。もう手も足りない、足も足りない、もう二本の手では駄目だ。三本の手も駄目、あの霊の手を借り、この霊の手を借り、あれを救い、これも救いたいと言う心持ですね。見方によっては焦躁動乱と言いますか。いらいらした気持ちの様に見えますが、そうした目に見、耳に聞く一切の人々を救いたい気持ち、それを芸術的に現わしたのが千手観音様であります。自分さえよければ他人はおろか、妻子も両親さえも見向きもせぬようなつめたい人々とくっきり対立した人格、この観音様を見ていますと、十分でも二十でも一時間でも緊張して何をしよう、何か人の為にしなければ、世間様へ今日様へ申し訳がないと言う気持ちが不思議と湧いて来ます。世間様今日様に済まないと言う、驚くべき哲学を持った私共の祖先は、千手観音様を見て語ったものと思います。 

<引用者からの一言>

私は助産師として、就職をした頃の事を思い浮かべると、何もかも分からない事ばかりで、先輩が教えて呉れる内容も殆ど理解できず、仕事が終わってからも、仕事の事ばかり考えて、休日であっても、私の頭は、仕事の事で頭がいっぱいでした。友達と遊びに行っても、仕事の事で頭がいっぱいでした。未だ来ぬ明日の仕事ばかりを考えていました。その内に仕事に慣れて来て、解決しました。

結婚して、再就職をしました。又又、新しい職場に慣れるまでが、毎日毎日が苦痛で苦痛で、又又、私は未だ来ぬ明日の仕事の事ばかりを考えていました。

同じ職場でも、時々、ローテーションが有ります。その時もまた毎日が苦痛でした。そして、未だ来ぬ明日の仕事で、頭がいっぱいになりました。その内に慣れて、解決しました。

退職をして、自宅でリンパマッサージをすることにしました。どうすればお客様が来るだろうかと、毎日毎日、頭がいっぱいでした。チラシを作って、どこに配ろうか?思い当たる処に、御願いをして歩きました。公民館でもやってみようかな、その内に乳幼児のリンパもやりたくなって、そして、ホームページも作ろうかな、ブログも書こうかなと、どんどんと頭の中が一杯になりました。毎日毎日、未だ来ぬ未来の事ばかりを考えていました。

富士山に登った時です。頂上に向かって歩きました。八合目からが本番です。そこからが大変なのです。その時、私は自然に意識が変わりました。富士山の頂上が、私の頭から消えました。そして、私の頭は、足を一歩前に出す事ばかりを考えていました。もし、富士山の頂上を、目の前の急激な斜面から眺めて、自分の頭で考えていたら、きっと弱音を吐いて、頂上まで登れなかったと思われます。

未だ来ぬ未来を憂えるよりも、今日の一歩を歩く事だけに、一点集中していれば、苦労も苦労でなくなることを、富士山が教えてくれました。やはり富士山は霊峰ですね。神様がおいでになられました。

富士山に登ってから、私の意識も変わりました。今日只今の心、それをおろそかに思わず、です。

油断して居ると、ついつい、私達は直ぐに、低級霊の念に同調してしまいます。疲れたな~、面倒だな~、あとでしようかな~、等々です。

一瞬と雖も自己の心の中に、虚弱感劣等感憂鬱感老衰感を滞らせてはなりません。

低級霊の念と同調するには、努力を要しません。自然に忍び寄ってきます。しかし、高級霊の念は、努力が必要です。高級霊の念と同調するには、自分の怠け心を、先ず。追い出す必要があります。自分の悪い癖や性格も正す必要があります。努力をせずとも、高級霊の念と同調するにはどうすればよいのでしょうか?

私は御祈りだと思います。毎日、御祈りをするのです。我が罪穢れを祓いたまえ、清めたまえ、と神前で御祈りをするのです。そして、お天道様に、我が身を悪魔や悪霊からお守り下さいませ、と御祈りをすることだとおもいます。それを毎日、御祈りをすれば、自然に高級霊と連がっていくのではないのでしょうか。<2014.3.21>

61)水は神のめぐみそのもの

●水に現われた宇宙の合目的性は、が生命に貢献する役割を持って居ると言う事であります。生命の最小は細胞であり、その細胞組織の主要素は何においてもであります。肉体は気体、液体、および固体の三方面に関係はあるけれども、身体を組織する細胞から見た場合、液体なるが膠質を溶解して居ると言う事が一大特徴であると言わねばなりません。

古代ギリシャの七賢人で世界で最初に三角関数を考案したタレスは、すべてのものは水より生まれ、水に帰ると言いましたが、それ程、は昔から注目されていたものであります。だがは単に、酸素と水素との化合物と考えるには、そこに割り切れないものがあります。をのむたび感謝せよ。はたやすく手に入るものであれば粗末になりがちですが、を粗末にすると目を患うと昔の人は申します。水は神のめぐみそのものだからであります。

●菩薩は宇宙の法則を、如実に知見し得る境地にありながら、何故娑婆世界に心を向けられて居るか。それは大智と雖も智だけでは真の仏の坐に入る事が出来ず、大悲を向上の糧として衆生を対象にし、菩薩と言う御名に於いて人間との間に立って慈悲を修業して居られるのであります。大智は空に住み空を證セイするが゙、大悲はそんな所に居られなく、そこから方便が出てこなければならなくなるのであります。この事は対立世界を否定しないと言う事です。あれはあれで良い、これはこれで良いと肯定しておいて、そのままそれをつつんでそれに即して居る世界、ここで菩薩は衆生に働きかけ真如に合一するの修業して居られる、言わば心霊的に言う高級霊であります。

<引用者からの一言>

神棚の中央には、毎日、綺麗な水を入れ替えて置きます。神社にはきれいな水が欠かせません。神様のおられる場所には必ず水を置きます。どうしてなのでしょうか?水の伝言の著者の江本勝さん、水は知的生命体であるの著者の増川いづみさん、等の本を読むと、その謎が理解できます。水は神様の伝言を、物体である私達に伝える役割を果たしているのです。

水の無い場所には、神様が降りて来る事ができないのです。硬い石は水の力で硬くなっているのだそうです。水が無くなれば、砂になってしまうそうです。だから、どんな石にも少量の水が含まれているそうです。

そうであれば、砂漠には、きっと神様が居られませんね。砂漠になっている場所はどんな場所なのでしょうか?不思議にも温帯気候の、本来であれば、人間の住み心地の良い場所なのだそうです。メソポタミア文明の跡地、エジプト文明の跡地、砂漠になっている場所は大昔に文明が栄えた場所が多いのだそうです。人間の足が入っていない場所、アマゾン地帯のジャングルのような所だけが、貴重に残っていますが、そのアマゾン地帯でさえ、現在は少しずつ砂漠化していると聞きます。

ギリシャは大昔、森林が多かったそうです。人間が足を踏み入れて、文明が栄えた場所が砂漠化しているのだそうです。砂漠化している地帯がどんどん増えています。自然農法『粘土団子』の福岡正信さんのユーチューブを見て見て下さい。https://www.youtube.com/watch?v=IXFJoTkEIWs砂漠地帯を実際に森林に変えているのです。私たちは自分達の事ばかりを毎日考えていますが、地球は悲鳴を上げています。災害が多いのも頷きます。水を増やすには、森林を増やす事だそうです。幸い、日本人は大昔から自然を壊さないで住んで来ましたが、世界各地をみるとそうではありません。フランスのルルドの水も洪水で汚れた、と聞きます。これからの時代は水戦争にはいるとも言われています。日本の森林が守られて居るのは、世界各地の森林を伐採して、日本人が買っているからなのです。世界の砂漠化の責任は日本人にもあります。水問題を深刻に考えないと、地球には神様が住めなくなってしまいます。もちろん、人間も植物も動物も微生物もウイルスも…。
<2014.3,22> 

62)幸せを望んではなりません。自己の努力ではない幸福は、自分の魂を向上さす事にはならないのでありま

●あの事、君諦めたか、もう諦めた、何と諦めたか、諦めぬと飽きためた。人生は、円の半径だと申しますが、人生も社会も人間智恵では割り切れぬものを割り切った様に考えるところに、人間の智恵による迷いが起こるのです。兎角、諦めたと思うのも諦めぬと思うのも、自分自身で、人間は何と言っても矛盾の生き物です。人生は不満と退屈との間を動揺する時計の振子だとハウエルは言って居ります。或いはそうかも知れません。

求めて得られない時は、何となくおもしろくなく不満だし、幸いにその求めたものを得られても、そこには必ず退屈が生ずるものです。歓楽極まり哀愁多しです。

満足の悲愛と言うか、兎角不満の反対は退屈であります。ところが心霊家には限りなき霊の導きがあり退屈する事がない。そうかと言って手ばなしで足が地に着かぬ有頂天の浮かれもない。しっかり地に足を踏まえ自分の魂を大切に、穏やかな明るいほほえみを常忘れぬ事は心霊研究のたまものと思います。<№.279

●十二因縁の輪廻

輪廻と言うは、仏語で我々が車の輪の廻り転じ、果てなきが如く生まれ変わり、生死流転の有様を言うのであります。

次に愚痴と言うは、十二因縁の無明の事であり、互いが死に変わり、生まれ変わったりする、生死因縁を十二段に分け、それを順次輪廻転生する次第を、十二因縁と言ったのであります。

さて、その輪廻の原因をよく調べて見ると愚痴が根本原因となっている。その愚痴は、我々生死流転の原因をなすもので、その十二因縁の一番初めにあるものが無明で、その無明が、即ち愚痴であります。十二因縁とは、無明・行・識・名色・六人・触・受・取・有・生・老死の十二であって、無明とは、即ち愚痴真理の光明の欠けた混迷なる姿を言います。

幸せを望んではなりません。幸せは自ら努力しないで、幸せを待ちのぞむ。それはパチンコの精神であります。幸せをのぞむ心は、自分の幸福を偶然の機会にまかせてしまっているから、幸せをのぞむ人は、自らが自らの主人公ではないのであります。たとえ偶然が得られたにしても、その様な幸せは、人間を一時楽にするかも知れないけれども、自己の努力ではない。したがってその幸福は、自分の魂を向上さす事にはならないのであります。努力は、それがたやすくその人に直ちに、幸せを与えないかも知れませんが、努力は決して失敗することはありません

それは、物質的な結果を得る事が出来ない場合でも、自己の魂にかがやきをそえる事になり、またそれは、その子孫にその徳をそのまま受けつがせる事になります。無論人を苦しめたり、人のものを取る努力ではありません。

<引用者からの一言>

私は学生の頃、親元から遠く離れて、一人暮らしで自炊をしていた頃、部屋の中にはラジオしか置いていなくて、毎日が暇で、暇で、退屈で、退屈で、発狂しそうな時がありました。何もする気が起こらなくて、毎日、ボーっとして、学校に行っても勉強に身が入らず、自分が自分では無い気がしながら、暮らしていました。買い物に行っても、ボーとして、買おうと思わない物を買ったりしている自分がいて、自分の行動が自分で自覚が出来ず、自分自身が密着して感じられず、そんな自分が情けなくて、毎日、毎日、自己嫌悪を感じながら生活をしていました。このままではいけないなと思いながらも、自分ではどうしようもなく、暮らしていました。

看護学校であったので、ある時期から実習が始まります。実習は病院なので、入院患者さんと会話をします。始めは何を話せば良いのか分かりませんでしたが、その内に患者さんと自然にお話ができるようになりました。色んな患者さんと接している内に、自分で自分の感覚を取り戻せるようになってきました。毎日毎日、勉強ばかりをしていて、家の中にばかり居て、閉じこもっていたら、人間は発狂してしまうのではないのでしょうか?

実習が始まる様になったら、今度は毎日、毎日が忙しくなってきて、やる事がたくさんあって、今度は、忙しくて、忙しくて、不満が出て来ました。

しかし、それでも、退屈であった頃よりも、不満でいた方が、自分が楽に感じられました。退屈はもうこりごりだと思う様になりました。今でも退屈に対するトラウマをもっています。人間は一人では生きて行けない動物なのでしょうね。でも、自分の魂の存在を感じられれば、自分の魂の成長を考えた生活が出来るようになれば、満足の悲愛、不満と退屈の輪廻から逃れられる、又は、卒業できるような気がします。そのような生き方が、中途半端な円の半径から、完全な円になる生き方なのではないのでしょうか、今までは不十分な半円の生き方だったのです。円にならなくてはいけない時代なのでしょうね。

 

63)それ程、住み良い世の中ではないものなあ。同じ力では性の悪い方が勝つから、霊的の応援が必要だ。

●汝の人相、今から先三百年この世の修業するであろう。うれしいか、と誰かに言われたら普通の人なら聞いただけで気が遠くなる。中には御助け御助けと手を合わす人も多かろうと思う。それ程、住み良い世の中ではないものなあ。

ところで安心しやれ、これより先七十年生きれば長生きの方や、たかが今から七十年位またたく間や。その間どの位自分で仕事ができるか。自分の根性玉をためし見よ。自分自身の力量で、いか程人を動かし人世に尽くせるか。猪突猛進してみることだ。

●人間幾歳になっても幸せであればあるにつけ、悲しい境遇の時、或いは、静かに一人月をながめる夜、まして自分の死期を感じた時は、暖かくしかもジーンと胸に来る恋しい人は、それは自分の恋人でも、子供でもない。自分をこの世へ人として肉体を分けてくれた母親だと思います。

それにつけて、アメリカの百貨店主、ジョン・ワナメーカーは、一九二一年創業六十年を記念する盛大な祝賀会場で、多くの人に囲まれて、八十三歳の彼はこう言ったそうです。

「私は宇宙を支配しておられる神に、この様に長い間、生きる事をお許しくださったお恵みに対し、深く感謝を捧げるものであります。わたくしは、毎朝日の出を臨む事は、私のもっともよろこびでありますと同時に、両親、ことに母親に感謝しなつかしみます。私の両親も次々と親をしたっていた事と思います。

神は、私達を悲しみや、苦します為、この世に出されたのではありません。私達はこの世にあって、天から与えられた職業を行う為、そして自分の一生をより良きものにする為に、この世に人として出されたはずです。人は彼と我との間に、壁を作ってはなりません。世界とともに栄えていかなければならないからであります」

その時、ワナメーカーの胸には、金メダルがさがっていた。それは創業六十年を記念して、一万三千人店員一同から贈られたものでありまして、その贈呈の言葉には「私達はあなたは謙虚な心の持ち主であり事を、知って居りますので、私達の心からのこの小さなメダルを贈る事にいたしました」とあった。

ワナメーカーの店では、毎年五月第二日曜日に母のための集会を開いた。それから後、母の感謝の日と定め世界中広く伝わり、日本でも母の日にはいろいろの行事があります。ほのかに暖かく忘れがたきは、母の恩であります。事実、死期において、本人の守護の霊と共に迎えに立たれるのは、生みの母の守護霊であります。<№.280

●我が魂と一口に言っても、この魂たるやいろいろの面を持つ心の集合体で、人より優れた良き面もあるかと思えば、ある時は、こんな嫌な心が自分にもあったかとあきれる悪心もあると言う、摩訶不思議な存在で、しかも形も姿も現さぬ、そのくせ人間を支配し、善因にも悪因にも結びつける偉大な力を持っています。偉大なる念力を持ち、東西南北四維遍満しちょうど、電気が偉大なる不可思議な力を示すような存在であります。故に常に心を和らげ、良き電波のみに関連する地場を心がけるべきであります。

●あの世も、この世も共に善は悪を、悪は善を征服しようとして相対している。同じ力では性の悪い方が勝つから、霊的の応援が必要だ。それが無くては心もとない。

猿の中では、強い奴が必ず悪い奴に定まっている。悪い奴が、弱い善いのを咬んでふりまわしているから、悪い奴に、それは仏の教えにそむくと説いている間に、早や善い奴をたたきのめしている。

そこでそれ、いまだ挙せざる以前の所作が必要になる。即ち守護の霊にいまだ起きない以前に、悪い奴が手出しせぬようにしてもらう必要がある。

<引用者からの一言>

あと三十年、病院の職場で働いてくれ、と、もし、私が59歳の時に、トップに言われたとしたら、私も、きっと、くわばら、くわばら、御助け、御助け退職させて下さいと言うと思います。大きな組織に就職すれば、就業年数を定年の時期に置いています。だから、退職まで、あと10年ともなれば、指折り数えて、あと、何年、辛抱しよう、と言っている自分がいます。結構、周囲の仲間もその様に、退職が待ち遠しく思っている方が多かったように思われます。しかし、その、十年からが、働き続けるのに地獄が訪れるのです。それに堪えられるかどうかです。つまり、窓際族になるのです。慣れない部署に、急にローテーション、肩たたきのような言葉を浴びせられたり、組織にとって御荷物扱いになるのです。それに耐えられるかどうか、耐えられなければ、無事に定年退職まで、こぎつけられないのです。

私も、退職の時期まで働き続けるつもりでしたが、退職まであと10年の頃に、上司から見離されてしまいました(就職当初からかもしれませんが)。だから、自分の真の人生は、退職後からと目標を変更しました。そして、退職後に何が出来るだろうかと模索を始めました。そして、セミナー通いをすることによって、未来が見えてきました。今の時代の繁栄は続かないと気付きました。時代はどんどんと変化していると。そして、みんなの意識も変化していると。組織人間とのん気人間だけがいつまでも変われないのです。インターネットをやれない人間は尚更、遅れてしまいます。就職や確定申告、年金だってパソコンでやる時代です。パソコンを光に変えて、テレビも光に変えれば、地デジ対応のテレビでなくても、昔のテレビでも映るそうです。私の姉宅がそうしています。その方がずっと安いのです。これって何なのですか?国民全員に、光の時代なのに、インターネットの時代なのに、地上波アンテナを購入させて、古いテレビを30005000円もとって回収して、回収したテレビからレアメタルをとって、高額に設けている組織はどこなのでしょうか?

ある方が言われました。悪い事をする人間を、罰したい気持ちはわかるけれども、それは国民の仕事ではない、真に罰するのは神様にしかできないと…。しかし、後始末はしなければいけないようです。その後始末は、最終的に組織に残った方がするしかないようですね。頑張って下さい、としか言いようがありませんね。

もし、私が、自分の自由意志で働く事の出来る仕事があるとしたら、そうしたら、私はあと30年働いてもかまわないと思っています。更に300年間も生きて、人生修業をしたいとも思います。ピアノも習いたいし、お習字もやりたいし、お絵描きもやりたいし、テニスもやりたいし、ゴルフもやってみたいし、やりたい事がたくさんあるのですが、肉体の寿命が許して呉れません。普通の人生で終わりそうです。物体の人生の宿命ですね。限られた時間で、この融通の利かない肉体を、いかに自分の思う様に動かす事ができるか、それがこの世に生まれた意味なのかもしれません。この世の修業如何で、次に生まれる肉体の人生が決められる様にも思われます。一歩一歩、長い永い年月をかけて、私達の肉体は進化しているのでしょうね。<2014.4.2>

64)科学者に発見してもらいたい細胞は、EP細胞でも、STAP細胞でもありません。反省する細胞です。

●人間は他の動物とちがって、自分の行い、自分の言葉に対し、常に反省するものでありまして、よく自分の迷いを押さえて、迷いの埃ホコリを静かに、沈めようとします。仏教では迷いの事を、なかなかいい言葉を使っています。暴流怒涛の様な煩悩をじっと押さえる人、こういう人を心さときと申します。こういう行き届いた考えの人は、昨日におぼれず、すっと立ち去り、向上して行く人です。然し、普通の人はこのうるさい社会生活をして行きますのに、始終ひきしまった心持覚悟と言いますが、心を整え、己を持する事は出来ません。見ればつい腹が立つ事もあり、聞けば何だか癪にさわる場合もある。毎日不用意にも反対的な死活をしている。そこで朝から晩までいちいち張りつめた覚悟を決めた生活が出来るものではありません。そんな事ばかり考えていたら、それこそ、疲れてしまいます。そこで朝お誓いし、夕反省する事です。さすれば、自然に心が和やかに軌道にのってまいります。

●自分の意志でもないのに、何時の間にか人間としてのいとなみをしている。それは、人がこの世へ生まれ出されたのは、凡て天津御親の修理固成の大法事により、その分霊ワケヒの分霊ブンレイをこの世に降ろし、よもつ御祖により即ち、(高級霊に託し)現世にて凡ての事業を習わしめ、後次々と幽界霊界と経て上りつつ大霊に化し、次に出づる新生、つまり釈迦の言う弥勒の理想郷を作らす、神業に外ならぬ天の御中主の理念であります。

従って、すきで生まれたものでも勝手に親が作ってくれたものでもなく、単に智、情、意、即ち、智の聖化、情の純化、意の強化の為、修業している人間なのであります。

●昔から、蟹は珍味だが月夜の蟹は拾っても捨てよ。この事は、蟹は大変小胆な神経質の動物で、月夜になると写った己の影を敵と思いちがいし、恐れおののき食事も取らず、その影と戦うので、その心の痛手からあわれ肉も何もなくなる程痩せるのであります。

闇の夜になれば恐れる相手なく、従って心配なく心楽しく自由に食を取るから太って脂がのり、食前で喜ばれるのであります。又、落語でおなじみの傷薬にする四六の蝦蟇エビヒキ(ガエル)も、同じ心理で鏡に映る己が姿を恐れ、タラリタラリと脂を出し、痩せるとか申します。

人も又応々にして、ありもしないものを恐れ、少し体に不調をきたすと癌ではなかろうかとか、又、いまだ現前もせぬのに、この後貧乏になり落ちぶれはせぬかと、思いめぐらすのであります。このように、今だ現れぬ内に思う事は、即ちその通りの状態に、導く水路づけをする手引きであるという事を忘れてはなりません。

●聖書の言葉の中に「富める者の天国に入る事の難事、駱駝ラクダの針の孔を通るが如し」とあります。心霊的には心の我欲に脹れあがり、人間智恵一杯にして謙虚な心を失っている者は、神の国に入る事は難し、と言う意味でありまして、聖者は富んではならぬ、と言う意味ではないのであります。愚からくる「やらず引ったくり」に快楽を感じ、ますます人情を忘れ欲深くつもるにつれて、道を忘れ行くものであります。

何もあの世迄持ち行ける財でもなし、又子孫の為と思って悪を重ね、財を残しても、その子孫が、時代に即した智恵もなくなまけものであったなら、いかに財をのこしても三代目には税金に取られて、なくなる仕組みになっているのであります。

かように、愚か者は物質欲を増し、或いはそれを肉体的欲望をみたす為、よからぬ方向に使うけれども、聖者は是に反して、富む事によってその富を神意にかなうように使い、他の人の幸福に使う聖者こそ、大いに富むべきであります。

●ヨハネは、未だかつて神そのものを見し人あらず、と言い、使途ヤコブも天なる父は変わる事なく姿顕す事なし、と申しています。私も高級霊、つまり外国で言う天使は、しばしば霊視しますが、神と自ら名乗る神を、霊視した事はありません。本当の神は波長、光、振動の異なる人間の感覚器官に映ずる事は絶対にないと思います。

万一我、神などと霊能者に憑り名乗るならば、それは先ず狐狸のたぐいと思って間違いないようです。その事は正しい心霊の常識であります。

神は、その人に因縁ある高級霊を仲立ちとして、神の理念を印象づける事はあっても、神自ら人間の感覚に自己を投影する事は、絶対にあり得ないのが波動の違いの、当然であります。

では何者が、霊能者に人の名を告げたり字で知らせたり、霊聴さすか、それは霊能者の特定なその道に達した、背後霊がさす業ワザであります。

●守護の霊を信じて求めよ、即ち与えられるであろう。探せ、されば見出すであろう。門をたたけ、即ちあけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、探す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。

●心霊研究は、すべてかくあらしめている奥を探究し、実社会に役立たす学問をしているのである。今や心霊学が新しい学問とされる所以であります。

<引用者からの一言>

新しいのか、古いのか、心の研究は、大昔からあったのではないのでしょうか?蟹ではありませんが、私達は、鏡の世界で生きています。現象に振り回されている毎日なのです。私達が見ている世界は幻だよと言われても、見える世界が現実なのですから…。見えない世界があるのかも知れませんが、でも、あちらの世界なのですから、先ず、見える現実の世界をしっかりと見据える必要があるのではないのでしょうか?嫌な事は考えない、見ない、と言って、蓋をしても解決できません。先ず、その現実(結果)から目を反らせずに、しっかり見据えて、その結果の原因を探る、原因が心である事は確実です。しかし、先に心を研究しても、つかみようがないのではないのでしょうか?

EP細胞やSTAP細胞は原因の世界の細胞なのかもしれません。EP細胞は万能細胞です。どんな細胞にも七変化ができるのです。STAP細胞はリセットです。どんなに悪い事をしても、良い事をしてもリセットされるのです。もし、人間の心が七変化したり、リセットされるとしたら、めっちゃくっちゃな世界になるのではないのでしょうか?更に、進歩もできません?進歩や進化に必要なのは、やはり、反省しかありません。

科学者に発見してもらいたい細胞は、EP細胞でも、STAP細胞でもありません。反省する細胞です。今、世界中の人々に必要なのは反省する細胞ではないのでしょうか?<2014.4.5>